知るべき愛
ドレスの裾を少しだけからげて、クレアは廊下を急いだ。話し込んでいたせいで、狩りの終了時間に遅れている。会場に飛び込むと、ちょうど九代目が壇上で時間稼ぎのスピーチをしてくれていた。速足で駆け寄ると、彼はマイクをオフにして笑った。

「お待たせしてごめんない、パパ」
「構わないよ、お寝坊さんのバンビーナ」

癖のついた髪先に触れ、九代目は顔を綻ばせた。きっと、うっかり転寝してしまったのだろう。皺くちゃになったドレスは着替えたものの、髪型は簡単には直せなかったと見える。朝はちゃんと巻いていたのに、すっかり崩れてしまっている。

「ああ、髪のことを忘れてたわ。せっかく着替えたのに」
「なに、可愛らしいものさ。狩りを終わらせよう」

九代目からマイクを受け取り、クレアは招待客に向き直った。ザンザスがいるか確かめたかったが、背丈が足りなくて会場を見渡せない。内心の不満はおくびにも出さず、クレアはとびっきりの笑みを浮かべた。

「お集まりの皆さま、ご歓談のところ申し訳ありません。出し物の終了時刻になりましたので、一旦お開きといたします」

まばらな、戸惑いがちな拍手がぱちぱちと鳴る。戻らなかった者がいることは、この会場に居れば嫌でも分かる。彼らの安否ではなく、終了が告げられたことの意味を理解できない人達ではない。何人かは、信じられないものを見るような顔でこちらを見ている。

「出し物の評価は、晩餐会にて発表します。開会は午後十八時、大広間にてまたお会いしましょう」

明らかな解散を告げられ、人波が会場の出口へと動き出す。ボンゴリアン・バースデーパーティの緊張から、ようやく解き放たれるのだ。
水を得た魚のように騒々しく、生き生きと会場を後にする人々の表情は明るい。

その波をかき分ける人を見つけ、クレアはマイクを握る手に力を込めた。フェデリコの妻、カサンドラ・フェリーノ――フェデリコの妻だ。哀れなほど蒼白な顔が、人の波に浮きつ沈みつしながら迫ってくる。その人は九代目の前まで来ると、焦げ茶色の瞳に涙を浮かべて唇を震わせた。

「九代目。フェデリコは、どうして戻らないのですか」
「ふむ……それは、彼女に訊いたほうがよかろう」

九代目に目配せされ、カサンドラはクレアの方を見た。こんな子供に何が分かるのかと言いたげな目線を不躾に注がれる。『姫』という存在を知らない者にはよくある反応だ。どうやら、後継候補の妻でありながら、ボンゴレの事情を何も知らないらしい。クレアは慎重に、不自然にならないよう言葉を探した。九代目の前で嘘を言うと、超直感で嘘と知られてしまうからだ。

「まだ捜索中よ。もし見つかったら、そのうち連絡が来るわ」
「そのうちっていつ?」
「それは、誰にも分らない。でも、心配は要らないわ、ボンゴレの捜索隊は優秀ですもの」
「私の夫なのよ?心配するに決まってるでしょう!」

クレアはカサンドラに肩を引っ掴まれ、ネイルの突き刺さる痛みに眉を寄せた。一昔前の特権階級には、たとえ子供が相手でもこんな振舞いをする者はいなかった。礼節を知らないブルジョワだけだった、こんな風に人をうんざりさせるのは。

「人員を増やしてちょうだい。もし危ない目に遭っていたら……」
「森に人を襲う獣は居ないし、狩人もみんな城に戻っている。必要ないわ」
「森の中でライフルを撃ち合ってたのよ!怪我をしてるかもしれないじゃない」
「普通なら、救助を呼ぶわね。でも、彼はそうしなかった」

人手を増やしてもらうため、カサンドラは必死に頭を使って可能性を考えた。しかし、思い付いた傍からいとも簡単に、論理的に潰されてしまう。心境はさながら、チェスで手駒を毟り取られていく初心者のそれだ。

「酷い怪我をして、意識を失っていたら?怪我がひどくて、無線に手が届かなかったら?」
「当然、私の部下が救助を呼ぶわ。そんな大怪我をしたら、狩りどころじゃないもの」
「じゃあ、貴女の部下も彼も、共倒れしていたら?」

