Insomnia

 最近、夜が来るのが怖い。
 日が長くなったとはいえ、ちょっと残業すると仕事帰りは真っ暗だ。やや混んでいる電車に揺られ、急ぎ足でマンションへと帰宅する日々。その中でも、マンションにたどり着くまでの数分間が、一番怖い。
 夜道を歩くのが不安だ、静かなくらい道を歩くのは抵抗がある、という女性は少なくないと思う。たとえそこに怪しい人物がいなくても、だ。
 けれど、わたしの場合はちゃんと根拠があって怖い。いや、胸を張るようなつもりは一切なくて、これは事実だ。
 
 はじまりは、たまにしか覗かない郵便ポストだった。
 宛名も送り主の名前も記載されていない、真っ白な封筒が入っていて、はじめは郵便屋さんが入れるポストを間違えたのだろうと思っていた。
 しかし、それが3日に1回くらいの頻度でポストに入っているものだから、わたし宛てなのだろうということに、少ししてから気づいた。
 開けてみると、2つ折りの紙が入っていて、開いた瞬間わたしは声にならない悲鳴を上げてしまっていた。
 ぱらぱら、と誰のかも分からない髪の毛が数本、紙の間に入っていたのだ。紙には「おとしもの」とだけ書かれていたが、書類作成といえばパソコンというような社会に生まれてしまったためか、印刷された無機質な文面からはでは、筆跡など知りようもなかった。
 手紙の送り主が、わたしの反応を知っていたとしか思えないようなタイミングで、手紙の内容はエスカレートしていった。
 髪の毛に加えて、お昼休憩中にコンビニへと向かっているわたし、友達とランチに向かっているわたし、帰宅途中の不安そうな表情をしているわたし。そういった外でのわたしの講堂が撮影された写真までもが届くようになって、ついにわたしは近所の交番へと被害を届け出ることにしたのだった。
 わたしが仕事帰りに駆け込んだ交番には、三白眼みたいな、小さい黒目が特徴的なお兄さんが居た。歳はわたしと同じか、下くらいに見える。異性の年齢はわかりにくい。その人はわたしが交番にそろりと入ってくるなり、ガタッと椅子を後ろに倒してしまうくらいの勢いで立ち上がって、わたしの方を凝視した。
 その勢いに驚きつつも、わたしがストーカーの被害に遭っているかもしれないことを相談すると、お巡りさんは親切に対応してくれた。途中で上司らしき人もやってきて、わたしの家の周りは巡回を強化すると言ってくれた。

「おいらも巡回するから安心していいぞお」
「はい、ありがとうございます」

 へにゃっと笑ったお巡りさんの顔は幾分か幼く見えて、けれど警察官の制服を着ているせいか、頼もしく思えた。笑ったときにちらりと覗く尖った歯がかわいい。

「あ、そうそう。ずっと言いたかったんだけど」
「はい?」

 帰ろうとしていたわたしを呼び止めた彼が、少しだけためらってから、再び口を開く。その頃にはもう、この人はわたしよりも年下なのだろうと確信していた。
 
「あのとき声かけてくれて、ありがとなあ」
「・・・・・・何のことですか?」
「覚えてないならいいや。ほら、もう暗くなるから早く帰るといいぞお!」

 ほらほら、と人好きのする笑みを浮かべたお兄さんに背中を押され、わたしは沈む夕日と競争しつつ家路を歩いた。
 その日はポストに封筒が入っていなかったこともあって、わたしは久しぶりにぐっすりと眠ることができた。

