早朝逃亡
トリナについてわかっている事は二つしかない。一つは名前、もう一つは『五年前のあの日シガンシナ区にいたこと』だ。ウォール・マリア出身者の戸籍の大半は、陥落時の混乱で失われている。そのため、トリナの出生に関する情報はない。
何処で生まれ、何処で育ったのか。両親は誰で、生きているのか死んでいるのか。二年間調べても、何一つわからなかった。まるで誰かが隠滅したのではと思うほどきれいさっぱり、情報が無い。

しかし、何よりわからないのは、五年前のあの日立体起動装置を身に着けていた事だ。立体起動装置は兵団所属者のみが所持、使用する。しかし、五年前の段階でトリナという兵士は兵団にいなかった。兵士でない者がなぜ立体起動装置を身に着けていたのか。訓練されていない一般人が、なぜ兵士以上に使いこなしていたのか。

ともすれば危険人物と見做されかねない謎だ。トリナは全ての記憶を持たない代わり、そんな厄介なものを持っているのだ。爆弾になりかねない、謎の塊――それは、五年前から居る者達だけが知る、トリナのもう一つの顔。


朝、寮を出たところでエレンとアルミンは足を止めた。ここ三日ですっかり見慣れた人が、立っていた。しかも、ボサボサ髪に寝間着、裸足の出で立ちでだ。

「トリナさん?」
「……」
「あの……俺に、何か用ですか」
「……」

何を言っても、トリナは答えない。ただじっと見つめて来るだけで、少しも動かない。エレンは助けを求めてアルミンに視線を向けた。苦笑を浮かべながらも、アルミンはエレンとトリナの間に入った。

「トリナさん」
「……だれ」
「アルミンです。アルミン・アルレルトって言います」
「あるみん、しらない」

三日連続で顔を合わせているのに、『知らない』のままだ。記憶喪失では仕方ないのだが、――毎回これだと少し傷つくものがある。アルミンはつとめて平静を装いつつ、トリナに向き合った。

「トリナさん、ここはどこ?」
「しらない」
「ここはね、君が来ちゃいけない場所だよ」
「……?」

わからない、というようにトリナが首を傾げる。その反応も予想済みで、エレンとアルミンは周囲を見渡した。いつもなら、このやり取りが終わるころにイルゼが飛んでくる。しかし、今朝はまだ事態が発覚していないのか、姿も影もない。

「取りあえず、食堂行こうか」
「だな。食いっぱぐれるのは御免だ」

このままイルゼが来るまで待っていては、朝食の時間が過ぎてしまう。どうせ抜け出してきているのだから、発見される場所は食堂でも寮でも大差ない筈だ。

「おいで、トリナ」

アルミンが差し出す手を、トリナはじっと見つめた。『おいで』という言葉と手。ハンジがそうした時と同じように、トリナはその手を握った。その手の固く骨ばった感触に、アルミンは驚いた。血豆を何度も潰してできたのだろう固い痕が掌にある。よく見ると切り傷の痕も無数にあり、血の滲むような訓練をしてきた事が分かる。

「トリナさんはいま幾つ?何歳?」
「しらない」
「じゃあ、お母さんやお父さんは?」
「おかあさん、おとうさん、しらない」
「……そっか。じゃあ、兄妹は?お姉さんやお兄さん、弟や妹はいる?」
「しらない」

お母さん、お父さん、お姉さん、お兄さん、弟、妹。知らない言葉ばかり並べたてられ、次第に会話への興味がなくなっていく。しかし、ミカサが合流したことで失せかけた興味が戻る。

「おはよう、ミカサ」
「おはよう。その子、……また来たのね」

トリナを見て、ミカサは目を瞬かせた。最初、ミカサはトリナをエレンに接近する不審者だと思い警戒していた。エレンに恋愛感情をもっているのでは、と思ったのだ。しかし、イルゼからトリナについて説明を聞いた後は態度を軟化させた。精神が五歳児以下では恋愛感情のレの字もないとわかったからである。

三回目の乱入時では警戒どころか、髪を撫でやるなど少しだけ好意的に振る舞ってすらいた。背後でジャンが心底羨ましそうな目線を送っていた事は、アルミンしか知らない。

「どうしてここに?」
「わからない。けど、そのうち迎えが来ると思うよ」

そう言いつつも、アルミンは内心首を傾げた。今回は本当に迎えが遅い。遅すぎる。まさか気付かれてないなんて事は、と想像しかけて、アルミンはやめた。想像が現実になったら、洒落にならない。トリナを迎えに来たイルゼは、ハンジと共に空の寝床をまじまじと見つめた。

「……あの、ハンジ分隊長。トリナ、今日早起きしたんですか?」
「いや、してないよ。してないはず」
「逃げ出したんでしょうか」
「そうなるね……」

ハンジの反応が鈍い。流石のハンジも頭が追い付かないのか、呆然としている。

「とにかく、探してきます!」
「そうだね、探さないとね」
「ハンジ分隊長、しっかりしてください!」
「そうだね、しっかりしないとね……」

未だショックから立ち直れないハンジに、イルゼは叫びたくなった。あの問題児、今度は何処へ行った、と。
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