きんきんと耳障りな問いかけに、クレアは諦めを大いに含んだ溜息を吐いた。ヒステリックな悲鳴のせいで、片頭痛がじんわりと存在感を示し始めている。いっそ絶望を顔面に叩きつけてやりたい衝動をこらえ、クレアはやや投げやりに答えた。

「そのうち捜索隊が見つけるでしょうね、その場合は」

いかにも含みを持たせた言い方に、カサンドラは混乱した。怪我をして動けない以外に、他にどんな理由があるというのか――もちろん、死んだ場合を除いて。そして、カサンドラの知る限り、フェデリコはそう簡単に死ぬ人ではない。いくら考えても、カサンドラには彼女の示唆する道がわからない。屈辱的だが、その明晰なる頭脳に教えを乞うより他に知るすべはなかった。

「じゃあ、どうして帰ってこないの?ほかにどんな可能性があるのよ?」
「可能性は二つよ、カサンドラ。ボンゴリアン・バースデーパーティで人が見つからないときはいつもそう――死亡か、逃亡か」

高得点を取りたい、最下位は免れたい――どんなにそう思ったところで、動けないような怪我をしたらお終いだ。地面を這い回ったとしても、ウサギの一匹も仕留められないだろう。なにより、刻限を過ぎても戻れなかった時点で、彼は失格かつ最下位だ。救助を呼んでも呼ばなくても最下位なら、さっさと助けてもらえばいい。しかし、彼は時間になっても、そうしなかった。

フェデリコと彼の部下、チェルベッロの全員が大怪我を負ったのなら、捜索が進めばどこかで見つかるだろう。生死のほどはわからないが、ともかく発見されることに違いはない。そして、フェデリコ達が森の中で見つからなかったとき、彼らは逃げたのだと判明する。最下位になって殺されるのが嫌で、地位も名誉もかなぐり捨てて逃げたのだ――チェルベッロを殺して、自分の部下とともに。

ボンゴリアン・バースデーパーティーでは珍しいことではない。臆病者、ファミリーの面汚しと謗られても、生存本能が勝るのだろう。逃げたところで末路は変わらないのに、たいてい一人か二人は逃亡を試みる。そのため、行方不明者を探すときは、その可能性も含めて網を拡げておく。街へ続く村道は既に封鎖してあり、空港への出入りは構成員が見張っている。いつフェデリコが見切りをつけたとしても、国を出る前に捕まる手筈なのだ。

「あ、あの人は……あの人は、逃げたりなんてしないわ」
「それはどうかしら。鼠だって追い詰められたら猫に噛みつくのよ、人だってわからないわ」

肩を引っ掴む彼女の手を、クレアは思いっきり抓った。これ以上、間近でヒスを聞き続けるのは苦痛でならなかった。彼女は思わぬ反撃にさっと手を引っ込め、すぐ屈辱に顔を歪めた。気勢を削がれていたとはいえ、夫の命をかけた勝負に負けたのだ。

「一ついいかしら、カサンドラ。貴女は誰かを責めて安心したいのかもしれないけれど、それに付き合う義理は誰にもないのよ」
「な……っ」
「私、もう戻らないと。晩餐会の準備で忙しいの」

九代目に会釈をして、クレアはさっさとテラスを離れた。背後から狂人じみた絶叫と宥める声が聞こえたが、カサンドラが飛び掛かってくることはなかった。超直感で悟られないよう、事実だけを話すのはひどく骨が折れる。少し冷たい態度になってしまったが、あれ以上はうまく話せる自信がなかった。

晩餐会の準備はすでに万端整っていたが、建前にしてしまったため、仕方なくクレアは会場へと足を向けた。蝋燭の明かりが揺らめく廊下は、中世まで時を戻したような薄暗さと、墓場のような沈々とした冷やかさに満ちている。現代人にとっては耐え難い暗さだろうが、クレアはほっと溜息をつきたくなるような安心感を覚えた。

「待ってください、『姫』」

後を追ってきた『晴』を振り返り、クレアは薄く微笑みを浮かべた。彼が言いたいことは、すでに彼の顔に書かれている。曲がったことが大嫌いで、誰よりも自然に人を思いやれる優しい人だ。

