拠所なき混沌
衛生兵が一人、ヘラ・ドナートは、トリナの枕もとに桶と手ぬぐいを置き、注射器を手に取った。強めの麻酔薬が入ったそれをトリナに投与し、効果が現れるのを待つ。一分ほどして、トリナが意識を失う。胸の前で交差していた両腕から力が抜け、無防備になったのを確認し、ヘラはほっと安堵のため息をついた。

「まずは着替えね」

ヘラは意識の無いトリナを転がし、うつ伏せの姿勢にした。彼女は背中で紐を結ぶ形の病衣を着ており、紐を解くと筋肉質な背中が露わになる。ヘラは固く絞った手ぬぐいで、彼女の背中を拭き始めた。手袋越しに伝わる体温は常よりも高く、彼女を苦しませる熱の高さが窺い知れる。
発熱の原因は、不衛生な環境におかれたた足の傷が化膿したことにある。傷自体は浅いので、清潔な環境で栄養を与えれば問題なく快癒する。敗血症ではないので死ぬこともないし、大人しく養生していれば後遺症もない。

ヘラはトリナの姿勢をうつ伏せから仰向けに変え、彼女の胸元からボロボロのマントを取り上げた。壁外調査で使われたと思しきそれは、後塵をたっぷり浴びて汚れている。汗と砂ぼこりの臭いがひどく、衛生兵には我慢できないくらい不衛生だ。
しかし、トリナはこの小汚いマントを、寝る時さえ離さぬほど気に入っている。いつも胸元にしっかりと抱え、食事を摂る時でさえ手放そうとしなかったほどだ。

「洗ったら返すから、それまで我慢してね」

衛生管理の為とはいえ、それほど執着しているものを取り上げるのは心苦しい。ヘラは小声で詫び、手早く彼女の体を拭いて着替えさせた。そして、新品のマントを代わりに抱かせ、足早に部屋から去った。



麻酔を打たれた後、トリナの意識は内在世界に落ちた。認識も理解もできぬ外の世界は更に遠ざかり、霧の海に沈んでしまう。閉ざされた内在世界は、原初の世界のように混沌としていた。天と地が混ざりあい、目まぐるしく変化している。記憶や知識が雨のように降っては、すぐに天とも地とも知れぬところへ消えて行く。
消えたと思うと泉のように湧き上がり、身を浸すほどの猶予をくれたりもする。しかし、得られた記憶は断片的すぎて、やっと理解した頃には枯れてしまう。まるで、煮えたぎる湯の中に夢と現を入れ、闇雲に煮込んでいるみたいだ。

泡のように、誰かの顔が思い浮かぶ。それが父母とわかる時もあれば、分からぬ時もある。ベッドサイドに置かれたものがコップだとわかる時もあれば、その中に水があることだけが分かる時もある。
へまをして叩かれた記憶や、立体機動に失敗して木にぶつかった記憶。初めて人を殺した記憶、人に殺されそうになった記憶。いろんな記憶が泡のように浮かんでは、ぱちりと弾けて跡形も無く消える。

記憶と知識の奔流の中で、トリナは少しだけ現の側に傾いた。麻酔が切れ、本能が生命維持のために意識を覚醒させたからだ。トリナは渇いた喉を潤すため、本能の示すままに水差しに手を伸ばした。直に口を付けて中身を呑み乾すと、遠ざかったはずの夢が波のように戻ってくる。
体にまとわりつく不愉快な熱気が、雑踏の人いきれに変わる。すぐさま全身に緊張が走り、周囲に敵が居ないか注意深く観察する。人混みの中を歩く時に感じる、綱渡りのような恐怖が胸の奥底から絡んでくる。

背後から、誰かに肩を掴まれるかもしれない。気が付いたら、周りを囲まれているかもしれない。善良そうに見える人達は全て敵で、今も罠に嵌めようとしているのかもしれない。すれ違った人が、振り返ったら銃を構えているかもしれない。憲兵に合図しているかもしれない。
視界の端に、敵の特徴が見えた。思わず息を呑み、すぐそんな反応をしてしまったことに恐怖する。敵に聞こえる距離ではないが、前を行く父母には聞こえるだろう。もし、雑踏の音に紛れず、聞こえてしまったら――そう考えただけで、トリナは泣きたくなる。

宿に戻った時、ひどく引っ叩かれる。猿轡を噛まされ、殺した声で罵倒され、死にたいのかと脅しつけられる。そんな風にされると、自分が惨めに思えて堪らなくなる。いっそ消えてしまえたらと思うくらい、自分を嫌いになるからだ。
上がりそうな息を落ち着かせ、震える手をぎゅっと握りしめる。見つからないよう祈りながら、がくがくと震える足をどうにか動かした。不自然な動きをしたら、目を付けられる。絶対に立ち止まってはいけない。

