春紫苑



こちらの続き


 最近店に、妙な客がくるようになった。

 遊郭街特有の薄ぼんやりしたオレンジ色の灯りが外から暗い室内にはいり、布団を照らしていた。妖艶な雰囲気なんのその、布団に横臥した男の服は乱れたところがない。それどころか情事のために少し大きめのつくりになっている布団は贅沢にこの男だけが使っている。
きちっと手入れされた男の太い指先が満足げに畳の上に広げられた紙を叩いた。そこにはお世辞にも上手とは言えない、かろうじて字と呼べるような線がミミズのように紙の上をのたくっている。

 「そう、前よりかは上手くなったじゃないか」
 「・・嘘。嘘よ。嘘ばっかり。お手本と全然違うわ、先生」

 字を書いた女は筆を片手に男を睨む。睨まれた男は笑ってみせた。

 「なに、君はもうこういう字を書ける気でいたのかい。まだ字を教えて何回めかな・・」
 「三回」
 「そう、三回だろう?三回でこれだけかければいい方じゃないかな、ほらもう一度」

 女は深くため息をついたが、一度やると決めたら譲らない性格が災いしてまた紙と向き直ると筆を下ろした。
 そう、妙な客というのはこの布団で楽しそうにこちらを見ている男である。

 集団客の一人として来ていたのが始めて顔を合わせた夜であった。
 どうにも酒がダメと見えて、だが上司には逆らえずに半笑いの彼の盃の中身をこっそり水と取り替えてやった事から、女を指名して一人で来るようになった。

 指名された夜、女にとってははじめての客であったので緊張やらなにやら全てが綯い交ぜになった感情を抱えて部屋に入れば、男は

 「名前は?」

 とそれだけ聞いて布団に座っている。

 「ゆ、夕霧です」
 「そうか、夕霧か。いい名前をもらったね。こちらにおいで」

 にこやかに笑って男は自分が座っている前あたりを叩く。女ーー夕霧は、促されるままにそこに座る。深夜の遊郭で男女が布団の上で向かい合って座っているという奇妙な光景に、夕霧の胸を支配するものが緊張から疑問に変わる。


 「生まれはどのへんかな?」
 「・・ここから随分と遠い場所です。海が綺麗なところでした」
 「・・なるほど、海沿いね。いいね」

 そこからは男の仕事だとか、夕霧自身の昔の暮らしだとか他愛ない話をした。掴み所のない男だったが、聞き上手な男だった。田舎の村に生まれ、ろくに勉強もしたことがなくそのままこの遊郭に売られた夕霧の拙い話もそうかそうかと聞いてくれる。夕霧は、夢中になって話し込んでいた。
 夕霧の正座が砕けたものになるくらいに時間が過ぎた頃、男は「そろそろかな」と立ち上がった。

 「えっ、これだけ?」
 「そう、これだけ。君と話をしてみたかったんだ、あの時から」

 去り際にそうだ、と男は言った。

 「君、学がないのが嫌だと言ったね、私でよければ基礎くらいは教えよう」

 暗に次があると言われた夕霧は、期待のような戸惑いのような感情を整理しながら男の去っていく足音を一人で聞いていた。



 それから男は夕霧の太客になった。
 毎回彼女を指定しては部屋で話す。次第に地図を持ってきてくれたり紙と筆を持って夕霧に教えるようにもなった。そんな彼を夕霧は次第に「先生」と呼ぶようになっていった。
 「先生」は夕霧に様々なことを教えてくれた。文字の読み書き、日本の地図、会話のコツ、様々な所作。夜の遊郭とは程遠く、それは純粋なものであった。
 夕霧がとある噂を耳にしたのも、この頃である。

 「・・・・ねぇ先生」

 その日は男が持ってきた物語を四苦八苦しながら読んでいた。「自分に付けられた夕霧という名の元が気になるだろう」と随分と読み込まれたのかボロボロになっている写本だった。さして内容が入ってこなかった夕霧は、それを閉じると自分の膝を枕にのんびり過ごす男を見つめた。

 「なにかな」

 男はゆっくり瞼をあげると見つめ返してくる。その瞳と視線がかち合った瞬間に夕霧はぱっと目をそらして口ごもる。

 「・・・・な、なんで私じゃいけないんです?」
 「いけないとは?」
 「そ、それは・・」

 噂曰く、彼はいつもこの後他の店に行く。
 それ自体は決して悪いことじゃない。この世界で私だけのものでいろなんて言う気もさらさらない。ただこの話を聞いた時、つい思ってしまった。自分の時はいつだって「先生」の一面だけ。他の店の女とは肌を重ねるんだろうか、と。