「あの言いようはあんまりです。彼女を慮ってあげるべきでしょう」
「ごめんなさい、少し苛々していたの」
「……何かあったのですか?」

『晴』の知る限り、クレアはもっとうまく立ち回る人だ。普段の彼女なら、虚実を交えていとも簡単にカサンドラを丸め込むだろう。後にどんな現実を突き付けられるとしても、それまでは安心して過ごせるようにしただろう。相手をするのが面倒だとしても、少なくとも理屈を並べ立てたり、悪意をもって突き放したりはしない。

「いいえ、何も。ただ少し、腹が立っただけよ」
「……?」
「妻ならば、貴方達よりも彼のことを知っていたはず。それなのに被害者ぶるなんて、不愉快だったの」

クレアの表情は薄闇に隠れ、心中はさらに深い闇に隠されている。『晴』は真意を測りかねて、中途半端に開いた口を閉じた。彼女の言い方だと、まるでフェデリコには看過しえない罪があり、カサンドラもそれを黙認していたように聞こえる。
ザンザスのことかと考え、『晴』はすぐに違うことに気付いた。記憶を封じたため、今の彼女はザンザスが九代目の実子でないことを知らない。ならば何のことか考えたが、『晴』の知る限り思いつくものはない。

『晴』が頭を悩ませていると、目の前でクレアが小さくくしゃみをした。どれだけ厚い生地を使ったとて、デコルテの開いたドレスでは寒いだろう。『晴』自身もコートを取りに行くべきか悩んでいたくらい、この古城には暖房設備が乏しいのだ。

「コートを取ってきます。先に会場へ行ってください」
「ありがとう」

『晴』はクレアのそばをすり抜け、彼女の部屋へ向かった。角を曲がる前に呼び止められて振り返ると、蝋燭の明かりのもとに姿を現した彼女が笑っていた。影のない年相応の笑みは、毒気が抜けるほどに穏やかだった。

「貴方の言う通り、あんな態度をとるべきではなかったわね。後で謝りに行くわ」
「ええ。それが良いでしょう」

胸を撫で下ろし、『晴』は上機嫌に足を急がせた。ただそれも、彼女の部屋に入って、ドアに挟まれたメッセージカードを見るまでだった。署名のない、ただ二人で話したいとだけ書かれたカードだ。白地に赤いインクで書かれた文字は、蝋燭の灯りのもとではより一層おどろおどろしく見える。

「誰が、こんなものを……?」

クレアに見せるべきか、『晴』は悩み――カードを懐に仕舞った。もしザンザスの秘密を探っていた者からならば、クレアに見せるわけにはいかない。その者と接触して、秘密を教えられでもしたら、記憶を封じた意味がなくなってしまう。しかし、下手に握り潰したら、今度はより直接的な手段に出るかもしれない。九代目の傍に戻った『晴』には、それを阻むすべがない。

「署名がないな。後で返事を取りに来るのか?」

『晴』は室内に滑り込み、クローゼットから白貂のコートを選んだ。そして、手帳の一ページを破って日時と場所を書き、それをドアに挟んだ。こうしておけば、クレアを通すことなく送り主を突き止められる。
もし晩餐会が終わってもメモが残っていたら、こっそり回収すればいい。幸い廊下は暗いし、高いところに挟めばクレアに気付かれにくくなる。もし気付かれても、調べておくといえばそれ以上は追及されないだろう。



『晴』と別れて、クレアはゆっくりと歩を進めた。地下牢のつらい日々を思い出すから、真っ暗闇は好きではない。蛍光灯の、機械的で強烈な明かりも、あまり好ましくない。何もかもを暴いてやろうという凶暴さが、秘密を多く抱えた者にはつらい。
蝋燭の灯はただ穏やかに闇を薄め、幸せな記憶を引き出してくれる。マッチ売りの少女が見た淡い幻だとしても、日々の慰めには十分だ。蘇る幻想に胸を弾ませ、クレアは会場の扉を開いた。そして、薄闇の中に窮屈に身を潜める人影に気付き、目を疑った。追い求めるあまり、現実と見紛うほど強い幻覚を見るようになってしまったと思ったのだ。

しかし、その人影は確かに現実の存在で、蝋燭の小さな光さえも嫌って暗がりに立っていた。望んで暗闇に同化しているのだろう、帽子もコートも靴も、顔を隠す仮面さえ黒い。そんな恰好でまんじりともせずにいるのだから、目の慣れた者でなければ見過ごしてしまうだろう。

