ゆきのふるみちを

 なんとなく、海の見えるところがいいと思った。
 わたしの要望を、彼はすんなりと受け入れてくれて、準備はとんとん拍子に進んだ。
 幸せになろうと言って、彼の右手がわたしの左手に重ねられたのが、とてもくすぐったかった。
 オーシャンビューの式場はとても人気があって、予約は取りづらいって思っていたけれど、いい日取りがあっさりと予約できてしまった。
 というのも、彼の知己が、お目当ての式場で働いていたからだ。

「任せなさい。いっちばんいい日にしてあげるから」

 そう言ってウインクしてくれたのは、ウエディングプランナーの紡希さん。
 ばちん、という効果音と共に星が飛びそうなウインクに、思わず見とれてしまったのを、よく覚えている。
 さらさらストレートの髪に、燕尾服のよく似合う細身のスタイル。ともすれば、一昔前のイギリスで執事をしていたような雰囲気すらあるようなその人は、わたしたちの結婚式を担当してくれる人であり、わたしの婚約者の知己、その人でもあった。

「知り合いだと割引もあるからね。うんと豪華にしちゃいなさい!」

 ・・・・・・とは言われたものの、わたしも彼も、そこまで盛大に披露宴を行うつもりはなかった。慎ましく、仰々しい演出は極力避けるかたちでやりたいと伝えると、紡希さんは少し残念そうにしていた。
 けれどすぐに、気持ちを切り替えたのか、まあそうね、と言って、わたしたちにぴったりのプランを提案してくれた。

 今思えば、紡希さんは知っていたのだろう。わたしたちが、役場へ届け出て、正式に籍を入れるつもりがないことも、世間的に、祝福されるような結婚ではないということも。
 それでも、何も言わずに、全力でわたし達のことを考えてくれたことに対して、感謝してもしきれない。
 きっと紡希さんは、彼と旧知の仲でなかったとしても、同じように、わたし達のことを祝福してくれたに違いない。彼と接していたのはそう長い期間ではなかったけれど、わたしにはそういう確信があった。
 オネエのような口調に当初は面食らっていたものの、今は全然気にならない。むしろ、あの弾むような声音を聞く度、励まされているように思えてならないのだ。

 今だってそう。試着以来、一度も着ていなかった純白のウエディングドレスに身を包んだわたしは、紡希さんがそばにいなければ、立っていられないくらい緊張していた。不安から、足が震える。履き慣れない高めのヒールのせいにだけはできなくて、わたしはひとつ、大きく息を吐いた。
 
「なーによもう、溜め息なんかついちゃって。今日くらいはやめなさいよ」

 繊細なレースをあしらったヴェール越しに、紡希さんが微笑みかけてくる。
 ヴァージンロードを歩くとき、わたしの腕を取ってくれるのは、紡希さんの役割だ。本当は、そういうことをするつもりはなくて、ただ誓いのキスだけで終わらせてしまうつもりだった。
 けれど、紡希さんが粘りに粘って、ヴァージンロードを歩くことだけはプランに盛り込まれることとなった。
 誰もいない教会風の式場の中を、命の色をした絨毯の上を、紡希さんと歩く。そして、わたしはその先で待っている、運命の相手に出会うのだ。
 真っ黒な衣服に身を包んだスタッフが2人、両開きの扉の前に佇立している。唯一、手袋だけは白くて、柔らかそうな生地が、傷ひとつなくつやりとしているドアの取っ手を握り込んでいる。それを見たわたしは、また、身体の震えが湧き上がって、立つのも難しいくらいに、何か大きなものに押し潰されそうな心地になってしまった。

「ちょっとちょっと。しゃんとしなさい」

 いつも通りの燕尾服をきっちりと着こなした紡希さんが、わたしの腕を取って支えてくれた。少し、呼吸が楽になって、視線を上げる。絹糸のような髪が、彼の頭の動きに合わせて揺れる。
 言葉とは裏腹に、紡希さんの表情はどこまでも優しい。

「アンタは今日、世界一幸せな女の子なんだから」

  なんだか無性に泣きたくなって、綺麗な紅の乗った唇を噛み締めた。

「あーちょっと!メイク落ちちゃうじゃない!泣くにはまだ早いって!」
「いいの。どうせ、誰も見ないって」
「そんなことないわよ。アンタねえ、彼がどんだけ楽しみにしていたか、知らないわけじゃないでしょう」
「うん・・・・・・」

 それは痛いくらいに分かっている。
 ウエディングドレスを決めるときも、アクセサリーを選ぶときも、彼はとても楽しそうで、ああこの人となら、どこにいても、どんなことがあっても、この先ずっと楽しいんだろうなって思えた。普段から口数が少なくて、表情のバリエーションも乏しい彼が、珍しく口元を緩めていたのを、よく覚えている。
 心底、添い遂げるのがこの人でよかったと思えた。
 盛大な式にできなくてごめん、みんなから祝福されなくてごめんって言われて、それはお互い様だよって言って2人で抱き合って泣いたことなんて数え切れない。

