彼を待つ
ぽつねんとバルコニーに立ち、エレナが亡くなった後のことを思い出した。自警団が大きくなると、クレアはいつも城に残された。戦う術がないから、戦場は危険だからと。ジョット達のいない城はがらんとして、たまらなく不安だった。
そんな時、エレナはいつも一緒に彼らの帰りを待ってくれた。何も言わず、ただ手を握っていてくれることがなんと嬉しかったことか。

エレナが亡くなった後も、クレアは変わらず城に留め置かれた。彼女の代わりに傍には『晴』がいて、冷やかな風当たりから守ってくれた。しかし、手のひらの空虚な寂しさはそのまま、代わりに埋められるものなど何もなかった。
今はもう、夜風の冷たさを遮ってくれる人すらもいない。


背後からそっとコートを掛けられてようやく、クレアは沈思の水底から浮上した。振り返ると、『晴』が訝しげに虚空を睨んでいる。

「ギーグファミリーは欠席と、伺っていたはずですが」
「内緒で祝いに来てくれたの。彼らは表舞台に出たがらないから」
「確かに。しかし……、あまり夜風に当たらない方がよろしいかと」

何か問いたげに言い淀み、しかし『晴』はそれを気遣いの言葉にすり替えた。人払いも兼ねていたとはいえ、扉の外で聞き耳を立てていた後ろめたさ故に。千里眼で見ていたクレアには、彼の心の内が手に取るように分かった。

「そうね。少し冷えてしまったみたい」

クロテンのコートの、絹を思わせる滑らかな毛並みに触れ、クレアは頷いた。城内に戻ると、煌々と燃える暖炉の温かさに迎え入れられる。手足にじんわりと血の通う感覚が広がり、過去から現代に引き戻されたように錯覚する。死後の世界から転生し、命ある間は逃れえぬ身の上を思い知らされる時のように。
クレアは過去の残り香を求めて、冷たい手を頬に宛てた。ほんのひと時、ひと時でいいから思い出に浸っていられたらと思わずにはいられない。掛け時計を見ると、捜索を打ち切る時間は過ぎていた。

「森を探し終わったそうです。フェデリコを含め、行方不明者二名は見つかりませんでした」
「そう、それは残念だわ。カサンドラには?」
「まだお伝えしていません。会いに行きますか?」

クレアが頷くと、『晴』は手燭に火を分けた。廊下を歩いていると、方々から喧々囂々たる批判が聞こえてくる。近代的な建物に慣れた者達はどうやら、古城に防音設備などないことを失念しているようだ。
エンリコの方が人望があるとか、マッシーモの方が実績があるだとか。それなのに、『姫』はザンザスばかりを贔屓にして、彼らを見ようともしない――凡そそんなところだ。ザンザスへの罵倒が少ないのは、彼を敵に回すと怖いからだろう。

「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」
「ルカの福音書ですか?」
「ええ。彼らは多くを求めるけれど、きちんと分かっているのかしら」

何かを得たら、より高い要求に応じる義務が生じる。だから、与えられたいと望む前に、要求に応じるだけの器が自分にあるか考えるべきなのだ。考えずに欲した結果は、王家なきフランスを見れば明らかだろう。
派閥ごとに集まり声高に語る姿は、王宮の貴族たちを彷彿とさせる。たとえそれが本心とは限らなくとも、甚だ見当違いで、無能なところも。その際限ない欲望の行く末までもが同じならば、なんと学習能力のない連中だろうか。人に学ぶ意志があれば、歴史はいつでも先達の過ちを教えてくれるというのに。

「貴女なら、彼らに何を要求しますか」

歴代のボスに、十代目となる者に、そしてザンザスに。彼らに付き従うマフィアたちに。権力を求める全ての者達に、束の間それを握らせる代わりに何を要求するのか。『晴』には何となく、答えが分かる気がした。歩きながら、首を少しだけ傾けて振り返れば、高貴なるものの冷やかな笑みが見えた。彼女は答えなかった――それも既に歴史の語るところだった。

カサンドラの部屋に着くと、クレアがノックをした。応えの声はなく、二度叩くと慌ただしい足音がずんずんと近づいてくる。慌てて身を引くのと、扉が勢いよく開くのとがほぼ同時だった。前髪を攫った板戸の、ぶつかっていたならさぞ痛かったろう勢いに言葉を失う。視線を上げれば、すっかり据わり切った目がこちらを睨んでいた。

