春桜 壱

小田原平定から半月が経った頃、佐助が言った。桜が咲いた、と。

「さくら、とは何ですか?」

不思議そうに問うた瑜葵に一瞬驚いた後、佐助は訊ね返した。

「瑜葵ちゃん、もしかして桜を見たこと無いの?」
「はい。さくら、とは、何ですか?」

どうにも発音が平仮名のように感じて、佐助は半紙に『桜』と書いて見せた。

五枚の花弁の絵も添えて渡すと、瑜葵は不思議そうにまじまじと見つめる。

「さくらは、花ですか」
「木の名前だよ。春が来ると、桃色の花を咲かせるんだ。すっごい綺麗なんだぜー?」

「桜……今咲いてるのですか?」

「まぁね。それでね、桜を見る事を花見って言うんだけど、武田で花見大会が有るんだ。瑜葵ちゃんが出るかどうか聞こうと思って」

「出てもいいのですか?」


意外そうに、瑜葵が目を丸くする。

なんでかと考えた佐助は、半月前、不用心にも門の前にいたのを注意したことを思い出した。
確かに、当分危ないから外出は控えろとは言ったが。

「もっちろん。瑜葵ちゃんは武田の姫なんだよ?むしろ、出なきゃ招待客から文句が来るよ。瑜葵ちゃん、結構有名だから」
「う………緊張、します」

「いーのいーの緊張なんかしなくって!瑜葵ちゃんは普段通りでいいの」

「う、はい。あの、花見大会はいつするのですか?」
「明日」

…………。

佐助と瑜葵の間に沈黙が落ちた。

「……ええと、もう一度……」
「明日ね、花見大会」
「やっぱり、こ、心の準備が………」

突然の事態に、瑜葵は目を回した。
どうしようどうしよう。のんびり準備しようと思ったのに。

桜を見たこともなければ、花見が何をするのかも知らない。
何をどうしたらいいのかわからない。

ぐるぐると考える瑜葵を面白いなぁと眺めつつ、佐助はひらひらと手を振った。

「心配要らないって。旦那もお館様も居るし、俺様もちゃんと影から見守ってるからさ。って瑜葵ちゃん、聞いてる?」

おーい、と佐助が声を掛けたが、混乱しきった瑜葵は聞こえていなかった。




ぐるぐると考えている間に昼が過ぎ、夜が更けて、朝が来てしまった。

ぎくしゃくしながら、女中達に従い瑜葵は支度を始めた。

長く量の多い髪は、美女の第一要素なので良いには良いのだが、ただ櫛を入れるのですらやたらと時間がかかる。

ようやく櫛を入れ終わったところで、お館様の来訪が告げられた。

「瑜葵よ、今日の花見大会には、これを着よ」
「これは……?」

お館様が持って来たのは、女物の小袖だった。
白に一滴の紅を溶かした様な布地で、総柄に薄桃色の花びらを刺繍している。

「お主に誂えた春物の小袖の中で、これが1番似合う様に思うてな」
「春物の……、!」

思い起こせば、下町の暴漢の一件で、春物の小袖を誂える予定が吹き飛んでいた。

後に手配してくれていたのだと知って、瑜葵は心が温かくなる心地がした。

小袖を手に取ると、光沢のある生地がさらりと手を撫でる。
可愛らしい桃色の刺繍が、とても愛しく感じられた。

「お館様、ありがとうございます……!」
「うむ。気に入ったか?」
「はい!すごく可愛らしいです」

笑み零すと、お館様も満面に笑みを浮かべた。
瑜葵が気に入るか、少しだけ不安だったのかも知れない。


「では、儂も準備せねばならん故、また後でな。是非、それを着たお主を見せてくれ」
「はい、お館様」
「ちょっと瑜葵ちゃん、扇子のことなんだけど……ってまだそんな格好なの?!」

帯にさす扇子を幾本か持ってきた佐助が、瑜葵の恰好を見てぎょっと目をむく。

宴はあと半刻もしないうちに始まるのだが、瑜葵は未だ髪も結っていないし着付もまだだ。

時間を鑑みても、小袖を眺めながら花を飛ばしている場合ではない。

佐助は扇子を置いて、すっと表情を引き締める。

そして、櫛をとった手で女中を控えさせ、素早い手つきで支度を整え始めた。





宴会場は館から少し離れた山辺で、白い布で囲ってあった。
瑜葵が入場すると、一気に注目が集まる。

「瑜葵殿、こちらでござるよ!」
「幸村さん」

真っ赤な着流し姿の幸村に手招かれ、瑜葵はその左手に座った。
席が幸村の隣だったことに、しらず瑜葵は安堵した。
やはり、見知らぬ人たちがいる場所はやや心細くあったのだろう。

「瑜葵殿、その着物とても似合っているでござる!」
「ほんとうですか?お館様が、誂えて下さったのです」
「流石はお館様!時に、瑜葵殿は桜を見るのは初めてでしたな」
「はい。とても、……綺麗」


見上げた空に、桃色が掛かっていて。降り注ぐ紅雨が、花を儚いものにする。
とても、綺麗だった。

この花は、下手な美辞麗句を述べて表現するに相応しくない。
綺麗――それが全てだ。


「瑜葵殿の方が、桜より、き、綺麗にござる」

真っ赤になりながら、幸村はぎこちなく褒めた。
瑜葵は予想しない言葉にきょとんとし、それから微笑んだ。

「ありがとう、ございます」

思いがけなく微笑まれ、ますます顔を赤くし、幸村は次は何を言おうかまごついた。

助けを求めて大山田に目を向けたが、頑張れと言わんばかりの笑顔を返される。

「春ですなぁ」
「春ですねぇ」
「おおお大山田殿!そ、某そのようなつつつもりでは」
「はい?私は桜が咲いていますから春ですなと言ったのですが」

恐ろしいほど完璧な笑顔で返され、幸村は顔から煙が出そうなほど真っ赤になる。

いよいよ困った思った幸村は、救いとなる鮮烈な赤を視界の端に見た。

「瑜葵殿、お館様がおいでになったでござるよ!」
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