哀哭する心
悪夢を見る。それは浅瀬に打ち寄せる波のように訪れ、忌まわしい記憶を思い出させる。今回はフィッシャー・タイガーと初めて言葉を交わした日の再現だった。
あの日、ステラは次の宴で使う奴隷を選別するために、奴隷達の居住区に足を運んだ。オークションに行く予定を控えていたから、いつも以上に気が重かったのを覚えている。新しい奴隷達が住むスペースを作るには、古い奴隷を処分しなければいけないからだ。

魚人達の水槽がある区画を訪れたとき、ステラは一際強い憤怒を感じた。見聞色でひしひしと伝わるそれは、肌を焼かんばかりに苛烈だった。爆弾付きの首輪を嵌められた時点で、怒ろうが嘆こうが無駄だというのに。
ステラが部屋に入ると、奴隷達はみな震え上がった。天竜人の寵姫が彼らの住まいに来る理由はただ一つ、宴で弄ばれる者を選ぶためだからだ。深く頭を垂れた彼らの体から、痛いくらいの恐怖が伝わってくる。できるならば彼らの肩を叩いて、怖がらなくていいと言ってあげたかった。

しかし、ステラにはできなかった。天竜人以外の誰かに優しくしたら、天竜人が悋気を起こすからだ。嫉妬に駆られた天竜人は、手が付けられないほど苛烈で恐ろしい。奴隷達を片っ端から拷問にかけ、寵姫を惑わせたと自白するまで嬲り、惨殺してしまう。それでも気が済まないときは、無関係の奴隷達までも百人ばかり殺してしまう。
初めてその暴虐を招いてしまったとき、ステラは決して天竜人以外に優しくしないと心に決めた。陰で悪逆と謗られようと、無意味な虐殺を防ぐにはそうする他なかった。

ステラは奴隷一人一人の健康状態を検分し、選んだ者の名をリストに書き起こした。選別を免れた者の安堵と、選ばれた者の懇願がステラの心に突き刺さる。それでも平静を装って、古株から新顔へと順番に作業を進める。新顔は比較的元気な上に、この作業の意味を知らない者も多い。ほとんどが選別を免れるなか、赤い肌の魚人の番になった。憤怒に滾る彼こそが、フィッシャー・タイガーだった。

「これは一体何なんだ、あんたは何をしに来たんだ?」

問いを無視し、ステラは彼の状態を検めた。躾のために鞭打ちを受けたと報告があったが、少しも弱っていない。怒りに満ち溢れている分、気力もあってまだまだ処分の対象にはならなさそうだ。そんなことを考えていると、タイガーは立ち上がってステラの手からリストを奪った。

「おい、これは何だと聞いているんだ!」
「馬鹿、そのお方に喧嘩を売るな!殺されちまうぞ!」
「申し訳ありません、こいつ新入りなもんで礼儀がなってなくて……!どうか命だけは……!」

すぐに他の魚人たちが彼を押さえ込み、ペコペコと頭を下げる。彼らの心に恐怖が渦巻いているのを、ステラは見聞色の覇気でひしひしと感じた。しかし、新入りの彼は――フィッシャー・タイガーは、罰せられて然るべき無礼を働いてしまった。もし彼の無礼を許したら、ここに居る魚人達は全員、嬲り殺しにされてしまう。ステラは奥歯を噛み締め、罪のない魚人たち諸共にタイガーを蹴り飛ばした。

「控えよ無礼者!誰も話してよいとは言うておらぬ!」
「……っ!」

覇気を込めた蹴りを受けて、魚人達は痛みに打ちのめされた。予てより粗雑な扱いを受けている彼らは、人間の奴隷よりも怪我が多い。骨折や打ち身に響くだろうことは、蹴ったステラがいちばんよく分かっている。
だから、ステラはこれで終いにしたかった。しかし、タイガーは空気を読まず、なおも立ち上がる。彼が反抗すればするほど、ステラは彼らを虐げねばならないのに。

