聞こえないように
――あれもこれもそれもどれも、  聞こえないように


雪解けの音も、季節の移ろいを告げる鳥の声も、膨らんだ蕾の鼓動も、大事なあの人との迫っている別離も。
全部全部、聞こえないように。耳を塞いで目を閉じて、『春』なんて存在を消してしまえばいい。そうすればきっと、もう少し、あの人と一緒にいられるだろう。あの人の望みから遠ざけてしまうことだとしても、私はまだ、その決断を祝福して見送ることなんて出来やしないから。

「山崎先輩、あの…」
「ん?どうした?」
「……、いえ、この前の会議でよくわからない所があって」
「おいおいー、そんなんで大丈夫か?4月からは"先輩"になるんだろ?」

軽口を叩きながらも先輩は快く見てくれる。退職するのには色々と必要な事があって、通常業務よりも仕事が増えるのに、これといった嫌味も文句も無く引き受けてくれる。それを分かっているから私は、邪魔をするように先輩に質問をする。
辞めて欲しくない。そんなこと、今更言ったって詮無いことで、どうにもならない事だろうというのはわかっている。一応理解が出来ていないわけではない。ただ、当然のように受け止めて背を押して送り出す決心が出来ないだけなのである。少しでも現実から目を逸らしていたい。この感情が、如何に子どもらしいものであるのかは承知している。言い訳染みた事を言い連ねてみたが詰まる所、我が儘なのである。一言で済ませてしまうことのできる、自分勝手な感情の発露でしかないのだ。

「…わからないじゃないですか、まだ。この部署に来る可能性なんて」

質問の答えを返して貰って区切りのついた際、ぼそっと呟いたそれに先輩は苦笑を浮かべる。面倒臭そうなそれで無いことに、安堵を覚える。

「笹田はほんっとーに俺に対しては反抗的だよな。わからない所があったら素直に聞きに来るくせに、それが終わるとなるとすぐに素っ気なくする。俺がここから出てくっての、わかってないわけじゃないだろうが。そんなに俺の存在は目に留まらないってか」
「目に留まらなかったらいいんですけどねー」
そんじゃ、ありがとうございました。失礼しますー。

いくら昼休憩とはいえ、人目もあるし職場だし、そして何より、先輩が出勤しなくなるまでまだ1月近くある。
こんな場面でそんな大胆な事をしてしまえる程、私の脳みそは恋愛に腐ってはなかったということだ。深読みしようと思えば深読みできる台詞くらい、大目に見てくれたっていいと思う。

先輩が呆然と私を見返していたなんて、そんなことは知らなかった私は平常通り業務を終了して、スーパーに寄って家に帰った。


そんな日々を何度か繰り返し、勿論その間に先輩の手を停止させる些細な意趣返しを止めることもなく、送別会の日となる。

当日、不憫の代名詞を張られている山崎先輩は、自分の送別会でもあるにも関わらず、大事な取引先との引継ぎ案件があるだとかで遅れてくることになったそうな。
私は出掛けにぼやいている先輩に、イイ笑顔で「先盛り上げときますね、いってらっしゃい」と声を掛けたのである。これが恋する女のする事か、と自分でも思わなくもないけれど。先の見えているような恋、媚びるよりからかった方が幾分か楽しいというものである。




「今までお疲れ様でした。これからもお体気をつけて、頑張ってくださいね」
女子社員からのお菓子の詰め合わせとは別に、個人的に焼いてきたクッキーを配る。明日の休憩時のお茶請けになる予定だが、本日をもって仕事する事の無くなる彼らに渡すのは問題ないだろう。山崎先輩に渡すためだろうとか、そんな野暮なこと思ってても言っちゃいけません。だめ、絶対。
そしてこのサプライズ、意外と好評だったのが嬉しいところで。作った甲斐があったというものである。ケーキを丸っと焼いてきた先輩もいたので、然程違和感なくお互い披露することが出来た、というのもあるだろうか。

当の先輩は宴もたけなわになった頃、つまり中締めで退職者の一言が始まった頃、漸く顔を出した。そろりと襖を開けて、気配を消すように入って来ようとしたところ、鞄が襖に引っかかりガタンと音を立て注目を一身に浴びた。それからはもう、一時広がったしんみりとした寂しい雰囲気を忘れ去ったように再び宴が始まって、先輩は飲まされまくっていた。
期待通りのことをする人だ。
私は同僚、先輩に混じってその光景を笑って眺めていただけである。



