夢に導かれて
時は関東大震災から六年が過ぎた、昭和四年(西暦一九二九年)。
帝都復興の名の下に東京の街並みは修復され、痛ましい傷跡は封印された。

されど真新しい煉瓦を踏む人々の心には傷がある。傷を抱え苦しみつつも、人々は未来へ歩き続けた。必死に生きた。

日夜泥にまみれて働き、額に汗をかいて生きた。傷と共に希望を抱き、たくさんの娯楽を生み出した。

そして誰しもが、幾多の夢をみた――。



ぱちりと目を覚ました葵は、周囲を見渡して小首を傾げた。

『モダン』代表のような西洋風の内装と、背高椅子、足の高い机。ほのかに珈琲の匂いが漂うそこは、見知らぬ喫茶店だった。
店内に客はおらず、着物姿の葵だけがぽつんと椅子に座っている。

「確かに床に就いたはずなんですが……いつのまに喫茶に来たんでしょう」

眠りに落ちるとき、最後に見たのは自室の天井だった。一度起きた記憶も、外出した記憶も無い。
ふと机の向かいを見ると、そこには一人の青年が腰掛けていた。

ざんばらの金髪と翠玉を思わせる瞳、整った面差し。見知った人かと思えば違い、見たことも無い特徴的な眉をしている。

どうして見知らぬ人がと思いつつ見つめれば、彼は読んでいた本を閉じた。そして視線を葵に移し、目を細めて微笑んだ。

「お前は今、違う価値観を求めている。勝ち負けだけの世界ではなく、もっと違った見方をしたいってな」
「ど、うして、それを……」

胸の中心を射抜くような言葉に、葵は目を見開いた。思わず問いさして、葵は高校出の兄が言っていた事を思い出した。

夢は深層心理の創出したものであり、願望や悩みが様々な形で表れると。ならば、自分の夢で悩みを指摘されるのもおかしく無いのかもしれない。

「今は女性が外で働くことも珍しくは無い時代だ。其れ故に、危険も増えた時代でもある」
「……はい」

一八七一年の岩倉使節団、一八七二年発表の福沢諭吉の男女平等論。一九二六年には日本初の女性バスガールが現れ、女性は着々と社会へ進出している。

しかし、妾制度や吉原などは未だ続いており、女性の誘拐や売買などの事件も後を絶たない。勤めてみれば裏で女性売買への斡旋をしていた、なんて事は珍しい話ではない。

女性が社会に出て働くには、まだ問題が多いのが現状だ。
例え安全な職場であっても、過保護な兄達は色々危惧するだろう。猛反対する姿が容易に思い浮かび、葵は俯いた。

「今年は津田梅子の亡くなった年だ。これも何かの縁、俺がお前の背中を押してやろう」
「……?」
「この喫茶に来い。雇っていた人が急に辞めてな、店長が困ってんだ。俺の名を出せばすぐ雇ってもらえるぜ」

青年が読んでいた本の隅に、『アーサー・カークランド』と走り書きされている。インクの色の新しいところを見ると、青年の名前なのだろう。

「此処は喫茶『The Nordics』だ。道は明日の朝刊の募集広告を見ればわかる」
「のるでぃくす、ですが」
「ああ。さあ、夢も終わりだ」

青年の合図と共に、景色がぼやけていく。見慣れぬ西洋風の内装が霧りゆくなか、向かいに座る青年はひらりと手を振った。

「次は現実で会おう、新米ウェイトレス」

現実の俺は覚えていないけれどな、と彼が言ったのを最後に。夢の世界は崩れ去り、代わりに見慣れた天井が目に飛び込んでくる。

「……変な夢……」

夢に見知らぬ青年が出てきて、就職先を紹介した。そんな事を言ったら、兄弟達に病院へ担ぎ込まれるだろう。
妙に忘れがたい夢だと思いつつ身支度を整え、葵は配達人から受け取った朝刊を開いた。

政治の話やらは判らないのですっ飛ばし、広告欄に目を通す。その隣にある募集欄を見やり、葵は瞠目した。
『The Nordics』のウェイトレス募集の広告が、夢の青年が言った通りにあった。
雇っていたウェイトレスがいなくなったので、一名募集と。

これは偶然か、予知夢だったのか。葵はしばし考えた後、いそいそと外出の準備をした。
もし夢の青年がこの喫茶にいれば、応募してみようと決意を固めて。


そしてこれが、不思議な力をもつ青年、アーサー・カークランドとの出会いとなった。
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