 お巡りさんから見回りを強化してくれると言われてから2週間後。また件の手紙がポストに投函されていた。これはいよいよもって被害届を出すべきだろうか。この前、初めて交番に行ったときは、見回りを強化してくれるという言葉に安心してしまっていたから、被害届のことまで頭が回らなかった。ちゃんと犯人を見つけ出して、捕まえてもらった方がいいに決まっている。
 とはいうものの、それで犯人を逆上させてしまったらどうしようという思いもある。あの隠し撮り写真を見る限り、わたしの勤め先も自宅の場所も把握されているようだし、鉢合わせたこともないから、きっと生活パターンは完全に把握されている。
 自分でそう考えて、ぞわりと背筋が粟立った。きもちわるい。
 これはもう、引っ越した方がいいかもしれない。実家はこの街からかなり離れたところにあるから、実家に帰るのは転職でもしなければ難しい。それに、実家の方はかなり田舎で、あまり仕事もない。
 けれど、職場まで把握されてしまっているのだから、やっぱり実家に帰らないにしても転職はした方がいいだろう。やっと仕事にも慣れ始めてきたところだというのに、という思いもあるけれど、背に腹はかえられない。来週にでも上司に相談してみよう。
 うう、来月もらえるボーナスは引っ越し代に消えそうだ。洗濯機の調子が悪いから買い換えようと思っていたのに。

 待ちに待った楽しみが消えかけていることで、余計に気が滅入る。せっかくの週末だというのに。仕方ない、こういうときは気分転換するに限る。パン屋で美味しいアップルパイでも買おうと思い立ち、財布を手に取った。
 基本的に、土曜日は自分のしたいことをして、日曜日に翌日からの仕事に備える習慣ができていたから、いつもならちょっと夜更かしして、お昼前に起きて、それから身支度を調えて、といったふうになるのだけれど、今日は早くに目が覚めてしまった。眠りも浅かったように思う。頭が重たい。夢を見ていたような気もするけれど、思い出せないし、あまりいい夢ではなかった気がしたから、考えることをやめた。
 さっさと服を着替え、薄く化粧をして、家を出た。あえてポストは見なかった。

 家を出てすぐ、角を曲がったところで、ばったりお巡りさんと鉢合わせた。目つきの悪い、八重歯がかわいい男の人。どうやら巡回中だったようだ。お巡りさんはびっくりした顔をして、それから、へにゃりと笑う。

「おはようございます」
「おはようございます、お巡りさん」

 朝早くからありがとうございます、と言えば、お巡りさんはきゅっと目を細めて、さらに嬉しそうな顔をした。

「本職は暮らしの安全を守るために働いているんだぞお!」

 胸を張ってそう言う姿が微笑ましい。弟がいれば、こんな感じなのだろうか。つい、世話を焼きたくなってしまうような雰囲気の人だ。実際、交番に相談を持ち込んだときも、上司にかわいがられているようだった。年上受けしやすい末っ子気質、というやつだろう。

 あまり引き留めて仕事の邪魔をしてしまうのは気が引けたので、早々にでは、と言ってすれ違う。見事、回転したばかりのお気に入りのパン屋で、アップルパイをゲットできた。ついでにほうれん草のキッシュも焼きたてですよと勧められて買った。
 朝早くに出かけた甲斐もあって、焼きたてのアップルパイを手に入れてほくほくのわたしは、どうせ引っ越すなら今よりも広い家がいいな、いっそ洗濯機も新調してしまおうか、なんてのんきに考えていた。
 温かい袋を抱えて歩いていると、ポストを見るか見ないかなんてことがどうでも良くなってしまって、見るのは月曜日にしようと先送りにしてオートロックを解除した。
 開けた瞬間、マンションの中にいた人がちょうど出ようとしていて、ちょっとだけ損した気分になる。でも、でも、エレベーターが1階にあってすぐ乗れるのはラッキーだ。
 土日でも交番にお巡りさんはいるけれど、なんだか休みの日に問題を持ち込むのは遠慮したい気持ちになってしまう。わたしだって休みだから、あまり嫌なことは考えたくない。人間誰だって嫌なことは先延ばしにしたくなるものだ。直接的に暴力を振るわれたわけではない、ということもあって、完全に平和ぼけしているわたしの脳内は、買ったばかりのアップルパイとキッシュのことでいっぱいになっていた。