「この者、名はなんと言ったかしら」
「記録によると、タイガーと名乗ったそうです」
「そう……」

ステラの問いに、同行している部下達が答える。タイガーの視線がステラの首輪から、彼らの首輪へと移り、またステラへと戻ってくる。マリージョアに来たばかりの彼は、奴隷の間にも序列があることを知らないのだ。より良い境遇を求めて、政府の手先となった奴隷が居ることを。

「タイガーとやら。まずはそこに跪きなさい」
「ふざけるな!お前らは俺たちと同じ奴隷だろう、なんで天竜人でもないお前らに跪かなきゃならねぇんだ!」
「ええ、私は天竜人様の奴隷だけど……お前達と同じではない」

ステラはこれ見よがしにため息をつき、背後に控える奴隷兵に手振りで命じた。体躯のいい奴隷兵が棍棒を振り上げ、タイガーを力いっぱいに殴り倒す。二度と立ち上がれないよう、何度も何度も殴りつけた。心行くまで打ちのめした奴隷兵が背後に下がると、ステラは彼を見下ろした。

「私は何をしても許される。お前の骨を折ろうと、鱗を剥ごうと、理不尽に打ちのめそうと、切り刻んでサメの餌にしようとも……すべてが許される」
「……!なぜ……、人間だからか?魚人じゃないからか!?」
「いいえ。私が天竜人様の妻だからよ」

言葉を失うタイガーに、ステラはにっこりと笑ってみせた。慈愛の欠片もないその笑みに、見世物のように並べられた魚人たちは震え上がる。新入りと違って、彼らはよく分かっている――ステラの言葉は、嘘偽りない真実であると。

「私への無礼は、我が背の君への無礼。決して許されるものではないわ」
「……っ」
「お前を杖刑二十回に処す。それで身の程をよく理解せよ」

そう言って、ステラは手振りでタイガーを連れて行くよう部下に命じた。残虐な刑罰が好きな奴隷兵は大喜びし、彼の首輪に鎖を付けた。そして、何を思ったのかバインダーを拾い、ステラに差し出してきた。
タイガーの血と泥で汚れたそれを、ステラは奴隷兵の鼻先に叩きつけた。バインダーがバシンと小気味いい音を立てて割れ、紙束がバサバサと床に落ちる。

「気の利かぬ部下だこと。手が汚れてしまったわ」
「も、申し訳ありません!」
「お前などもう要らぬ。この魚人と一緒に罰を受け、労役に努めよ」

部下がひいと悲鳴を上げ、床に這いつくばって許しを乞い始める。虐げる側にのし上がった者が、虐げられる側に落ちればどうなるか――彼らは嫌というほど分かっている。必死に許しを乞う彼を、別の奴隷兵が棍棒で叩きのめし、タイガーとまとめて部屋の外へと引きずっていく。血だらけの彼の姿を最後に、悪夢は唐突に幕を下ろした。


悪夢から覚めた時、ステラは状況を理解するまでにかなりの時間を必要とした。過去に苛まれたままの頭では、状況をうまく呑み込めなかった。船特有の軋みと揺れ、マリージョアらしからぬ室内の様子、清潔な寝台の肌触り――現実の今を実感するまでは。
過去が遠のくと、誰かと言葉を交わしたときの朧けな記憶が蘇ってくる。看護師と思しき女性と、彼女が言った言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡った。

此処は白ひげ海賊団で、小舟で流されていたところを拾ったと彼女は言った。しかし、ステラの記憶はフィッシャー・タイガーとの押し問答を最後に途切れている。頭に衝撃を受けた覚えがあるから、恐らくは殴られたのだろう。時間がなかったとはいえ、無理矢理ねじ伏せてまで助ける必要があっただろうか。
彼にとって、ステラは憎むべき対象だ。人間であり、天竜人の妻であり、奴隷達を虐げる側にいた。助ける価値のない人間であることは、ステラ自身もよく解っている。

