12.
あの甘ったるい昨日の件から一転。
アタシはイタチを、避けていた。
「name、さっき渡した見積書だが、」
『わわわかってる!!任せてすぐに終わらせちゃうから!!』
どうしても気まずく、どうしても近寄れない。
……あのイタチの赤と黒の瞳を見留めて以来、アタシは言いようのない恐怖を覚えていた。
―「nameがこんなに甘いから……オレは無性に甘いものが、欲しくなるんだ……。」―
―――原因は、わかってる。イタチは何も、悪くない。
それでもアタシの体が、勝手に拒絶反応を出してしまって仕方がなかった。
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「name、髪に埃が付いてるぞ。」
『っ!!』
―――瞬間、アタシはその手を避けた。
毛先に触れかけたその手が、空を切れば静かに落ちる。
「……name…?」
『……っ…、』
「ずっと気にはなっていたんだが……今日はやたらオレを避けてないか?」
……ずばり。まさにずばりだ。さすがにバレてないとは思っていないが。
それでも直球で言われると、どうしてかなかなかクるものがある。
「避けるというより、警戒していると言ったほうが正しいかもな。」
『い、いや〜?別にそんなことは、』
「まだ昨日のことを気にかけているのか……あれでオレが信用できなくなったとか?」
『いやいやそんな、充分信用してるよ?イタチってば、そんなやだなぁアハハハハ……、』
自分でも無理なカラ笑いだなんて、百も承知だ。
それでもアタシは強引にその視線から逃れれば、別の話題にすがり付く。
『そ、それにしてもイタチはすごいよね!!本当に同い年とは思えないよ!!』
「……?そんなことないさ。nameだってもう充分に大人の女性だ。」
『っ!!ほ、ほら!!そういうとことか、ホントにね……』
「そういうとこ?」
『いや、だから……大人の女性だーとか、お世辞がうまいなぁって。よくそんなにスラスラ思いつくよねぇ。』
「お世辞じゃないからな。思ったことを素直に口にしてるだけだから、そりゃあスラスラ出るさ。」
『いやいやいや、そういうとこがお世辞なんだって!実際お得意先の女性にも、そういう洒落たこと言えちゃうタチでしょ?』
「実際も何も、オレがそうしてる現場を見たことがないんだから、nameに確証はないんだろう?」
『そりゃあ、まぁ……。』
くっ……さすがはイタチ、切り返しが早いしボキャブラリーも豊富だ。
そうしてアタシが次なる策を講じていると、頭部にほんの違和感。
見ればイタチが、アタシの髪をいじくり倒していた。
『っ……!?ちょ、イタチ待った!やめ、て、』
「nameの髪は綺麗だな。」
『そ、そんなことないって……!ていうか、くすぐったいから放して、や……!』
「ほら、やっと埃も取れた。それともう少しじっとできないか?」
『無理無理無理無理……っ!!』
更に積極的になるイタチの手。
アタシは咄嗟に身を起こせば、彼のデスクから急いで後退した。
―――ゴンッ、
『!??痛ったぁ…!』
だがしかしアタシの後退した方向は、夜景が見下ろせるガラス張りの一面。
正面で立ち上がったイタチを見留めれば、アタシは体を反転させて。
外の世界に助けを求めるように手をついた。
「……?何をそんなに怯えている?」
『っや……!!』
「name……?」
外の夜景に映る、アタシたち二人の近すぎる距離が見るに耐えず、目をふさぐ。
こんなに広い世界が目の前にあるのに……透明な見えない壁に遮られ、アタシはそこにたどり着けない。
―――その指が背後から髪を梳いた瞬間、はじけた。
『やめて、イタチっ!!!』
「!」
途端にイタチの手が離れる。
アタシは一人だけ、もう汗でびっしょりだった。
そうして息も絶え絶えに呼吸すれば……ガラスにピタリとつけていた手のひらが、拳になって落ちていく。
『こ、恋人ごっこなんて、どうかしてるよ、』
「…………。」
『こんなの、世間的にも、きっと良くないよ……ひ、秘密裏に、こんなスキャンダルみたいなことして……』
一回一回肩を上下させて。
アタシは汗ばんだ額を、そのままゴツンとガラスに当てがって再び目を閉じた。
『イタチはイタチでいいんだよ……そ、そんな無理にアタシとキスしたり、いちいち触れてこなくても……あ、アタシの周りがあんまりにも男っ気ないから!きっと気ぃ遣って、少し遊んでくれてたんだよね!!ごめん、でも大丈夫なの!!アタシほんとそういうの、必要ないから……!』
額からの汗が、ガラスの表面を伝っていく。
ようやく冷静さを取り戻し、アタシがその目を徐々に開くと。
……ガラスに反射した彼は、何かを思い出したようにポツリと言う。
「そうか……所詮無理じいさせてたのは、オレのほうだったよな……。」
『!!!』
―「お前がこの先どんなに嫌がっても、泣いても……オレはnameの、側にいるから……。」―
……ぁ……アタシ今…、
―『やめて、イタチっ!!!』―
イタチのこと拒絶した……?
―『アタシがイタチを嫌がるとか、そんなことは絶対にないよ…?』―
アタシは咄嗟に、口を覆う。
自らの小さな裏切りに、アタシは冷水をかぶったみたいに全身が凍りつくのを感じた。
『い、イタチ!ちがっ…!』
「すまなかったな、今日までたくさん……オレの立場からnameにこんなこと、強要させられるわけもなかった。」
アタシは咄嗟にガラスに映る彼から、現実の彼へと視線を向ける。
そんなアタシの深刻さとは裏腹に、イタチは信じられないくらいフワリと笑った。
「だからもう、おしまいにしよう。nameがそれを望むなら。」
ヒロイン、失格イタチのヒロインになれなかった、ということよりも。
あの日に抱いた彼への誠意をあれほどたやすく否定してみせた、不甲斐ない自分を呪った。
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