出来ること


指先を付けた水は、やはり、ひんやりしている。

今は五月半ば、ちょうど田植えの終わった頃だ。まだ水が温む季節には遠い。

打掛を脱ぎ、帯を解いて襲を脱ぎ、靴と一緒に水辺から少し離れたところに畳んでおく。

長襦袢を細帯で結び、髪を背に下ろしたまま、瑜葵は、湖の中に入った。

じわじわと忍び寄る冷たさに堪えながら、湖の中心に向かう。
肩まで浸かった時、瑜葵は胸の前で両手を組んだ。


「謹請し、奉る………」

瑜葵の口から滑り出たのは、神呪だ。
瑜葵の記憶にはない。瑜葵の体が、記憶を無くす前にあった習慣に従い動いている。

神呪に答える様に、水面が静謐な光を帯びていく。

光に魅せられたように、瑜葵の意識が曖昧になる。
真白の意識で、瑜葵は確かに感じた。

――天常立之神の、降臨を。





「長、見つかりました。裏山の湖です」
「湖?なんでまた……」

くのいちからの報告を受け、佐助は湖に向かった。
今の季節、湖の水はまだ冷たい。

佐助が湖のあたりに着くと、才蔵や鎌之助も姿を現した。

そして、目の前にある光景に絶句した。


「な……んだ、これ」

湖全体が、月明かりではない光を放っている。
辺りには清浄な空気が立ち込め、無意識に緊張するほど大きく凄絶な存在が感じられる。


湖の真ん中に瑜葵の姿が見えるが、佐助には瑜葵と呼ぶ事は出来なかった。

ただならぬ緊張感が水面さえも静めており、とてもではないが介入できる雰囲気ではない。


「神よ、こたびの戦の命運をお教え下さい」

瑜葵のか細く小さい声が、発せられる。その双眸は、平時の光を宿していない。

「こたびの戦、長篠にて、決着つかず。命運は勝利にあらず」

再び瑜葵の口から発せられた声は、朗々として涼やかに、水面に響いた。

「神よ、どうか加護を。皆に、先ある命をお与え下さいませ」
「巫女よ。我が加護は、我が巫女にあり」

声が切れたと思うと、湖から光が消える。
同時に、瑜葵の回りにあった緊張がさっと霧散し、その体が水の中へ傾ぐ。

佐助は木の上から飛び出し、瑜葵を水から引き上げた。

「瑜葵ちゃん」
「……さ……、け、さん」


ごほごほ、と瑜葵が噎せ込む。瑜葵の意識がある事に安心して、佐助は溜息をついた。

「こんなところで、何してんの?ずぶ濡れになって……」

言い差して、はた、と佐助は言葉を止めた。瑜葵の単衣は濡れて、その肌に張り付いているのだ。

普段は着物にごまかされる身体の線が露になり、更には、うっすら透けている。

旦那じゃないが、破廉恥な。
佐助は首をぎくしゃくと、壊れたからくりの様に回した。

才蔵と鎌之助が、瑜葵の状態に気付き、直ぐさま逃げた。

もし見たことを信玄や幸村に知られようものなら、間違いなく焼き殺される。

(後は任せた、長!)
(後で殺す鎌之助、才蔵!)

二人に向けた殺気に気付いたのか、瑜葵が身を震わす。
佐助の怒りを、自分に向けられたものだと思ったのだ。

「ごめん、なさい。何かしたかったのです、私に、出来ること……」

「……はぁ……今は、早く屋敷に戻ろっか。話と説教は後でみっちりするからさ」


説教は後でみっちりする。
その言葉に、瑜葵の顔から完全に血の気が引いた。





「いい?瑜葵ちゃんは、『甲斐の姫』として知られてるんだよ。戦をする時、相手に捕まったら人質にされたり、殺されたりしたっておかしくない。それをのこのこ外に出て……!」
「……」

がみがみと佐助が怒る。軍議が終わった幸村らが近付こうにも近付けない雰囲気だ。

特に、いつも怒られている幸村は既に体が逃げている。

「それで?託宣って何なわけ」
「神降ろしをして、神に未来を見て頂くのです。今年は豊作だとか、洪水がある、とかを」

「瑜葵ちゃん、何でやり方知ってるの?巫女だった頃の記憶……戻ったの?」


え、と瑜葵が聞き返そうとした瞬間、二人の傍らの襖がすぱんと開いた。
信玄と幸村を筆頭に、家臣らが部屋になだれ込む。

「それは真か、佐助!?」
「記憶が戻ったのでござるか!?なんと、驚きでござる!」
「何盗み聞きしてんの一国の主とその家臣」

佐助の射殺さんばかりの目線に、幸村と信玄以外が震え上がる。

二人は平然と、瑜葵の傍らまでやってきた。
瑜葵は、きょとんとして彼らを見つめるばかりだ。

「瑜葵殿、勝手な行いはいけませぬ!某、とても心配し申したぞ!?」

幸村の後ろから、その通り!私も!という声が聞こえてくる。
「……心配、させて……ごめんなさい」

反省して、瑜葵は項垂れた。その頭を、信玄の大きな手が撫でる。
次いで舞い降りた信玄の声には、安心と情が滲んでいた。

「全くじゃ。瑜葵よ、今度からは佐助か霧隠を連れていくようにせよ。よいな?」
「……はい」
「そら、お前達も、こんな夜中にうら若き女子の部屋に入るでないぞ」


信玄からただならぬ気配を感じ、家臣らが慌てて「失礼しましたぁ!」と叫んで走っていく。

誰も居なくなったのを確認し、信玄は瑜葵に問いかけた。

「神降ろしをしたのか、瑜葵?」
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