 (・・でも、こんな聞き方したらまるで)

 見知らぬ女に妬いてるみたい。

 「夕霧」
 「なに、」

 上半身だけ起こした男に名前を呼ばれてそちらを顔を向ければくい、と引き寄せられる。そのまま唇を重ねられて夕霧は慌てて男の肩に手を置くと離れようと力を込めた。もちろん、力で男に勝てるはずもなくするっと入ってきた舌に更に力が抜けた夕霧はとうとう体を男に預ける。されるがまま、ようやく男が唇を離す頃には息が上がっていた。

 「初めて見た日から綺麗だと思っていたが、その表情は一番いい」
 「・・嘘。きっと今、一番醜い顔してます」
 「そうだね、綺麗だ」
 「・・・・人の話聞いてます?」

 昔、運動をしていたから自信があるのだという胸板から顔を上げてまっすぐ男を睨めば彼は少しも悪びれずに「そうだ」と呟くと懐から何かを取り出して夕霧の鼻先にくっつけた。ぴとり、とあたった冷たい何かに「ひゃ、」と小さく悲鳴を上げて慌ててそれに手を伸ばす。
 それは簪だった。ここらで見るような質素なものとは違って、先端には透き通った緋色の蜻蛉玉が付いており、そこからまたちいさな蜻蛉玉がぶら下がっている。行燈の灯りに翳せばキラリとひかるそれを夕霧は夢中で見つめた。

 「この間仕事先で見つけたんだよ。女性の流行りには自信はないけれど君に似合うと思う」
 「・・この色、好きだわ」

 思わずそう呟いた夕霧からするっと簪を取り、男はそのまま髪に挿してやる。こちらを見て細まった茶の色の瞳に思わず口をつぐんだ。

 「・・そう言うと思った」



 「・・逆だわ・・立場が・・」

 それから数日後、支度を済ませた夕霧は鏡の前でもらった簪を弄りながら思わず呟く。
 ここは一夜の夢を見る場所。男は客で、女はそれを用意する側だ。支度をして化粧をしてあの手この手、時には口説を使って夢を見せる側。彼との今までを考えるとまるきり逆なのだーーそこまで考えて、はたと手を止めた。

 (私、あの人のこと・・いやでも変な人だし、だいたいいつも来るのに何もなしなのは本当は女を抱けないんじゃないの?)

 でも、彼はいつも夕霧の後に他の店に行く。結局これも聞けずじまいだ。夕霧が簪を膝の上に転がしていればふと、上から声が降って来る。

 「なあに、夕霧やるじゃない。それもらったの?」
 「須磨姉さん、あ、ちょっと!」

 ひょいと緋色の簪を取った須磨はとなりに座るとへぇ、と呟く。

 「いいわね、綺麗。あの伊達男にもらったんでしょ」
 「そう、ほら返してください」

 そう言われた須磨は聞いているのかいないのかニコニコ笑った。この須磨というのは年は夕霧と変わらないものの、夕霧よりも長くこの店にいる遊女である。なんでも客と遊女の間に生まれたとかでこの店に遊女として働き出す以前から住んでいるらしい。この店の遊女はだいたい須磨に目をかけてもらっていたので彼女を慕う遊女は多かった。夕霧もその一人だ。

 「今日もどうせあの人だろう?つけていっておやり。あんたに似合うし相手も喜ぶ」

 須磨はそういうと器用に夕霧の髪に緋色の簪を挿した。揺れるちいさな蜻蛉玉を鏡ごしに見ながら夕霧はなんとも言えない気持ちにかられる。ふと、後ろに立つ須磨の髪にも見慣れない簪を見つけて夕霧は振り返った。

 「あら須磨姉さんこそ、頂いたの?」
 「・・そ、いいだろう?これ」

 そう言ってこそばゆそうに笑う須磨の表情は初めて見るもので、それが最後に見た彼女の姿だった。


 その日は小雨の降る寒い夜だった。いつも通り男はやってきてこれまたいつも通り夕霧にあれこれ教えてやるが、当の夕霧はいつも通りではなかった。色白の肌はもっと血の気が引いてもはや蒼白に近い。細い指も冷たく、心ここに在らずといった瞳はぼんやり写本を見つめている。

 「・・・・夕霧、」

 名を呼んでも聞こえていないのかこちらを見ない。男はその顎を掴むと半ば無理矢理こちらを向かせた。

 「・・・・噂を聞きました」
 「誰のかな」
 「・・先生の・・・・いつもこの後他の店に行くのでしょう?咎めはしないけれど、じゃあどうして先生はここにいつもいらっしゃるの?」

