君は笑顔で泣いていた
世界に奇病が発生して、一年あまりが経つ。


オスマン帝国であるサディク・アドナンの屋敷には、一人の亡国が居る。
彼女の名はオトレレ、かつて紀元前に存在した国の具現である。




オトレレは重たい目を擦りながら、手元の書類にサインを入れた。
ひどく疲れた様子を見て取り、傍らに控えていた侍女が気遣わしげに柳眉を潜める。

「オトレレ様。少しお休みになったほうが良いのでは」
「ありがとう。でも、今日中に片付けなければいけない案件がありますから」

侍女の労わりをやんわりと退け、オトレレは目の前に積もる書類を見て溜息を付いた。

オトレレの夫、オスマン帝国の具現であるサディクは、頻繁に国を留守にする。

元来が騎馬民族だからか、彼は一所でじっとしているのが苦手だ。
その上、支配欲が強く、いくら領土を得てもまだ足りぬと言う。

領土ほしさにイタリアに行って、ちょっかいを掛けては痛い目を見て帰ってくる。
仕方なく手当てしてやれば、治るとまたちょっかいを掛けに行く。

そうして頻繁に国を空けるため、彼の仕事はいつまでも経っても片付かない。
仕方なく、本当に仕方なく、オトレレが仕事を片付けている。

今では、一応の線引きとして会議には出ないものの、それ以外はほとんど引き受けている。
今オトレレが目を通しているモスクの管理明細も、そうして回ってきた仕事の一つだ。

夫であるサディクはワクフ制度を使い、複数のモスクとその周辺施設を運営している。
ワクフ制度とは、自らの財をモスクに寄進し、慈善事業を行うことだ。

モスクは寄進された財を用いて雇用人に給金を支払い、貧困者に食事や寝床を提供する。
また、併設された病院やマドラサ(学校)も寄進によって運営し、人々の生活を支えている。

その会計は透明でなければならず、ワクフ省には定期的に会計を報告しなければいけない。
そのため、寄進する者はモスク等々の運営を管理する義務がある。

しかし、一つの複合施設の明細だけで巻物が二本も必要になるほど細かい。
雇用者だけでも項目が細々としており、確認だけでも相当に時間がかかる。

その上、オトレレの罹患している奇病が、作業するにも重く圧し掛かる。
その奇病は、皮膚が徐々に鱗に変わっていき、進行すると眠りにつくことができなくなるというものだ。

治療薬と言われるものは片っ端から試したが効くものが無かった。
あとは愛する者の涙か皮膚しかないため、現状では治療らしい治療はしていない。

そのため、鱗は背中と喉を覆い、頬にまで広がってきている。
眠ろうと床に就いても眠気は一向に湧かず、眠れぬ日々が半年は続いている。

普通ならば、これだけ眠れなければ発狂して死んでいる。
『国』は死にこそしないが、痛みや苦しみは人と同じように感じる。

不眠の苦痛はオトレレの思考を蝕み、動きを鈍化させ、作業を滞らせる。
鉛のように重い体を引き摺って政務に取り組むも、終わりは見えない。

気分はいつも重く、疲れと仕事ばかりが積もっていく。
オトレレは会計を確認し終えると、のろのろと窓際のソファに移った。

春先の温かな日差しが差し込むそこは、昼寝にはぴったりの環境だ。
しかし、ぬくぬくと温かなソファに身を預けても、少しも眠くならない。

それでも、僅かでも眠れればと、オトレレは目を閉じた。
ひよどりの鳴く声と、教育中の侍女たちの可愛らしい声が庭から聞こえてくる。

なにか催し物でもあっただろうかと、オトレレは鈍い思考で考えた。
しかし、その騒ぎの種が近付いてくるに従い、それが祭りの類でない事を理解する。

ほどなくして、ハレムリッキの主たるオトレレの部屋に、一人の男が姿を見せた。
この部屋に入れる男は一人、夫であるサディクだけだ。

オトレレは気だるい身を横たえたまま、瞼だけを持ち上げてサディクを見た。
久方ぶりに見る彼は、見た目にはどこも変わっていないように見える。

しかし、彼が帽子を脱ぐと、すぐに変化が露になる。
彼の奇病の主な症状である、大きな角のような突起が額にあった。

「……以前に見たときより、大きくなっていますね」
「まあな。猫のひげをむしると、ギリシャのやつが泣くんでよ」

属国であるギリシャは猫が好きで、この上なく可愛がっている。

彼の前で猫のひげを取れば、それは火がついたように怒ることだろう。
泣きながら言葉の限りサディクを罵倒する姿が容易に思い浮かび、オトレレは力なく笑った。

「おめぇさんも、以前よりか悪化してるな」

目元には黒い隈がくっきりと浮かび、やつれた頬には疲れが滲んでいる。
目にも力がなく、すっかり参りきっているのが見て取れた。

痩せこけた頬に触れ、サディクはぐっと奥歯を噛み締めた。

「薬、飲んでねぇんだってな」
「……どれも効かなかったので」
「仕事なんか放っておけってんでい」
「休んでどうなるものでもありませんから」

休んで治るならば、無理に仕事をしたりしない。
休んでも無意味だから、オトレレは仕事をし続けたのだ。

「……悪かった。遊びすぎた」

珍しく落ち込んでいるらしいサディクを見、オトレレは溜息をついた。
こんなときばかり仮面を外すのだから、怒るに怒れない。

「頼みたいことがあるのですが、聞いてくれますか」
「お、おう。何でも言え、俺が叶えてやるってんでい」

快い返事に満足し、オトレレはにっこり笑って言った。

「涙と皮膚を提供しなさい、サディク」


侍従は後世に語る。祖国が真っ青になり、滝のように汗を流したのはあの時一度きりだった、と。


***
オトレレは皮膚が徐々に鱗に変わってゆく病気です。進行すると眠りにつくことができなくなります。愛する者の皮膚が薬になります。

トルコは頭から大きなツノのような突起が生えてくる病気です。進行すると普段はとても食べないようなものが食べたくなります。猫のひげが薬になります。
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