涙を拭く、優しい手

まだ、ハンコックも生まれていなかった、本当に小さかった頃の話。

ステラは病弱で、二年も三年も寝込んでいた。
友と呼べる者もおらず、微熱や咳に苛まれながら、一人眠る日々。
時計の音と、咳が時々重なる他は、何もなくて。ステラは、それを淋しいとも思わなかった。
ただ、息をしているだけ。

   
そんな、なんにもない時間の中にいたから。
自分は、なんにもないのだと。いつからか、ステラは納得していた。




白ひげはその晩、マルコからの報告を纏めていた。
海賊といえど、決まりはある。
うるさくない程度に、しかし秩序は保たれるように、ある程度暗黙のルールというものはある。

息子達が悩んでいたりしたら相談にものるし、やけ酒にも付き合う。
白ひげに直接愚痴を言いやけ酒を持ってくるのは、隊長格くらいのものだが。
(マルコもよく仲間の相談にのっているが、その世話焼きのマルコは、白ひげによく相談する)

因みに、最近来た息子らのお悩み相談は、『ステラちゃんと話をしたいが、どうしたらナースを怒らせず、かつステラちゃんを怖がらせないか』。

白ひげは、菓子とお茶と礼儀を持ってけと言った。ナースに関しては、目を盗めと助言。
ステラのことになると、ナース達は貢ぎ物では騙されてくれないからだ。


後にフルボッコにされた息子を見て、サッチを見習えと言って置いた。
サッチは未だ、ステラとお茶をしながらもナースに殴られていない勇者である。
(マルコはいつぞや、弱みを握られたと愚痴ってきた)


さて、白ひげは書類に目を通し終え、寝ようかと立ち上がった。

が、ドアがノックされた。
因みに、白ひげの部屋のドアをノックするのは、ナース、マルコ、ジョズだけで、後は泣きながらか喚きながら入ってくる。

入るよう促すと、入ってきたのは、ナースでもマルコでもジョズでもなかった。


「ステラじゃねぇか。こんな夜中に、どうしたぁ?」

「……ニョンさまが……」


悲しげに、それでも、どこか嬉しそうに――ステラは、笑っていた。
自嘲めいたところが、僅かに読めた。

入口に立ったままのステラを手招き、ソファーに座らせる。
寝間着らしい、上品な薄いブルーのネグリジェに身を包む。夜中に男を訪れるには、随分無用心な形だ。


「ニョンさまが、……発ちました」
「いつだ?」
「つい、先程。私が気にかけていた、九蛇の、生き別れた子供達を、九蛇に戻す、って……私が作った、扉を、越えました」

はらり、と涙がステラの頬を伝う。


「『ニョンさまの望む場所に繋がる扉』を、作りました。人知れず行きたいから、と、誰も呼ぶな、と……」
「……女ってのは、強ぇな。でもって、優しい。あの婆さんも、並の根性じゃねぇ」

優しく、けれど、やや力強く。白ひげはステラの頭を撫でた。

「どうしたら、いいのでしょう、私は、まだ、一人じゃ立てない……誰かの優しさに縋らないと、笑うことさえ、うまくいかないのです。ニョンさまが、行くと言ってくださらなかったら、歎きながら、動かないのです」


鏡を見て。溜息をつき、心の中の暗い思いに、枕を濡らす。
そうして、動けばいいのに、動かないで、うじうじと思い悩む。

そんな自分に、ステラは会ったことがない。

九蛇にいたときも、奴隷に貶られたときも、決断は簡単におりた。覚悟は簡単に決まったのだ。

なすべきこと――ハンコック達を守ることをなすために、何をすれば良いか、ステラにはすぐにわかった。


「最善が、見えない……私は、今、何をしたら良いのでしょう……命令もなく、使命もなくなって、今の、私は、……何もわからないのです」

「――馬鹿を言ってんじゃねぇ」


不意に、白ひげがステラの歎きを遮った。ステラは不思議そうに白ひげを見上げる。

「なにが、何もわからねぇだ?アホンダラ。俺は、そんな馬鹿を船に乗せた覚えはねぇ」


いらいら、した。
ステラが、何もわからないと歎いた時。血が沸き立つほどの苛立ちを覚えた。


そんな風に、蔑ろに――そう、白ひげは、蔑ろにされたと感じたのだ。

今のステラは、何をしたらいいかわからないという。それは、言い返せば、白ひげのために何もしていないという事だ。



それが、たまらなく腹立たしい。
ステラが何もしていない等というのは、自分の命令を蔑ろにしたということだ。
それが許せなかった。

船員ではあるものの、娘としていないのに。ステラが自分に従わない、自分の意を受け入れない、理解しない事に、怒りを覚えた。不満を持った。


「………」
「俺は、おまえに付いてこいと言った筈だ。何も迷う必要なんかねぇだろうが」

はっとして、ステラは口を手で覆った。
そして、考えるように視線をさ迷わせ、ステラは、はらはらと涙を零した。


「白ひげ、さま。私、……付いていくには、本当に、足りないものばかり……そう、ですね、……足りないんです」


囁めきごとをするかのように、ステラは小さく呟いた。その目は、喜びと、驚きと、安心とに彩られて。


「私は、貴方の為に、いいえ、白ひげ海賊団の為に、強くならなくては、いけないのですね。どうして、迷ったのでしょう、……私は、その為に、此処に居るのに」
「ステラ」


呼ばれて、ステラの目が、白ひげを見上げる。
その目に、『どこへなりとも付いていく』と答えた時の輝きを見て、白ひげは、不満や怒りが無くなるのを感じた。


「目ぇ閉じろ」

ステラは素直に、目を閉じた。自分に従順な態度に、白ひげは、ますます、心の晴れるのを感じた。

ステラの泣き濡れた目尻を、なるべく丁寧に拭ってやる。指に触れた雫は冷たく、しかし、とても大事なものの様に思えた。

ステラはぴくりと震えたが、大人しく目を閉じたままで。

白ひげは、自分も老いたなと思った。
ステラがいつか、船を下りるまでと心した筈なのに。ステラを従える事、ステラの全てのベクトルが自分に向く事を、望んでいる。

たかだか二十歳すぎの小娘に執着しはじめた自分に、呆れもし、また、苦笑した。

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