溢れる恐怖
夢を見る。マリージョアに居た時の、気狂いしそうな絶望の夢だ。豪華だが冷たい寝台に横たわり、頭の中で響く声にただ耐えるだけの夢。
助けを求める声、苦痛を訴える声、絶望と憎悪を叫ぶ声――見聞色の覇気は、奴隷達の嘆きをあますことなく伝えてくる。彼らの怨嗟は止むところを知らず、気狂いしそうなほどにステラを蝕み続けた。


眠りから覚めて、ステラは安堵の溜息を吐いた。飾り気のない天井を見て、夢を夢と知るのはもう何度目だろう。悪夢の残滓を拭い去りたくて、ステラは見聞色の覇気で船の様子を探った。
この船はいつも活気に満ちていて、誰もがのびのびと自由を満喫している。死に怯えることも、心を偽ることもない。たまに誰かが喧嘩しているが、ただ単に血気盛んなだけで互いへの憎悪や嫌悪は感じられない。マリージョアを忘れられないステラにとって、彼らの在り様はとても心地が良い。春の穏やかな陽だまりや、そよ風に聞こえる子守唄のように悪夢を遠ざけてくれるのだ。

「ステラちゃん、調子はどう?」

ベッドを囲うカーテンがそっと引かれて、すっかり顔見知りになった看護師が顔を覗かせる。名前はタバサ、白ひげ海賊団の看護師長であり、ステラの担当看護師でもある。緩やかにウェーブした茶髪と、同じ色の垂れ目が愛らしい女性だ。
意識を取り戻してから一週間、彼女の丁寧な看護と細やかな気配りに、どれほど感謝しただろう。ステラは微笑み、傷に障らないようゆっくりと体を起こした。

「おはようございます、タバサさま。傷のことでしたら、今は痛みません」
「よかった。あとで包帯を替えましょうね」
「ありがとうございます」

ステラが微笑むと、儚げな容貌がいっそう美しく儚いものになる。今にもほろほろと崩れてしまいそうな、砂糖菓子のような脆さを感じさせてやまないのだ。細腕に巻かれた白い包帯さえも、彼女の印象をより壊れやすいもののようにしてしまう。おかげで看護師はみんな、この一週間ですっかり過保護になってしまった。

「うん、すっかり顔色も良くなったわね。運び込まれた時は、どうなることかと思ったけれど」
「その節は、本当にありがとうございました。タバサさま」
「さまって付けなくていいのに」

もっと親しみを込めて呼んでほしいと言うと、ステラはいつも少し困った顔をする。決して迷惑がってはおらず、申し訳なさが先立ったような表情を浮かべる。奴隷として過ごした期間が、そうさせているのかもしれない。今の彼女にとって、誰かと親しくするのはとても難しいことなのだ。
それでも、機会があれば必ず、タバサは砕けた呼び方を求めるよう心掛けている。足枷が外れ、垣根を越えたいと思う時に、彼女が躊躇しないように。

「今日は船長に会ってもらうけれど、大丈夫かしら」
「はい。とてもお世話になりましたこと、ぜひとも会ってお礼を申し上げとうございます。それと、下船の許可をいただければと……」
「下船って、次の島はまだ随分と先よ?」
「私は悪魔の実を食べた能力者です。海を渡る術も、ないわけではありません」

そう言いながらも、ステラには本当に海を渡れる確証はなかった。いずれかの悪魔の実の能力を実現すれば、どこかの島に行けるだろうと考えただけだ。正直なところ、どの能力を真似するかすら決めていない。
それでも、これ以上この船で世話になるつもりはない。一度は諦めた命を、フィッシャー・タイガーが繋いでくれた。白ひげ海賊団のおかげで、万全ではないものの動けるくらいには回復した。であれば、この身にできることをしなければいけない。

「船を下りて、何処へ行くの?」
「故郷に帰るつもりです」

ステラがにこりと笑ってそういうので、タバサは眉を寄せた。この笑みは、これ以上は訊いてくれるなという、明らかな拒絶だ。拒絶といっても、突き放したような冷たさはない。薄氷のように悲しい拒絶――強引に踏み砕くは易く、傷つけぬよう砕くは難いものだ。
着替えを手伝おうとした時、長い髪を整えようとした時、漂流していた経緯を訊ねた時、彼女はいつもただにこりと笑った。下手に触れれば砕けてしまいそうで、看護師達はどうにもできなかった。

着替えのため、タバサは間仕切りカーテンの外で待った。果たして、今の彼女を船長に引き合わせていいものか――看護師達はみんな頭を悩ませている。彼女は一週間で会話できるくらいには回復したが、それはあくまで体調の話だ。気丈に振舞っているが、彼女の心はまだ奴隷時代の暗闇に囚われているように見える。
もう少し猶予があっても良いのではないかと思うが、一週間と言ったのはタバサ自身だ。まして、当人たっての希望では先延ばしにもできない。