敵の前を通り過ぎたと思うと、何かにぶつかった。夢の中で歩いていたように、現でも歩いていたらしい。夢と現を混同させる霞が薄れ、白い壁と木製の扉が現れた。トリナは無意識に手を伸ばし、ドアノブを掴んだ。



夢と現を行き交いながら、トリナは一人、夜更けの駐屯地を彷徨い歩いた。包帯を巻いた足は例によって靴を履いておらず、白い病衣一枚の出で立ちだ。月は雲に隠れ、遠くに見張りの兵が焚く篝火だけがぼんやりと浮かんでいる。
自分が何を探しているのか、トリナにはわからない。探していることもわからない。ただ本能が示す方へ、足が動いている。不意に、何かが前に立った。ぶつかり、受け身を取り損ねて尻もちをつく。塞がったばかりの足の傷が引き攣れ、痛みによって意識が現へと覚醒する。痛みはいつだって、現実の危険を意識させるのだ。

「びっくりした……!誰だ、こんな夜中にうろついてるやつは」

意味のわからない音の羅列が聞こえ、トリナは顔を上げた。本能は前へ進めと訴えており、それに従って立ち上がる。目の前の物が人であるか木であるか、そんなことは分からないし重要ではない。

「げ、こいつかよ。放し飼いにすんなっての!」

ぶつかったものが脇に退いた瞬間、金属の擦れる音が聞こえた。トリナは立ち止まり、音の聞こえた方を見た。嫌な音だ。金属をすり合わせた時の、耳触りで不愉快な音。心を荒ませ、警戒心を煽り立てる。
本能がざわつき、その音の正体を知りたがる。暗闇を見ようと瞳孔が開き、音を聞くために聴覚が研ぎ澄まされていく。虫の声、風の唸り、誰かの鼾。薪の爆ぜる音、そして間近にいる生き物の息遣い。

雲間に覗いた月が、さっと周囲を照らした。無精髭を生やした男の姿が露わになり、トリナの目は彼の胸元に視線を向けた。肩に引っ掛けただけの団服、だらしなく開いたシャツ。その隙間から、金色の鎖と女神の紋章が見えた。

――殺せ

遥か彼方、霧の彼方に広がる蒼穹から声が降る。そいつは敵だから、殺せ。死にたくなければ、殺せ。殺さなければ、――殺される。
男が忌々しげに舌打ちし、トリナを避けて歩き出す。すれ違った時、トリナの目は彼の装備する立体機動装置の刃を捕えた。心臓が強く鼓動し、自我が殺意に塗り潰される。真っ赤に染まった視界を、薄い刃の一閃が切り裂いた。



訓練兵団の森深く、沢の浅瀬で、トリナの意識は再び少しだけ現に戻った。ひんやりとした沢の水は心地よく、あれほど鬱陶しかった熱気が薄らいでいく。両足の傷は鈍く痛みを訴えるが、水の中にある分は耐えられないほどではない。
何を思うでもなく、両手を水から引き上げ、目の前に掲げる。木の間から差し込む月光の下に、白い腕が映し出される。過度に冷えた肌は蒼褪め、青白い血管が迷路のように浮き上がっている。腕を下ろし、体を起こす。今度は一糸まとわぬ裸体が照らし出された。辛うじて足に残った包帯以外は、何も身につけていない。
本能は再び、行くべきところへ行くようにと命じている。沢を出て、トリナは静まり返った森の中を歩き続けた。石や木の根に転び、そのたびに立ち上がってまたふらふらと歩き出す。

月が傾く頃に、トリナは訓練兵団の敷地に辿りついた。建物を一つ一つ確認して、目当てのものを探す。室内はどこも真っ暗だが、トリナの目には日中のようにはっきりと見える。
幾つかの部屋を周り、トリナはやっと探し求めていたものを見つけた。それは二段ベッドの下の方で寝ており、トリナは躊躇いなく彼の隣に潜り込んだ。
彼の傍はとても心地よくて、手放しに安心できた。もう『いたい』は『ない』し、『こわい』も『ない』。
天に隠れた意志は、もう何も命令しない。混沌としていた天と地が、再び二つに分かれて行く。全ての記憶と意志は空の彼方へ消え、渇いた大地の上に本能だけが残される。

前と違うのは、そこに一つ情報が付与されたことだ。それは敵の特徴に関する情報で、特定の条件下において殺意に繋がるようになっている。もしその特徴を見ても、条件に合わなければ殺さない。しかし、条件が満たされた段階で、トリナの防衛本能が働き、敵を殺すことになる。
しかし、今は敵もいないし、防衛本能もなりを潜めている。トリナは安心感を抱いて眠ることができる。何も知らず、何も感じず、何も考えることのない世界で、眠ることができる。それは幸せなことだった。幸せと感じることさえできなくても、それは幸せに違いなかった。やっと取り戻した幸せを抱えて、トリナは深い眠りに沈んだ。
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