「タイガー……どうして……」

どうして助けたのだろう。あの時、ステラは死ぬつもりだった。天竜人の並々ならぬ執着心から逃げ遂せるには、それしかないからだ。なによりも、四年前にぽっきりと折れてしまった心には、展望のない未来を生きる気力がなかった。屈辱と絶望を抱え、一人も味方のいない世界に歩き出す勇気もなかったのだ。

ふと、ステラはかつてマリージョアで読んだ、身分を捨てて市井に降りた天竜人の記録を思い出した。彼らは市民の暴動に巻き込まれたと書かれていたが、実際は世界中の憎悪をその身に浴びて殺されたのだろう。生死は不明とされていたが、民衆が生かしておくとは到底思えない。天竜人の暴虐に加担したステラも、ここを離れればすぐにも同じ目に遭うだろう。

「そうなのかも、……」

己の罪を思い知り、民衆の憎悪を浴びて惨たらしく殺されるべきだと――タイガーはそう考えたのかもしれない。これまでしてきた事を思えば、当然の報いだろう。それでも――それでも、あんまりではないかとステラは思う。この胸に抱えた、叫びたいほどの虚しさを、誰にも理解してもらえないのはあんまりではないか。

本当は、天竜人に媚びたくなどなかった。暴虐を礼賛したくも、加担したくもなかった。天竜人の寵愛も、破格の待遇もいらなかった。奴隷達を虐げたくなかったし、死なせたくもなかった。助けられるものなら助けたかった。奴隷達には、自分も同じだと、同じくらい辛いのだと分かってほしかった。
そんな気持ちを全部押し殺して、ただハンコック達を守るために頑張ってきたのだ。それなのに、この気狂いしそうな孤独を抱えて一人で死ぬのが相応しいなんて。

「……っ」

四年も昔に焼き付けられた背中の印に、古い記憶の痛みが蘇る。割り切るには深すぎる絶望を、必死に心の底に押し込めた。それでも悲しみは尽きなくて、涙はぽろぽろと零れる。興奮したのが悪かったのか、ぐらぐらと眩暈がした。まだ回復には程遠い体では、もうこれ以上考えることもできない。押し寄せる疲労に負けて、ステラはまた眠りについた。



月の明るい夜だった。白ひげは空を仰ぎ、酒瓶を傾けた。見聞色の覇気を使えば、夜更かししている息子たちの様子が手に取るように分かる。ポーカーで負けたマルコが悔しがり、ハルタが夜食のパンケーキに胸を弾ませている。彼らの楽しそうな気配は、月なんかよりも旨い酒の肴になる。
しかし、今日はいつもと違う気配が一つあった。医務室の方に、氷を抱いたような寂しい心がある。身を切るように悲泣する理由が何であれ、哀絶極まる心の悲鳴は尋常ではない。

「グラララ……自由になったってのに、何をそんなに嘆くことがある」

彼女は何を嘆いているのだろう。天竜人の妻という地位を失ったことだろうか。
もし彼女がマリージョアへ帰りたいと望んだら、次の港で民衆の前に放ってやろう。天竜人がどれほど彼らを苦しめてきたか、その身をもって思い知れば良い。
栄耀を好む毒婦ならば、四皇に取り入ろうと考えるかもしれない。天竜人をも篭絡した女だ、自らの美貌と才知で乗っ取れると思ってもおかしくない。その場合も、さっさと摘まみ出してしまおう。どんな美女でも、家族の輪を乱すような輩は乗せたくない。

もし、彼女が噂されるような人ではなく、富も権力も求めず、マリージョアや四皇の庇護をも望まないのならば。このままモビーの腹に隠して、海軍も海賊も来ない辺鄙な島まで乗せてやるのも悪くない。この世に絶対はないが、運が良ければひっそりと息を潜めて暮らせるだろう。
ますます会うのが楽しみになってきて、白ひげは喉の奥で笑った。随分と長く航海してきたが、この心を楽しませるものが流れてくる。やはりグランドラインは良い海だ、刺激に満ちて一向に飽きない。眠りの海へ沈む女の心を思い、白ひげは盃を傾けた。
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