「お待たせしました」

カーテンを開けて現れたステラは、輝かんばかりに美しかった。装飾品を付けずとも、彼女には女王の高貴さと世界をも魅了する美しさが備わっていた。タバサが貸したワンピースとカーディガンなのに、彼女が纏えば上質なローブのようだ。控えめながらも確かな威厳を帯びたその姿に、タバサは思わず見惚れた。

「どうでしょう。どこか変なところはありませんか」
「うん、ちゃんと綺麗よ!行きましょう!」
「はい」

妙に張り切っているタバサを不思議に思いつつ、ステラは彼女の後に付いて処置室を出た。扉の向こうは診察室になっており、その先に甲板へ続く扉があった。先を行くタバサが明けてくれた扉、その外を見た瞬間、ステラの全身が震え上がった。
柔らかさに欠ける、筋肉隆々とした体躯。無精ひげの生えた無骨な顔、フリルも華やかさもない無地の服、女より遥かに低くて粗野な男達の笑い声。それらすべてが、ステラの心に爪を立てて、古傷を抉じ開ける。

「――、あ、ああ」
「ステラちゃん?」

日差しのもと、戯れる男達。彼らはステラに気付いていない。その姿に、四年前の悪夢が蘇る。心を内側から掻きむしるような絶望が、古傷の奥から溢れ出してくる。ハンコック達を捕む魚人達の手、引きずり込まれた海の暗闇、初めて見た男達――薄汚い奴隷商人達の姿。手足に嵌められた鉄枷の重み、抵抗すればするほど苛烈を極めた暴力。
無力感を噛み締めた競りの舞台、客席を埋める醜悪な表情。体中に刺さる悍ましい視線に鳥肌が立ち、欲に汚れた歓声が耳に木霊する。ハンコック達の叫び声、焼き鏝の痛み。主人となった天竜人に組み敷かれ、男を知った日の屈辱。それでも、四人とも生き延びるためにと、媚びを売り続けた日々――それら全てが、今またステラの心を打ち砕く。

「いや、いや……い、いやぁぁぁ!」

悲痛な悲鳴が空気を切り裂き、船内に響き渡る。ただならぬ絶叫に船員の気配が揺れ動き、見聞色でそれを察したステラは踵を返した。男達がやってくる、逃げなければまた、またひどい目に合わされる。ふらふらと室内を逃げ惑えば、誰かに肩を掴まれた。
振り向くと、困惑した顔のタバサが見えた。その瞬間、卑しさも露な天竜人の顔が蘇り、ステラは彼女の手を振り払った。

「離して!」

後ずさりし、壁にぶつかるとずるずると座り込む。自制できない身震いを抑え込むように身を縮め、抱え込んだ膝に顔を押し付ける。悪夢を思い出させる全てが恐ろしくてならない。歯を食いしばって嗚咽をこらえ、零れて止まぬ涙を腕の中に隠した。
扉の向こうから、男達の声がする。さっきの悲鳴は何だ、何があったと問う声は厳しい。ナース達が彼らを塞き止めているのだろう、少し待つように主張する彼女たちの声も聞こえた。それでも、いつ男達がこの部屋に踏み込んでくるかと思うと、目の前が真っ暗になる。

「落ち着いて、ステラちゃん。ここは大丈夫だから」
「男、男が……!怖い、の……いつも、ひどい、目に」
「……!大丈夫よ、ここに男はいないわ」

少し離れたところに、タバサの気配がある。刺激しないよう、つとめて穏やかに話しかける声を、ステラは懸命に聞き取ろうとした。そうしなければ、過去が耳の奥で木霊して、彼女の声をかき消そうとするのだ。
奴隷商人達の下卑た笑い声、労役に嘆く声、許しを乞う声、死にゆく者達の声なき声。ステラを罵り、命の最後に恨みを吐き捨てた声。地獄に響き渡る全ての苦痛が、優しい言葉を遠ざける。

「つらい、のに……笑っ、てるの。男達、いつも、だから――だから、嫌い、嫌いよ。男は、大嫌い!う、うう……っ」
「大丈夫よ、誰もここには来ないわ。大丈夫だから……!」
「男なんて、みんな、大嫌い……っ」

胸に込み上げる恐怖に堪えきれず、ステラは身も世もなく泣き崩れた。悲しみの溢れるままに、幼子のように声を振り絞って泣いた。タバサはだた傍に居て、彼女が疲れて眠ってしまうまで声を掛け続けた。大丈夫だと、ここには怖いものは何もないと――その言葉が、彼女の心に届くことを願った。
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