 けれど、幸せに満ちている時間のはずなのに、いつも、わたしは思ってしまう。
 彼は、これでよかったんだろうか、と。尋ねればきっと、いいに決まっている、と言ってくれるだろう。でも、違う。そうじゃないのだ。わたしと出会わなかった彼が、同じことを言ってくれるとは限らない。他の人と添い遂げる方が幸せだと気付いていないから、わたしと一緒になりたいと言ってくれているのだ。
 そんな”イフ”はありえないけれど、わたしが本当に彼の幸せを願うなら、他の人と結婚した彼の方が、”幸せの大きさ”はずっと大きかったんじゃないかって思ったりもする。
 盛大な結婚式で、親族にも友達にも、職場や学校の知り合いにも祝福されて、おっきなウエディングケーキの前で、照れくさそうに笑う彼。そんな未来があり得たのならば、きっと、今からわたしと結ばれるはずの彼よりも、もっとずっと、大きな幸せを手に入れることができたんじゃないかって思ってしまう。

「ねえ、ずっと思っていたんだけど」
「?」
「アンタ、自分の幸せって考えたことある?」

 紡希さんが言わんとしていることをうまく読み取れなくて、首を傾げる。わたしはこれから結婚式を挙げて、彼と幸せになる。それが、わたしの幸せのはず。・・・・・・不安な気持ちは拭えないままだけれど、もう少しすれば落ち着くだろうし、これでいいのだ。
 この気持ちは発作みたいなもので、きっと、この先何度も起こることだろうけれど、これでいい。これでいいのだ。全部が全部、幸せに満ちた一生なんて、あるはずがないのだから。

「会場をここに決めたのはアンタって聞いたけど。ドレス決めるときも、どういうプランにするか決めるときも、全部彼の意見を最優先にしてたじゃない。それでよかったの?」
「う、うん。彼がいいって言うから、」
「アンタはどう思ったわけ?」

 紡希さんが、わたしのドレスを指さした。露出の控えめな、上品さがあるウエディングドレス。胸元から手の甲までが薄いレース生地で覆われていて、爪を立てればたやすく引き裂けてしまいそうだ。
 どれも同じに見えてしまって、試着するものを選ぶことにすら戸惑いを覚えていたけれど、彼がよく似合っていると言ってくれたから、これにした。
 ドレスの丈などを微調整してもらって、それなりに気に入っているものだ。レンタルだから、これっきりだけれど、最初で最後の花嫁衣装は、試着だけでも十分にわたしの心を満たしてくれた。これを着れば、幸せになれる、なんて。
 
「わたしも、まあ、変じゃないならいいかなって・・・・・・」
「他のにすればよかったって思ったこと、なかった?」
「え?」
「もっと他のものの方がわたしには似合ったかもしれない。もっと他のものの方が、わたしは気に入っていたかもしれない。もっと他のものにしておけば、もっと素敵な式にできたかも、幸せになれたかもって、思わなかった?」

 やっと気付いた。ドレスの話じゃ、ない。紡希さんが言いたいのは、ウエディングドレスのことじゃない。
 わたしと彼の、この先の話だ。
 わたしには、もっとお似合いの人がいた?もっと気の合う、心から愛し合えるような人がいた?もっと他に人の方が、好きになれた?

「ふふ、意地悪言いすぎたわね」

 ちょっと時間をちょうだい、と他のスタッフに伝えた紡希さんは、わたしの手を引いた。連れてこられたのは、メイク室。
 座って、と促されるままに、ドレスを引きずって椅子に座った。華奢な四つ足でわたしの体重を支えてくれたそれの感触は、厚い純白の生地のせいで、よく分からなかった。

「心変わりを促してるわけじゃないわ。そんなことしたら、アタシの首が飛んじゃうじゃない」

 茶目っ気たっぷりにウインクをした紡希さんは、崩れてこぼれてしまった紅を優しく拭き取って、新しい色を乗せてくれた。少し濃いめのチークを重ねて、涙の痕を覆い隠す。そうやってせっかくメイクを直してもらっているのに、直した端から涙で崩れていく。

「あらあら。もう。・・・・・・泣き虫さんね」
「わ、わたっ・・・・・・わたし、」

 しあわせになってもいいのかな。
 ぼやけた視界の中、鏡越しに紡希さんの顔が映る。呆れたような、手のかかる妹を見るような、かわいがりたくてたまらないというような、そんな、温かさに満ちあふれた顔をしていた。

「アタシのプランニングした式に出る以上、幸せにならないなんて、許さないんだから」

 とん、とやや強めに、肩へと両手がのしかかってきた。温かさを分け与えてくれるようなその重さが、とても心強い。

「あの人とじゃなきゃ、やだ」
「うん」
「あの人と一緒じゃなきゃ、わたし、幸せになれない」
「うん」
「わたし、あの人が好き」
「うん」

 すん、と一度だけ大きく鼻をすすって、奥歯を噛み締めた。涙はもう、出てこない。まったくいたちごっこね、とぼやく彼の声音はとても穏やかで、くすぐったく感じられる。
 きらきらとした粉をはたかれて、さらりともつるりとも言えない、綺麗な肌に仕上がった。お人形のようだ。小さい頃に憧れた、綺麗な綺麗な花嫁さんだ。
 憑き物が落ちたような顔をしているのが自分でも十分すぎるくらいに分かってしまって、またちょっとだけ泣きそうになった。
 ゆっくりと、ヴェールが降ろされる。これでわたしは、生まれる前に戻るのだ。

