パブロフの犬
引き続きトリナの見張りをするよう命じられた時、イルゼは不思議と嫌だと思わなかった。むしろトーマ班長が共に見張ってくれるので、安心だと思った。

「トリナをよろしくね」
「はい。しっかり監督いたします」
「あとこれはリヴァイから。トリナに命令する際にはこれを使えってさ」

ホイッスルのような金属製の笛一つとメモ書き一枚を渡され、トーマは首を傾げた。

「笛で命令するんですか」
「うん。この笛は特注でね、トリナに命令を与えるためのものなんだ」

緊急事態に備え、エルヴィン達以外の人間がトリナに命令する方法も確立されている。パブロフの犬方式でリヴァイが教え込んだ、笛の音による命令方法だ。一つの音パターンに対し一つの命令が決められており、奏者を問わず命令を聞くよう教え込んである。
悪用を防ぐために、笛は特注で普通のものとは少し違う。トリナにも音の聞き分けを確り叩き込んであるので、そこは問題ない。

「各命令の音色はそのメモに書いてあるって言ってたから、よろしくね」
「わかりました」
「じゃ、私はこれから実験があるから此処で」

此処で、と言いながらハンジはトリナを見つめたまま動かない。どうしたのかと見ていれば、メガネの奥からどわっと涙が溢れ出す。

「トリナ……っ、やっぱ心配だ私もついていぐはっ」
「何言ってやがるクソメガネ」

トリナに抱きつこうとしたハンジの後頭部に、何かがガスッと音を立ててヒットする。見ればそれは灰皿で、リヴァイが団長室の窓から投げたらしい。

「だって心配じゃないか!考えてごらんよリヴァイ、もし訓練兵のなかに変態がごふっ」
「変態はお前だろうが」

またしても何かが飛来し、今度はハンジの額に激突する。今度は空になったインク壷で、パリンと音を立てて砕け散った。

「何するのさリヴァイ!私の優秀な頭脳ガッ」
「うるせぇ」

今度はリヴァイが飛んできた。ハンジの顔面にとび蹴りを食らわせる形でだ。そのままハンジの顔面を踏みつけて空中で一回転し、前屈みになった背中に踵落としを決める。そして、地面に伏したハンジの上に仁王立ちし、じろりとトーマとイルゼを睨み付けた。

「さっさとそいつ連れて訓練兵団に行け。訓練に遅れる」
「は、はいっ!」
「しし失礼します!」

ドスのきいた声で命令され、トーマとイルゼは慌ててトリナを連れて走り去った。

「私を、私を置いていかないでぇええ」
「安い恋愛小説か」
「待って、待ってよトリナ――ッ!」

ハンジの断末魔、ではなく悲鳴を背に聞きながら。


立体機動の適正を見るための装置は、訓練場の隅に設置されている。イルゼはトリナの隣に、トーマは被害の及ばない離れた位置にて待機する。教官はまばらに整列した兵達に苛立ちを込めた視線を投げつけた。
ここ数日の体力テストなどの段階で貧弱者は消えた。残ったのは、バイタリティ的には問題ないだけの、依然役に立たない兵士もどきどもばかりだ。

「まずは貴様らの適正を見る!これが使えん奴は囮にも使えん、すぐに開拓地に移ってもらう!」

ビリビリと空気を震わせる大音声に、兵士達はごくりと唾を飲んだ。これが出来なければ兵士失格として追い出されることになる。訓練の厳しさに負けて逃げるよりも、適正や才能がなくて追い出される方が屈辱的だ。今後の人生において、ずっと馬鹿にされるだろう。

「まずは手本を見せてもらおう。トリナ兵卒だ」

教官に目で促され、イルゼは慌てて笛とメモを取り出した。半分に折りたたまれたメモの内容を見た瞬間、目が点になる。

「え……なに、これ……」

たった三つしか項目が無い。それも、『攻撃』『待機』『移動』の三つだ。この場合、立体機動だから『攻撃』を選べばいいのか。それともただぶら下がるだけだから『待機』なのか。
『移動』はないにしろ、どちらなのかわからない。訓練場の端で待機しているトーマに目線を向ければ、頑張れと言うように手を振られる。

「どうした、ラングナー兵卒」
「いえ、なんでもありません……」

何でも無いと答えつつも、内心は冷や汗だくだくだ。既に装置に設置されて命令待ちのトリナを見て、イルゼは覚悟を決めた。兵士は、いついかなるときも与えられた環境で最善のことをしなければならない。ならば、たとえそれが理不尽な三択でもどれかを選ぶしかない。ええいままよ。心中で気合を入れ、イルゼは笛を銜えた。


その頃、エルヴィン達は黒板を前に討論を進めていた。机の上には目的地の地図や日程表などの書類が乱雑に広げられるなか、エルヴィンは二枚のメモを見つけた。笛の音色パターンと命令が書かれたそれは、間違いなくトリナのためのものだ。

「……ハンジ。見張りの子にメモは渡したかい?」
「うん、ばっちり」
「そうか」

このメモは書き損じか何かなのだろう。そう判断し、エルヴィンはそのメモを灰皿の上に置いた。そして、情報の漏洩を防ぐため、その上に火をつけたマッチを落とした。
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