「何の用かしら、九代目のお嬢さん。また私を馬鹿にしようっての?」
「いいえ、そんなつもりはないわ。さっきだって、そんなつもりはなかったの」

カサンドラは鼻を鳴らし、扉を閉めようとした。しかし、『晴』に阻まれ、忌々しげに舌打ちをして踵を返す。クレア達に背を向け、酒瓶から直に飲む彼女はうち萎れきっていた。彼女を追って入室し、クレアは袖を揉みながら慎重に言葉を選んだ。

「お知らせしなければいけないことが、あるの」
「あの人が見つかったの?」
「いいえ。森を全て調べたけれど、どこにも居ないと分かったの」

すばやく振り返り、カサンドラは酒瓶を床に叩きつけた。胸を掻きむしるような咆哮を放ち、がっくりとその場に崩れ落ちる。咄嗟に『晴』が支えたが、そうしなければ足に瓶の破片が突き刺さっていただろう。
ソファに座るよう促され、彼女は手を振り回してなおも叫んだ。

「嘘、嘘よ、フェデリコが死んだなんて!きちんと調べてないんだわ、そうに決まってる!」
「落ち着いて、まだ死んだとは決まっていないわ。森に居ないと分かっただけ」
「あの人は逃げたりしないわ!九代目の甥であることを何よりも誇りにしていた人よ、勇敢なマフィオーゾなのよ」

思いつく限りの否定が、フェデリコへの賛美と混ざって矢継ぎ早に返ってくる。クレアは反論せず、目を伏せて慨歎の嵐が収まるのを待った。頭痛が再び兆していたが、今回ばかりは耐えるしかない。
三十分も待てば、言葉も体力も尽き果てて、カサンドラは大人しくなった。酒に手を伸ばす気力もなく、ソファの上で膝を抱え、判決を待つ人の眼差しでクレアを見た。

「これから、どうなるの?どうしたらいいの?」
「……。今後、フェデリコの捜索は範囲を広げて行われるわ。彼がどこで見つかるかはわからないけれど、ボンゴレの威信にかけて必ず見つける」

たとえ現ボスの甥を死なせるためでも、ボンゴリアン・バースデーパーティの掟は必ず守られなければならい。ボンゴレは人手と費用を惜しまず彼を探し続けるだろう。

「彼が見つかるまでの間、貴女にはボンゴレの監視が付くでしょう。生活は保障される代わり、行動も少し制限されると思うわ」
「フェデが、私に会いに来るかもしれないから?命がけで?」
「彼が貴女を愛しているなら、ありえない話じゃないでしょう」

カサンドラは緩慢に頭を振り、鼻を啜った。会いに来てほしいけれど、会いに来てほしくない――確実に捕らえられ、掟に従って殺されてしまう。千々に裂けそうな心のうちが、クレアには悲しいくらいよく分かった。
クレアは彼女の傍に座り、涙でべとべとになった手を握った。

「さっきは貴女に冷たくして、ごめんなさい。私、大きな声が怖くて、怒鳴られるのはとても辛いの」

同一人物とは思えない豹変ぶりに困惑して、カサンドラはゆるく頷いて謝罪を受け取った。あんなにも冷やかで高圧的だったのに、今は二十年来の友人のように接してくるなんて、理解できない。先程の仕打ちに躊躇いつつも、カサンドラはおずおずと問いかけた。

「何か、あったの?なんだか、別人みたいよ、あなた」
「……フェデリコは、貴女の夫だけど。私にとっては、従兄だから」

言われて初めて、カサンドラは自分たちの関係性に思い至った。まさに目から鱗が落ちたような心地で、初めてクレアを九代目の娘としてではなく夫の従妹として見た。不安げに震える瞳にも、真一文字に噛み締められた唇にも後悔の色がありありと滲んでいる。
予想外だったに違いない、自分の誕生日パーティーで従兄が行方不明になるなんて。良かれと企画した催し物だったろうに、ボスの血統から脱落者が出るなんて。申し訳なさで胸が潰れそうになっているだろう。

クレアと九代目の間に血縁関係がないことは、フェデリコから聞いている。娘ではないが、『姫』という特別な役割のために養子になったのだと。この一件で九代目との関係にひびが入ったら、彼女は冷遇されるのだろうか。
そのことに思い至り、カサンドラは少し自分が恥ずかしくなった。招待客のいる前で彼女に詰め寄り、大声で怒鳴るなんてあまりにも大人げない。カサンドラは折りたたんでいた膝を伸ばし、恐る恐る彼女を抱き寄せた。