 時間です、と扉の前で待機していたらしいスタッフが、声を掛けてきた。
 行きましょう。今度はわたしが紡希さんの手を取ると、彼は驚いたように目を見開いた。そしてにわかに微笑みを浮かべると、わたしの右腕と、彼の左腕が絡まった。

「ええ、行きましょう。わたしのかわいい花嫁さん」
「それは新郎に言ってほしいかなあ」
「あいつ、そんなこと言わないでしょ」
「うん。・・・・・・ふふ」

 仲睦まじいきょうだいのように笑い合って扉の前に立つ。厚手の絨毯が敷かれたそこは、すでにヴァージンロード、その始まり。
 この扉が開くとき、わたしの人生は始まる。この先に待っているのは、これから何が起ころうとも、生涯わたしが寄り添うべき人、寄り添っていきたいと、心の底から願った人。どんな表情で、わたしのことを待ってくれているのだろうか。こういうとき、わたしはある程度開き直ってしまうけれど、彼は緊張してしまいがちだから。
 のスタッフさんが、わたしの左手に小さなブーケを持たせてくれる。誰に投げるわけでもないけれど、これがなきゃ格好がつかないじゃない、とこれまた紡希さんが押し切って持たせてくれたものだ。確かに、左手をぷらぷらさせて歩くのはちょっと間抜けだ。あってよかったと思う。

「緊張は・・・・・・してないみたいね」
「扉の向こうの誰かさんよりは、緊張してないよ」
「それだけ言えるんなら、もう大丈夫ね」

 ゆっくりと、扉が開く。
 わたしの人生が始まる。

 扉の向こうがまぶしくて、目を細める。
 きらきらと輝くステンドガラスからは、色とりどりの光が降り注いでいて、わたしの歩く赤い道を彩っていた。
 左右の大きくくりぬかれた窓は透明で、青い世界がどこまでも広がっていた。
 まっすぐと、彼のもとまで足を進める。時折視界の端にちらちらと瞬くのは、波が太陽の光を反射しているからだろう。
 あの人の表情は、逆光でよく見えない。
 右手に絡む温もりを感じながら、小さく息を吐く。これは溜め息なんかじゃない。
 歩いて行ける自分に、ほっとしたのだ。
 さっき、紡希さんにはああ言ったけれど、いざ扉が開いたとき、本当は足がすくんだ。身体が金縛りに遭ったみたいに、動かなくなった。一生ここで棒立ちのまんまになると思ったほどだった。
 紡希さんは、そんなわたしの腕を抱え直し、さりげなく勇気づけてくれた。行きましょうと促してくれた。

 絨毯は厚く、柔らかく、わたしと紡希さんの足音をすべて吸い込んでいた。雪の上を歩いているみたいだ。
 雪色の服を着て、真逆の色をした絨毯を踏みしめる。揺れるヴェール越しだから、粉雪の中を歩いているみたいだった。
 わたしと彼の故郷は雪深い場所で、この地方に越してきてからは、ここは温かいねと笑い合うことがよくあった。

 ヴァージンロードは赤って決まっているわけじゃないのよ。
 そう教えてくれたのは、紡希さんだった。赤の他にも、緑や白など、たくさんの種類があるのだという。オーダーによっては、花をめいっぱい敷き詰めたヴァージンロードにすることもあるのだと、そう言っていた。
 色を決めたのはわたしだ。
 この道は、わたしが生まれてから今日までの道のりを示している。あの人の待つ場所が、今日。あの人とわたしが歩み出してからの道は、わたしだけのものではなく、わたしたちの道となる。
 たどり着いた先で待っているのは、わたし達の未来。あの人のお嫁さんになったわたしとしての人生が始まる。

「幸せにしなさいよ」

 真っ白な手袋で覆われた無骨な手が差し伸べられて、するりと紡希さんの腕が抜けていった。
 紡希さんのそれよりも太くて、低い温度の腕。幾度となくしがみついて、握って、絡み合った腕だけれど、初めて触れたような心地がした。

 赤いヴァージンロードの意味は祝福。
 誰にも祝福されないわたし達だけれど、せめてその言葉を込めた何かがほしかった。

「おめでとう」
「・・・・・・!」

 赤色じゃなくてもよかったかな。最初にそう思った。次いで、涙がこみ上げてきた。彼の腕が絡む力が、ほんのわずかに強くなる。
 またゆっくりと歩き出したわたし達は、長い時間を掛けて、2人ぼっちで進み続けた。
 背中に優しい祝福のまなざしを感じながら。
 
 なるほど、わたしは今日、世界一幸せな女の子だ。

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