 男はさして驚きはしなかった。「潮時かな」と小さく呟くと夕霧をまっすぐ見つめる。

 「・・夕霧、話がある。俺ときてほしい」

 夕霧はゆっくり目を見開くと首を振り、体を震わせた。拒絶というよりも恐怖に近いあまりの反応に男は夕霧の細い腕を掴んで抱きしめてやる。しばらく抵抗していたが、やがて静かになった胸元からはすすり泣く声が聞こえてきた。

 「・・嫌です、無理です、だって、須磨姉さんが、ダメだった・・」

 今日、店に入る前に見た光景を男は思い出した。店と店の間、暗い路地。その袋はまるでその辺の塵のように転がされていた。そこからひょろりと伸びた腕はおそらく女の腕。少し前に恋に落ちた客と共にこの世界から逃げ出そうとして捕まった遊女がいたと噂で聞いた。
 夕霧は男との時間の中ですっかり忘れていた。背負わされた借金と店に囚われていることを。所詮、自分は商品であったことを。

 「・・夕霧、俺は君に出会った時にいたところから辞めるつもりなんだ。友人のつてでちょっと新しい仕事を始めてね・・いや、まだ始まってはいないんだが・・ともかく、この次に行く店でいつもそのことについて話しているんだよ」

 心底優しい声音に夕霧は顔を上げる。

 「これからおそらく俺の全てが変わると思う・・そこに、どうか君がいてほしい」
 「・・どうして私なんですか」
 「・・・・どうしてだろうね。この店に通いながら、君の元に通いながらずっと考えてきた」

 するする、と男の指が簪へと伝う。そこから首へ肩へと下りていき、男は軽く肩を押して夕霧を押し倒した。

 「学を教える、字を教えるなんて言いながら本当は君をすぐに自分のものにしてしまうのを逃げたのも、他の客よりも君の中で特別な存在になりたいなんて思ったのも、考えても考えても理屈では片付かないな。あの日、君に初めて会った日から」

 覆いかぶさった男はまっすぐこちらを見る。

 「・・でも、足抜けは・・」
 「足抜けなんて賭け事はしないよ。俺は自分に分が悪い賭けはしないタチでね、その上根が欲張りだから必ず君がほしい」

 真っ直ぐな言葉に顔をそらせずにいた夕霧は「・・それで?」と返すだけで精一杯だった。

 「・・・・正攻法でいこう。金を用意する」

 しばらく部屋には雨の音だけが響いていた。夕霧はゆっくり口を開いた。ここは一夜の夢を見る場所。お互いに、夢を見るために嘘をつく場所。

 「・・またご冗談を」
 「・・いたって本気ですよ」
 「まさか」
 「証明を」

 男は懐からおもむろに小刀を取り出すと鞘を抜いた。それは行燈のわずかな光で鈍く緋色に染まる。彼が何をしようとしてるのかわかったからだ。

 (本気なんだわ)

 夕霧は少し逡巡した後に、小刀を握った男の手を掴む。そんな夕霧に男は少し照れ臭そうに笑った。あの日の須磨と同じ顔。愛に動かされる表情。

 「夕霧、名前は?本当の名前は?」
 「・・・・キリ」
 「・・そうか、いい名だね」

 男は体を起こすと夕霧ーーキリの手を取って助け起こしてやる。二人は布団の上にお互いの手を広げて置く。キリはゆっくり息を吐いた。

 「・・・・私、本当に待ちますよ?先生・・・・唐沢さんを待ちますから」
 「・・必ず」

 それからしばらく男は店に来ることがなくなり、その時期から小指のかけた遊女の噂が広まるようになった。

 「・・今時指切りだなんで。馬鹿だねぇ、来やしないよ」

 そう言われても夕霧は待ち続けた。日が暮れた街を朱塗りの格子から目を凝らしてあの姿を待っていた。
 来ないなら来ないでもよかった。
 昔、はるか昔に思ったことがある。物語のような恋がしてみたかった。男に貸してもらった写本の中の女たちのように。
 その日はそれから季節を二つほど越した頃だった。偶然にも小雨が降るその日に、彼はやってきた。

 「・・・・律儀な人ね」
 「・・約束しましたから」

 そう言ってこちらに伸ばされた大きな手は小指が欠けている。迷わず伸ばしたキリの手の小指も欠けていた。




 聞こえてきた物音にキリは意識を浮上させた。
 確か先ほどまで机で裁縫をしていたはずだが、体にかかる毛布の感覚にどうやら自分は寝てしまったらしい。ソファで無理な体勢で眠ってしまったからだろうか全身が軋んだ。
 うっすら目を開けると黒い服の後ろ姿が見えた。大方、様子を見にきた東がこの毛布も掛けてくれたのだろう。ついでに水でも持ってきてもらおうと手を伸ばす。