「来てくれたのね、ギーグの坊や」

クレアが声をかけると、彼――ギーグファミリーのボスは弾かれたように振り返った。よほど緊張しているのだろう、動作がぎくしゃくとして落ち着きがない。素早く膝を折った彼の求めに応えて、クレアは甘んじて手の甲にキスを受けた。
ギーグファミリーは、ロシアの墓堀職人と呼ばれる古参のマフィアだ。ボンゴレ同様に歴史と高貴な血を兼ね備え、サルトゥイコヴァ伯爵家の当主が代々ボスを務めている。彼らが墓堀職人と呼ばれる所以は、奇妙な風習とボンゴレ内における仕事に拠る。

マフィアは民間人だろうがマフィオーゾだろうが、逆らう人間はみんな殺す。そして、遺体を山中や海中に遺棄したり、建設現場の基礎や壁に埋め込んで処分する。しかし、ギーグファミリーは決して民間人を殺さない。ボンゴレに逆らうマフィオーゾやカルテルの構成員のみを殺し、その遺体を丁重にエンバーミングし、彼らの拠点に運んで埋葬するのだ。まるで殺しの目的は反逆者の粛清ではなく、埋葬そのものであるかように。

また、彼らはボンゴレ内では、『姫』の埋葬という特殊な仕事を担っている。『姫』が死ぬと、ギーグファミリーの使者はロシアから棺桶を携えて来る。そして、『姫』の遺体を丁重に棺に納め、ロシアへ帰っていくのだ。そのため、ボンゴレの構成員には彼らを墓守と呼ぶ者もいる。『姫』のためなら額に汗をして凍土を掘る、変わった墓守だと。しかし、『姫』の墓を守る彼らにとって、その呼び名はむしろ誇りですらある。――彼らがP2の盟友であり、クレアを盟主と仰いでいるように。

「顔を見せてちょうだい、かわいい坊や」
「仰せのままに」

ためらいなく仮面をとった彼の、ロシア人らしい彫りの浅い顔立ちに、クレアは相好を崩した。面差しはギーグの初代ボスとはずいぶん違うが、灰青色の瞳だけは変わらない。どれほど他の血が入っても、サルトゥイコヴァ伯爵家の目だ。クレアはそっと彼を抱き寄せ、強張った背中を撫でさすった。親愛の情を込めて、彼の悲しいくらい張り詰めた孤独を温められるように。

ギーグの初代ボスは、カラブリアの犯罪組織で処刑人をしていた少年だった。貴族の子だったがまともな教育を受けておらず、なにより倫理観が欠如していた。そのため、ジョットとクレアは彼を養子に引き取って、教育を試みた。彼に命の尊さを教え、曾祖母から受け継いだ殺人衝動と折り合いを付ける手助けをしたのだ。
しかし、善悪を理解し、命の大切さを知っても、衝動は収えられなかった。クレアにできたのは、たった二つ。大義名分――裏社会の人間は大なり小なり犯罪者で、犯罪者は罪深いから殺してもよい――を与えること。そして、異常な衝動に苦しみ、辛いと泣く子を愛してやることだけだった。

そして、自らの死を悟ったとき、クレアは少年に希望という約束を遺した。殺人衝動との妥協案――命を尊び、死を悼み、丁寧に埋葬すること――をきちんと守るように。そして、会えなくなっても、何度生まれ変わっても、貴方と貴方のファミリーを我が子のように愛していると。だから、クレアにとって、ギーグは愛すべき『坊や』なのだ。異常者であろうと、年齢が親子ほどに離れていようと、初対面であろうと。

「ずっと、こうしたかったわ。寂しかったでしょう、辛かったでしょう」
「……っ、私達も、ずっと、貴女に会いたかった」

ゆっくりと背を撫でる手の、温かさ。我が子を慈しむ母の、愛情に満ちた手の温かさだ。歴代ボスが願ったその手が、まさに夢に見たように自らを温めてくれる。彼女の腕は雛を守る羽のよう、人波に吹き荒れる冷たい風など微塵も感じさせない。初代の言ったことは本当だったのだ。生まれついての殺人鬼を愛してくれる人は、本当にいた――それだけで、今まで耐えて生きてきた甲斐があった。

