31/1.
到着早々車内から飛び出し、一目散に走り去っていく小さな影。
「行ったかnameは……まったく、しょうもない愛娘だ。だが図らずとも、奴へのいい手土産になったかな…?」
マダラは薄く笑いながら、そびえるマンションの最上部を見上げる。
そうして事の発端となった男は、素知らぬ風体を装いつつ、また元来た方向へと車を走らせていった。
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嘘だ。嘘だと信じたい。
―「可哀想にname……あやつから何も知らされていないのだな。」―
どこをどう曲がって来たかも覚えていないくらい、アタシの思考はそればっかりで。
―「知らないのは貴様だけだ。他の奴らは皆知っている。フガクもミコトも、奴の弟分も。もちろん奴の勤め先であるうちの社員全員。」―
開けた玄関、薄暗い室内。
流しには、いつかに飲んだコーヒーカップが置き去りにされたまんまだった。
(何で……どうして……。)
すべてが懐かしいはずなのに。一向に心休まる気配がない。
そのまま何をするでもなく、明かりも付けず。
アタシはしばらくボーッと、部屋に入ってすぐのところで意味もなく立ち尽くしていた。
「nameか……?」
『っ……!!』
突然声がした。リビングのソファに腰かけた、イタチと目が合った。
「おかえり。すまない勝手に上がり込んで。」
『…………。』
「びっくりするよな、オレがnameのアパートに来ることはあっても、部屋の中にまで入ったことなんかないし……それにしても久しぶりだな。いままで何度も連絡しようと、」
『イタチ、婚約者がいるって本当……?』
奇想天外な登場にも怯むことなく、アタシは咄嗟に問いかけた。
ハッとした彼が向いた先には、目を見開き眉を寄せた、すっかり動揺しきったまま動けないでいるアタシがいる。
―「俺がいない間の逃避行とは恐れ入る。だが所詮それも一時的なものにすぎない、いわば恋人ごっこといったところか。」―
―『…………。』―
―「既に決定事項である婚約者と、たった二週間ばかりの恋人ごっこ……わかるだろう?イタチにとって、どちらが火遊びだったのかを。」―
『もう何年も前に、婚約を結んだんだって……来月にも、挙式を挙げるって……、』
「……name…」
『じゃあ今のアタシたちは何なの?アタシとは遊びだったの…?これって立派な浮気だよ…!?』
「……っ違う、聞いてくれname、」
『イヤッ!!駄目、近寄らないで!!』
咄嗟に立ち上がった彼から逃れるべく、アタシは一番近くにあるダイニングテーブルを挟んで距離を置く。
―――そうだ、アタシ……イタチから“好き”だなんて一言も言われたことなかった……。
―『好きだよイタチ……好きなの、イタチが……』―
アタシがあんなみっともない告白した日にだって。
―「そうか……。」―
伏し目がちになり、視線を逸らされる始末。
それと今の現状を照らし合わせてしまえば、いままで彼に言われ続けてきた言葉の意味が、
―「“お前がこの先どんなに嫌がっても、泣いても、側にいる。”」―
……それだけがアタシの指針だった言葉が、心と共にねじ曲がる。
『側に居たいって、そういうことだったんだ……確かにそんなこと言われただけで、すぐほだされちゃうアタシなんか……イタチからしたら都合のいい女だって思われても仕方ないよね…………
…………ごめん、やっぱり納得できない。』
アタシは咄嗟に、ダイニングテーブルに飾られていた花瓶を掴んでいた。
ゴンッ!!
「うっ……!」
彼の額を直撃した花瓶は、そのまま重力に従い。
ガシャアアンと、床に叩きつけられ無惨にも飛散した。
「……っ!待てname、」
アタシはそのままドタドタと、玄関に向かって一心不乱に走った。背後で止める制止も聞かず。
―――こんなことなら、言わなかったのに。
ガシッ!!
『っあ!!』
はじめから婚約の件を知っていたら……いくら片想いの相手だろうと、関係ない。
既にお相手の決まっている人に告白だなんて、アタシなら絶対にしなかったはずなのに。
「待て、待つんだやめろ!」
『……っ!!放して、放してよぉ!!』
「こんな夜更けに外へ出たら、」
『関係ないでしょイタチには!?アタシなんて、アタシなんて……!!』
そのとき彼に捕まえられてしまった両の手首と、その感触に……アタシは心底込み上げる。
―――どうして今まで、気づかなかったんだろう。
『馬鹿なの、アタシ……!?』
イタチがアタシに触れる、その手つきが。
それが“女の触り方”を知っている手だったこと。
―「nameの髪は綺麗だな。」―
どうして今まで、見抜けなかったんだろう。
あれは“女の味わい方”を知っている唇だったってこと。
―「……甘いな、nameは。」―
処女でもないアタシが、散々伯父さんを相手してきたアタシが、今ようやくそれを悟れたのだ。
『もういいから放して!!行かせてよぉ!!』
「聞いてくれname、騙すつもりは、」
『聞きたくないの!!もうイヤぁ!!』
そうしてもがき足掻いて、ドンッと彼を突き飛ばしたとき。
彼の体は動くことなく、逆にアタシの体がフワッと浮いた。
『あ………』
そんな声が漏れたときには、既にアタシの体は背面から無防備に廊下へと投げ出されていて。
こういうときってよくスローモーションで、時の流れが遅く感じることってあるけど。
―「あまりうろちょろするな。オレが守れる範囲にいろ。」―
……アタシは彼の唇が触れた瞬間を、このとき全く覚えていなかった。
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