  「・・・・東、」

 くるりと視界の背がこちらを向く。しかし、その服は東がいつも身にまとっているあの燕尾服ではない。それにキリが気付くと同時に伸ばした手が絡め取られた。ぎゅう、と握られてキリは慌てて意識を覚醒させた。この屋敷でキリにそんな事をする人物は一人しかいない。しかし、その人物は今、城戸に連れられてしばらくこの屋敷を留守にしているはずで、帰りはもう少し先のはず。

 自分を覆いかぶさるように、天井を背景に視界いっぱいに映る男を見てキリは目を大きく瞬かせた。

 「久々に聞いた君の声が他の男の名前を呼ぶのは妬けてしまうな」
 「克己さん、早く帰ってこれたの?」
 「・・ああ、あの人もまったく人使いが荒い、いや確かに資金は俺が何とかするとは言いましたけど」

 唐沢は唸りながらそのままキリに抱きつく。その言葉とは裏腹に唐沢の表情は穏やかなものだ。そんな夫の表情にキリも少し笑ってそのこげ茶の髪を梳いた。
 ボーダーという組織と協力してはや数年経つ。彼らの組織の資金を調達するのが唐沢の最近の仕事になっていた。仕事については唐沢があまり話さないので、キリはこれくらいしか知らないが以前にも増して楽しそうにする唐沢にやはり彼はあの時、元の仕事と決別してよかったのだと記憶を手繰りながら考えていた。

 「楽しそうね」
 「・・まあ、退屈はしなくていいかな」

 唐沢はキリの鼻先にキスを落とすと体を起こす。

 「あの子は?屋敷が静かであるところ、多分外にいるんだろうけれど」
 「お庭でカゲくん達と遊んでもらっているのよ。あの子ったらずーっとカゲくんにぴったりで」
 「そうか、影浦くんには悪いな」
 「・・・・ねぇ、先生」

 久々にそう呼ばれた唐沢は驚いたようにキリを見、口の端を少し上げる。あの時、あの店で「先生」はよくこんな笑い方をしていた。

 「・・久々に君にそう呼ばれたな。昔の夢でも見たかい?夕霧」
 「・・少し。ねぇ、一つ聞いてもいい?もし、初めて会った時、貴方の杯を水に変えたのが私じゃなくて違う子だったら?」
 「そうだな・・・・答えにはならないかもしれないけど、ひとつだけ」

 唐沢はキリの手を取ると引き寄せる。

 「君との出会いがあの宴会でなくとも、例え朱塗りの格子越しに俺が君を見つけただけという一方的な出会いでも君の元へ通っていたかな」

 ふ、と唐沢が言葉と同時に漏らす吐息が唇にかかるくらい顔を近づけられたキリはその瞳に見据えられて動けなくなった。ただ、キリだけを映す瞳。

 「気付かなかったかな、あの宴会・・・・ずーっと最初から、俺は君を見ていた。一目見た時からずっと、君だけを見ていたのだけれど」
 「そ、そんなの知りませ・・んっ」

 唇を塞がれたキリはそのまま言葉を飲み込むしかなかった。何度か重ねた後に、唐沢はキリの頬を撫でる。

 「答えはこうだ、あの日君ではない誰かだったら・・君に出会えなければ、俺はこんなにも満ち足りてなかっただろうね」
 「・・私も、私もきっと、そう」

 絞り出したようなキリの答えに、唐沢は笑って再び唇を寄せたがそっと離れる。それと同時に部屋の扉が勢いよく開いた。その向こうには何やら花や草を頭に引っ付けた影浦と、その手を引く娘がいた。その後ろには同じく草やら花やらを身体中につけた仁礼と絵馬もいる。

 「おとうさま!おかえりなさい!」
 「おや、少し見ないうちに背が伸びたかな?」

 ばっとかけてきた娘を唐沢は抱き上げた。そっくりなこげ茶の頭が二つ並ぶ。その光景をぼんやりキリは見ていた。少し前まで夢に見ていた光景が今、現実として広がっている。

 「あのね、ひとみがおかしをつくってくれたのよ、あずまがいってたの」
 「おや、それは」
 「よかったら旦那サマも食べましょーよー!」
 「じゃあ仁礼くんのお誘いに乗ろうかな…キリ、君はどうする?」
 「そうね、頂こうかしら」

 その声に我に帰ったキリはにっこり笑うと立ち上がった。
 春の風が入り込んできた廊下の窓から見える空は、もうからりと晴れている。
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