彼は恐る恐る、彼女の背中に手を伸ばした。振り払われないと確信して、同じくらいの強さで抱擁を返す。マフィアを断罪する者にして、ギーグを赦す母の体は、今は驚くほど小さかった。殺そうと思えば、素手でだって殺せそうだ。しかし、高貴なる精神は決して揺らがず、鉄骨のようにその体を支えている。

「どうして、私たちは今まで、貴女に会いに来なかったのでしょう。こんなにも、愛されていたのに」

疑問が口を突いて出て、彼はすぐにその答えを理解した。信じきれなかったからだ。彼女が遠くイタリアで温めていた灯を、本当にそこにあると信じられなかった。数多の拒絶を向けられ、妻にさえ本性を隠さねば愛されなかったから。
そのことに漸く思い至り、彼ははっと息を呑んだ。謝らなければと思うのに、嫌われたくないと思うあまり、言葉が出てこない。そんな焦燥を感じ取ったように、ひと際強く抱きしめられる。

「大丈夫、分かっているわ」
「でも」
「いいの。いいのよ、坊や。貴方は来てくれたでしょう」

クレアも似たような立場だから、信じる難しさは知っている。それでも、疑念や不信をすべて乗り越えて、会いに来てくれた。だから、詫びる必要なんて何もないのだ。クレアはずっと会いに来てほしかった。何もかもを振り切って、迎えに来てくれる誰かを待っていた――もう百年が過ぎて、誰も来ないと思っていたから。

「貴方が会いに来てくれて、本当に嬉しいわ。晩餐会まで、たくさんお話をしましょう」
「――、」

思わず頷きそうになって、彼はどうにか思いとどまった。力を借りたいと手紙に書かれていたのを思い出したからだ。会いに来る難しさを、ギーグが抱える畏れ多い気持ちを、彼女はよく分かっていた。それでも無理を押して頼んできたということは、それだけ事態が差し迫っているということに他ならない。
彼女の目指す未来に、デイモン・スペードの手が及んでいる。ボンゴレと対を為すもう一つの希望、シモン・コザートの末裔に危険が迫っているのだ。傍に居たい気持ちをぐっとこらえ、彼はそっと彼女の腕から離れた。

「――いいえ。今は我らの使命を優先しなければ」
「あなたは、それでいいの?」
「これからは、いつでも会いに来れます。お話しする機会も、たくさんありましょう。だから、今は我慢できます」

へにゃりと眉を下げて笑った彼に、クレアもまた同じように笑った。傍に居たいのも、積もる話があるのも同じ。それでも、やっと手に入れた幸せよりも使命を選んだ我が子の思いを、母が台無しにしてはいけない。

「わかったわ。貴方に頼みたいのはね、同盟の内部調査なの」
「奴が潜り込んだのですか?」
「いいえ、それなら私の眼でわかるわ。内通者――裏切者がいるみたいなの」

ギーグは愕然として、言葉を失った。P2に属す者はみな、その崇高なる理念を信奉しているはずだ。そうでなければ、人知れず死にゆく定めを受け入れたりしない。見えぬ敵に怯える日々を、家や戸籍を捨てる可能性を、情報を守るための死を覚悟しているはずだ。
覚悟できねば、たとえP2の系譜であっても同盟への加入は認められないのだから。

「そんな……!本当に、裏切り者が居るのですか」
「沼に続いて、森が襲われたの。少なくとも、情報が洩れているのは間違いないわ」
「そんな、守護者の家が二つも欠けてしまうなんて……なんて失態だ。初代になんと詫びたらいいか……!」

憤る彼の肩をたたき、クレアは首を横に振った。悲しいかな、どんなに素晴らしい理念を標榜しても、裏切り者は必ず現れる。裏切る理由はさまざまだが、結局のところ人は正しさだけでは生きていけないのだ。

「幸い、どちらの家も絶えはしなかったけれど。次はわからないわ」
「次などあってはなりません。一刻も早く、裏切り者を処断しなければ!」
「ええ、その通りよ。そのために貴方の力を借りたいの」
「なんなりとお申し付けください。私にできることでしたら、何でも致します」

クレアの千里眼は真実を映すため、憑依や幻覚の類は簡単に見抜ける。だからこそ、デイモンはこれまでP2に潜入できなかったのだ。しかし、千里眼では複数の地点を同時に監視できず、長時間の使用は確実に寿命を縮めてしまう。P2の盟友すべての動向を、同時かつ長時間に亘って監視することはできないのだ。
裏切者を炙り出すには、菅氏以外の別の方法を使わなければならない。そのためには、決して裏切者たりえぬギーグの協力が必要なのだ。