「きみのそういうところ、だぞお」

 呆れたような、浮かれたような、複雑な感情をにじませた、聞き覚えのある声がした。
 そうして、わたしの記憶はそこからすっぱりと途切れてしまったのだった。

 次に目が覚めたとき、視界に映ったのは知らない天井だった。蛍光灯はありふれたタイプのもので、けれど自分のものでないということは分かる。
 手のひらには、まだアップルパイの温もりが残っているような感覚があって、それから一気に直前の記憶がよみがえってきた。
 確か、珍しく早起きできたから、パン屋に行って、マンションのオートロックを抜けて、エレベーターに乗ろうとして。そこで、誰かの声が後ろから聞こえてき、て・・・・・・。
 手首に硬くてぬるい感触がしてから、少し手を持ち上げてみると、わたしはベッドに寝かされていて、毛布を掛けられているようだった。布団の中から、ちゃり、とかすかに金属がこすれ合うような音が聞こえてきた。
 ずぽっと毛布から右手を抜くと、散歩中の犬みたいに、左手も一緒についてきた。
 手錠だ。お巡りさんが、よく腰のポケットみたいなところに入れてるやつ。ドラマでしか見たことのないそれが、自分の両腕を拘束している。思ったよりも軽くて、ちゃちな作りだ。

「・・・・・・お巡りさん?」

 先ほど息を吹き返した記憶が、より鮮明になってきた。
 確か、最後にわたしが聞いた誰かの声は、あの八重歯がかわいいお巡りさんではなかったか。なんと言っていたかまではまだ思い出せないけれど、この調子で記憶をほじくり返していれば、まだ何か思い出せるかもしれない。
 けれど、思い出そうとしたのを遮るように、目の前へと影が落ちてきた。長くて癖のある髪の毛が三つ編みになっていて、それがたらりとぶら下がる。引きちぎられた縄のようなそれは、まぎれもなく、お巡りさんの髪の毛だった。いつも帽子を被っていたから気付かなかったけれど、ほどいた彼の髪の長さは、わたしのものよりもありそうだ。

「起きたみたいだね。待ちくたびれたぞお」

 にっと笑う彼の微笑みに、ほの暗い感情が透けて見えて、身震いをした。いつもならかわいいって思えるのに。

「あの、お巡りさん、この手錠、」

 外してくれませんか、と言い切る前に、お巡りさんは手錠に結びつけられているワイヤーロープをすくい上げるようにして手に取った。その先にあったのはベッドの柱で、買い物中に待たされている飼い犬のように、わたしは繋がれてしまっていたのだった。

「ねえ、いい加減、危ないって思わなかった?」

 何のことを言っているのか、すぐに察しがついた。けれど、それよりももっと身近な危機が、今、目の前に迫っている。向こうのペースに飲み込まれている場合ではない。
 なのに、口を開こうとしたわたしは、声にならない悲鳴を上げることになる。
 お巡りさんがズボンのポケットから取り出したのは、見慣れた、そして見たくもない、ストーカーからの手紙だった。

「本職はね、色んなかわいそうな人たちを見てきた。うちに相談に来たときには、もう手遅れなことの方が多かったし、手遅れだって言われるぐらいひどいことにならないと、おいら達は動けない。ひどいよね。おいら、だから、またきみに会ったとき、そういう目に遭ってほしくないって思った」

 おいら達はいつもいつも手遅れだ。
 泣き笑いのような表情で、お巡りさんが小さく呟く。糸のように細くなった三白眼には、何が映っているのだろう。見ているのが辛くなって、視線を下げた。
 それを意に介することもなく、お巡りさんは質問を重ねてきた。

「おいらのこと、覚えてる?」

 前も似たようなことを聞かれなかったっけ。わたしがかぶりを振ると、お巡りさんは残念そうな表情をしたものの、すぐに相好を崩した。それはわたしへ向けられたもののようで、どこかずれているようだった。 