二次会に赴く一団から逸れて帰路に就く。
クッキーは結局先輩には直接渡せなかった。引っ掛けた襖の近くに忘れるように置き去りにされていた鞄に忍ばせて、何の付箋も付けずに手放した。
当の本人には、上司からもみくちゃにされている真っ只中に声を掛けただけ。
聞こえていないだろう、そう思う。それでいいと思った。先輩と後輩、それで十分過ぎるほど説明のつく関係には、そんな別れが適当なところだろうと思う。


駅でぼーっと運賃表を見上げていた私の耳に、革靴の焦るような音が聞こえてきた。
時刻は23時少し手前。
家の最寄り駅によっては終電間近でもおかしくない時間。
何とはなしに聞き流して、片耳に突っ込んでいたイヤホンから流れる音楽に意識を戻す。


ぶち


唐突に途切れた音楽に訝しんだ表情を隠そうともせず、顔を原因のある方向へ向けた。
途端に表情が抜け落ちた。呆然とした間抜けな表情で、辛うじて首を傾げることが出来たのは、乙女としてぎりぎりラインだったと思う。

「おっ前なあ! 何挨拶もせず姿眩まそうとしてんだよ!?」

二次会でも主役の一人のはずの山崎先輩が何故かそこにいた。
変わらず呆然とした表情を浮かべ続けていると、私の言わんとすることを察したのか、先輩は言う。
「お前に声掛けようと思ったら気づいたら居ないし、鞄開けたら差出人不明なクッキーがあるし、他の奴らは頻りに笹田の美味いなんて話してるしっ、電話掛けようとしたら電源が入ってないとか言われるし!」
冷静に話し始めた先輩の声に徐々に苛立ちとも似つかない感情が込められていって。
それでも呆然とした表情を変えない私を認識したのか、先輩の手が私の頬を掴む。せんぱいの、大きな手が。
「俺になんか言う事無いの?」
覗き込むように私の目を見る先輩は、先輩の顔は、すぐ、そこに。
「笹田?」
口をはくはくと開閉する私を見て、一度、怪訝そうに目を細めた後、にやりと意地悪気に微笑んだのは、先輩だけど、今まで見てこなかった先輩だった。
躊躇何て欠片も見せずに一歩、また一歩と、私が後退するのも構わずに詰め寄ってくる。背が壁に当たって私が後ろに下がれなくなっても、先輩は進むのを止めようとしない。それどころか。頬を掴んでいた手は頭の後ろに回って、目線を逸らそうと抵抗する私を嘲笑うようにもう片方の手で顎を支える。

「笹田、俺に何か言う事は?」

「……せんぱい、お疲れ様でした。4月からもお元気で」

「それだけ?」

「……。それだけ、です」

「ふうん、じゃあ、俺からも一言」
クッキーの袋にさ、紙が入ってたんだけど、心当たりは?

息が止まるかと思った、けど、真実は言わないままで。

「…黙秘?」

「……」

「俺さ、そんなに気が長い方じゃなくってさ、否定も肯定もないなら、都合よく受け取るよ?」

「……」

「笹田?」

「……。…4月なんて、来なければいいのに。春の訪れなんて、聞こえなければいいのに。せんぱいが居なくなるなんて、承知した覚えはないですよぅ」

零れ落ちたのはここ最近ずっと抱えていた不満で、誰も変えようがない事柄で、只の駄々っ子のような言葉だった。

「職場からいなくなるだけだろ、ったく。死ぬわけじゃない」

「でも」

「俺は笹田と職場が変わったってだけで、諦める気はないから。寧ろ遠慮する必要が消えて嬉しいな」

……その意味深な言葉に囚われていた私が意識を戻すと、先輩の顔はもうそこで。
こつ、と額が合わさった。


「それで?クッキー、紙に心当たりは?」



「〜〜っも、せんぱいうるさいです!」


どうやら別れの挨拶は聞かなくてもいいようだ。


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memo.
20140407 hina


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