「方法は如何様になさいますか」
「実はね、どの辺りで情報が洩れているのかまではわかっているの」

P2の情報網は正確には網ではない。クレアを頂点として縦のみに繋がる紐であり、横の繋がりはない。そのため、P2の盟友達はたいてい、自分に指令を伝える者と、自分が指令を伝える者、そして盟主であるクレア以外の同志を知らない。
指令が行き渡るにはどうしても時間がかかるが、その方が安全なのだ。もし誰かがデイモンに捕まっても、その紐が絶えるだけで全滅は免れる。

ここに来る前に、クレアは連絡網の紐ごとに異なる指令を出した。そして、デイモンが姿を見せた場所とタイミングから、どの紐に裏切者がいるかまでは突き止めた。しかし、この方法でわかるのはそこまでだ。誰が裏切ったのかは、一人一人を調べなければわからない。

「裏切り者は、どこに?」
「カラブリアからカンパニア経由、ナポリまでのどこか。守護者の家に人員を回すための連絡網よ」

最後の、限りなく声を落とした囁きに、ギーグはどきりとした。そこにシモン・コザァートの末裔がいることは、先代である父から聞いている。クレアの口ぶりから察するに、今も彼らはそこにいるのだろう。他の何を――守護者の家でさえ――失ってでも、シモン・コザァートの末裔だけは守らなければならない。
会いに来て良かったと、彼は心の底から思った。もし諦めていたら、一番大切な希望を失っていたかもしれないのだ。

「リストを渡すから、彼らを盗聴してちょうだい」

クレアはドレスのポケットから紙束を取りだし、彼に手渡した。それには、カラブリア方面の情報と、そこに流す予定の指令が書かれている。予め指令を知っていれば、盗聴した時にそれと判りやすかろうという配慮だ。
勿論、それは炙り出すための指令であり、真実は何一つ含まれていない。

「わかりました。この中に、裏切り者が居るのですね」
「……ええ。定められた連絡先以外に指令を漏らした者が、裏切り者よ」

憎悪に滾った彼の声に、クレアは自分の心に同じ憎しみがないことに気付かされた。あるのは、ソッテラネアの水のように冷たい悲しみと、冬の夜のように冷やかな失望だけだ。デイモンを相手取るには相応の覚悟を必要とするため、P2には加入者を選別するルールがある。先祖ほどの勇気を持てないと判断した場合、同盟者は我が子を同盟に招き入れられないのだ。そのため、世代を下るごとに、子を同盟に招けない家が増えている。

盟友が世代交代と共に消えていくことは、初めからわかっていた。それでも、どうしてと思ってしまう。腐敗した国より、法の秩序に従った国の方がいいのは、誰の眼にも明らかなのに。どうして、そのために戦えないのかと思ってしまう。
他人に自分と同じ覚悟を求めても、難しいことは分かっている。だから、私の子はだめだと報告された時、悲しみはしても失望しないよう努めてきた。

しかし、今、クレアは確かに失望していた。盟友達との間に、覚悟の差を感じてさえいる――ただ一人、息子と愛してやまぬギーグを除いては。無理を押して彼を呼んだのは、無意識下でそう思っていたからだろう。ようやく潜在化していた理由を意識して、クレアは力なく笑った。

「準備にはどれくらいかかるかしら」
「二週間いただければ、確実です」
「では、指令は二週間後に流しましょう」

クレアはギーグの手を取り、額に押し当てた。計画の成功よりも、今は愛する我が子の無事を願った。動揺する彼に微笑み、別れの抱擁を求める。確信を持った今、彼は躊躇うことなく抱擁に応えてくれた。

「気を付けて。無茶はしないでね」
「はい。お母様も、あまり無理はしないでください」

名残惜しく離れ、彼は仮面を付けて踵を返した。そして、クレアの見守る中、バルコニーから夜の闇へと素早く姿を消した。立ち止まることなく行ってしまっただろうことは、千里眼を使わなくてもわかっていた。それでも、頼もしい息子の姿を探して、クレアはしばらく木立に目を凝らした。
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