「私こそごめんなさい。貴女を責めたって、どうにもならないのに」
「……仲直り、してくれる?」
「ええ、勿論よ。ねぇ、私はボンゴレの監視下に置かれるのよね?」

カサンドラが『晴』に尋ねると、彼は当たり前のように頷いた。今は不思議と、それを受け入れてもいい気がした。不満や不満がないわけではないが、少なくとも暗闇をかき分けるようにして一人で生きていくよりかはいい。フェデリコの庇護が、ボンゴレのそれに代わる。家という名の柵に囚われ、愛する男がバルコニーの下に現れるのを待つだけ、ただそれだけだ。

「ジュリエットに改名しようかしら。ほら、ロミジュリっぽいでしょ」
「彼が現れたら、カサンドラに戻るの?それって素敵ね」
「ええ。それまで、たまには会いに来てね、従姉妹なんだから」

クレアは彼女の肩越しに、虚空を見上げた。愚かなカサンドラ、何も知らない哀れな女。貴女が従姉妹と呼ぶ子供は、貴女の愛する男を殺したのだ。それでも、彼女が心変わりせずにいる限り、寂しさを分かち合えるだろう――思う人は違えども。
そして、彼の骨を拾い上げる時が来たら、真実を知る前に安らかな眠りを与えよう。ロレンツォ修道士の与えた仮死の毒でもなく、男の短剣で胸を刺すような痛々しい死でもなく。期待に胸を膨らませ、明日を夢見るままに死の淵に沈むように。

「ええ、必ず会いに行くわ、ジュリエット」

目を閉じると、今も変わらず愛する人の姿が浮かぶ。海の彼方へ送り出したとき、クレアの中で彼は不死の存在となった。百年が経った今も、彼はかの国で生きているような気がするのだ。誰かと夫婦になり、子供をたくさん成して、幸福に生きている――そんな幻を、今もまだ見続けている。その幻想を壊すくらいなら、毒を飲むほうが遥かにいい。あの時、自ら道を別ったときのように。

人はそれを臆病だと、或いは理不尽だと詰る者だろう。別の愛を探せばいい、生きてさえいれば幸せになれるのだからと言うだろう。そんなものを望まない人だっているのに、大多数は理解を示してはくれない。
それでもかまわない、理解してくれる人が一人いればいい――初代の頃、セコーンドがそうしてくれたように。ザンザスを思い浮かべ、貴方も理解してくれるかしらとクレアは心の中で独り言ちた。


赫怒に燃えたつ双眸に睨めつけられ、スクアーロは武者震いをどうにか抑え込もうとした。ずっと求めていたものが、目の前にある。自分が抱える以上の激情、ともすれば全てを破壊しかねないほどの殺意。その激流の中で好き勝手に暴れられたら、どれほど楽しかろう。そして、この世界を構成するすべてを破壊して、生き残った愚かな人間どもを従えて新世界を築くのだ。
剣を振るい、各地を荒らして回っても、スクアーロには自分の限界が分かっていた。地位も伝手もない自分はとても小さくて、世界を揺さぶるほどの大波を起こせないと。偉そうにふんぞり返っている老人達を震撼させたくとも、自分一人では彼らの足元にさざ波一つ寄せられないだろう。

しかし、彼ならば。世界最大のマフィアに属し、血筋と権力と才能の全てを備え、何よりも絶対的な憤怒を滾らせるこの男ならば、全てを破壊できるだろう。それを間近で見られるならば、膝を折るのも悪くない――生涯で一度きりだとしても。
スクアーロは目を伏せ、持参した剣をローテーブルに叩きつけるようにして置いた。

「お前が何に怒っているのか、俺にはわかる」

ピクリと、ザンザスの眉が不愉快そうに動く。そうだとも、分かるはずがない。しかし、怒りの矛先が何に向かっているのかはわかる。それさえ分れば十分だから、こうして膝を折るのだ。案内に来たひげ面の男が、背後で息を呑んだ。当然だろう、剣帝を下した者が恭順の意思を示したのだから。
それでも驚き一つ見せないザンザスの、どこまでも太々しい態度に笑いが込み上げた。

「俺はテメェの剣になる。老害だろうが世界だろうが、全部まとめて叩っ切ってやる!」


***
間違いなく直後に「うるせぇ」って殴られる。
フェデ……フェデリコの愛称。
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