「おいら頭が悪いから、勉強つらくてもう警察官になるの諦めようって思ってたけど、きみに声を掛けられたとき、ああ頑張ろうって思ったんだ。覚えてないみたいだけど、おいらはちゃんと覚えてるぞお」

 すごく、嬉しかったから。
 そう言ってお巡りさんはにっこりと笑った。幼く見えるような無邪気な微笑みも、今となっては恐怖をあおる材料でしかない。
 彼がぎゅっとワイヤーロープを握りしめると、ちゃりちゃりと細い鎖が音を立てる。試しにそっと、その音でごまかせるくらいそっと、鎖が切れはしないかと、腕を左右反対方向に力一杯引っ張ってみた。ただただ手錠が手首に食い込んで、冷たい感触と痛みに締め付けられるだけだった。
 お巡りさんは、そんなわたしの動きには気付いていなかったようだ。
 ほっとしたのも束の間、手紙をその辺に放ったお巡りさんは、空いた方の手でわたしの髪の毛を一房手に取り、手ぐしですくようにさらりさらりといじり始めた。髪の毛を引っ張られてしまっては相当な痛みになるだろう。何をされるのか分からない恐怖から、わたしは一切の身動きを封じられてしまった。
 けれど、身構えていたような痛みは襲ってこなかった。とはいえ、不気味なことに変わりはない。
 
 どこかで鳥の鳴き声が聞こえてくるが、カーテンがぴっちりと閉じられているため、今、何時なのかが分からない。そういえば、この部屋には時計がない。
 愛おしげな仕草でわたしの髪を弄んでいた彼は、やがて自然に抜けたであろう髪の1本を手に取って、恍惚とした、としか言いようのない表情を浮かべた。
 途端に、私の頭の中に手紙のことがフラッシュバックする。走馬灯のように、初めて手紙を手に取ってしまった日からの記憶が濁流のようにうねり始める。
 まさか。まさか。まさか。

「あなた、だったんですか・・・・・・!?」

 蚊の鳴くような声しで絞り出すようにして発した言葉は、果たして彼に届いていた。
 そうだぞお、といつもどおり間の抜けたような語尾で言ってのけたときの声音の無機質さに、怖気が走る。髪の毛の1本1本が根元からにわかに立ち上がっていくのが分かるくらい、全身の皮膚がざわりと粟立った。

「いっそ遠くに離れてくれればよかったのに、おいらの手が届かないところに行ってしまったらよかったのに。でもそれをしなかったから、もうこうするしかなかった」
「なん、で・・・・・・」 
「いっぱいいっぱい見てきた。泣き寝入りする女の子、もうまともな受け答えすらできなくて、うつろな目をしている女の子。おいらたちじゃ、どうにもできないことがたくさんあって、何か起きてからじゃ遅いって思った。だから、ここに居れば安全だって場所を、作ろうって思ったんだ」

 ほら、と言って、お巡りさんは、わたしの手首を手錠の上から掴んだ。細身だと思っていたのに、骨張った手は存外大きくて、手錠ごと、わたしの手首はすっぽりと彼の手のひらの中へと収まってしまった。

「こんなに簡単に捕まっちゃうんだから、危ないでしょ?でも、ここにいれば安全だぞお」

 戒められた両手に、生温い彼の体温が伝わっていくのを感じる。ぎし、とひとり用と思われるベッドがきしむ音と、膝のあたりに感じる圧迫感。馬乗りになって、正面からわたしの顔をのぞき込んでくるお巡りさんの表情は、その制服とはてんでちぐはぐで、倒錯的で、くらくらとめまいがした。
 悪い夢であってほしい。全部ぜんぶ。
 夢から覚めてしまったわたしを救ってくれるのは、夢でしかなかった。
 部屋の隅、暗がりにひっそりと置かれていたゴミ箱から、わたしの好きなパン屋の紙袋が覗いているのをみとめたのち、わたしはそっと、目を閉じた。

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