紫陽花



※設定は明治ぐらい



 そのお屋敷は少し、ほんの少しだけ街はずれにあります。街を抜けてほんの少しだけ森へと入ったところですが周りの音といっしょに空間も木々が遮ってしまうのでした。

 お屋敷までの道のりへ歩みを進めれば進めるほどに人の声や行き交う音、がやがやとした生活音は次第になくなってゆきまして、ただただ、唐傘を軽く叩く雨音だけが城戸の耳に届いておりました。
 少しだけ唐傘を上げて視線を上に向けますと、今からまさに行かんとするお屋敷が森の中より少しだけ顔を出しております。近頃流行りのレンガ造りのそのお屋敷は、どことなく異国を思わせる造りでありましたが、だからと言って暗い赤色のそのレンガの壁は一際目立つわけでもございません。
 この城戸は金や豪華な邸宅とは無縁な男でしたから、商談相手が大層なやり手でその上自分よりも若いと聞くなり、きっとその富をひけらかしたい若僧に違いないーーといいました少しばかりの偏見がございましたので、思わず歩みを止めて眺めた後、ほう、と声を漏らしてまた歩を進めるのでした。

 さて、今や閉鎖的だったこの国も異国の文化が舞い込み、何もかもが変わりつつある時代。舞い込む物は良い変化だけをもたらすわけではございません。
 異国、ではなく異界からも摩訶不思議な物が忍び込んで来たのです。大きな白い体をしたその異界の化物は、黒い穴から這い出たと思えば人を攫い、あまつや人を殺すのでございました。
 大きな侵攻こそはありませんが、化物に襲われ顔に大きな傷を負った城戸は同じような境遇の仲間を集めて異界のモノに立ち向かうための組織を結成したのは、4年とほんのちょっとの前の事にございます。

 組織の物の大半は小さな道場があることだけが取り柄な山奥にある小さな村の生まれでございましたから、金の流れも稼ぎ方もうんと鈍く、組織とは名ばかり、異界の兵器へ復讐を望む小さな小さな集団でございました。武器を作るにも、組織を大きくするのも金と社会的な力が必要でございます。異界の兵器に境遇を壊されてもなお、金と権力に困ることだけは変わらないのでした。そうしてこれではいかん、と事実上組織の頭を務めております城戸が目につけたのはこの森の中の邸宅の主ーー唐沢克己という男でした。

 うっそうとする森に、人為的に作られた一本の馬車道をただただ歩き、大きな門の前で城戸は立ち止まりました。
 城戸もただただ年だけを取っているだけではございません。忍田という男を使いにやって、唐沢とは事前にこの時間に約束事をこじつけていたのであります。

 「お約束の城戸様、でよろしいでしょうか」

 声に促されるまま顔を上げれば、そこには黒い燕尾服をまとった長身の男がすく、と立っておりました。長く、つやりとした黒髪を一つに縛った男は城戸と視線が混じるなり上品に微笑みましたので、城戸は返事の代わりにそうだと小さくうなずきました。

 「お待ちしておりました」

 これまた礼儀正しくお辞儀をした燕尾服の男は大きな門を開けました。どうぞとばかりにまた微笑んだ男に小さく礼をすると大きな門をくぐりました。大きな門に見合う大きな屋敷はどっしりと構えてまるで城戸を待ち構えていたかのようでございました。庭にさいた様々な色の紫陽花を見て、城戸はもう水無月か、などと思っていれば少し先を歩いていた男が話始めましたので慌てて意識をもどしました。

 「ご挨拶が遅れました、私は東というものでございます。旦那様はもうじきおかえりになられますので、お客様を先に通すようにと伺っております」

 外観と同じように、豪華絢爛、といった華々しい雰囲気はなく、どこか落ち着いていて、されどもどこか気品のある屋敷内をあるいていきまして、城戸は東に一つの部屋に通されました。

 「ここで今しばらくお待ちください」

 にこり、と微笑みました東に軽く会釈すると城戸はぐるりと部屋を見渡しました。大きな部屋と高級な家具たちは今更ながら、人生で初めての商談という未知のものが迫る恐れと、緊張を城戸に知らしめてしまったのであります。

***

 さて、時は同じくして、場所は今しがた城戸がたどってきました屋敷へと続く道を
走る馬車の中の事でございます。
 絵馬は正面にお座りになられたぼんやり外を眺める奥方、そして馬車の外より見える外の雨模様、と交互に視線をやったあとに脇に置いてありましたひざ掛けを手に取りました。手触りのよい生地のこのひざ掛けは、絵馬の主が身ごもった自身の妻を心配するあまり買った物の一つでございました。

 「奥様、これを。今日は冷えておりますから」

 「ありがとう」

 柔らかく笑うこの、奥方ーーキリを絵馬は何よりも慕っておりました。父と共に路頭に迷っていたところをこのキリに拾われたその日から、キリは母のようなものであり、使えるべき主人でもありました。そしてこうもキリを慕うこの絵馬の気持ちが、今日は災いしてしまったのでございます。
 先刻の事を再び思い出して絵馬が溜息をつけば、向かいのキリは困ったように笑いました。

 「まだ、気にしているのですか?」

 「・・気にします」

 「いいのに」

 「よくありません。あの医者は、奥様の事をなじりました」

 「私は、聞いてないわ」

 「わたしがこの耳ではっきり聞いたのです、奥様と旦那様をあの医者は、陰で悪く言っていたのです」

 絵馬はおなじ年の子供より、いくばくも落ち着いていて大人びておりました。されども一番大切なキリが絡むとなると途端にその幼さを取り戻してしまうのでした。
 そんな絵馬よりもいくつも年を重ねたキリにはそれが手に取るように分かりましたので、また困ったように笑うと諭すような声音で続けるのでした。

 「いいですか、万人に好かれることはできません。あのお医者様はきちんと私を診てくださいます。私が彼にそれ以上望むことはなにもありませんから、それでよいのですよ。彼が私をどう思うか、それは関係ないのです」

 「・・・・僕が嫌です」

 とうとうむくれてしまった絵馬にキリはからからと笑いました。この、キリの笑い声が好きな絵馬はすこしだけ、ほんの少しだけ沈んだ気持ちに光が差したのでございました。

 「まあ、この指を見てしまえばみんな分かってしまいますから、遅かれ早かれこうなっていましたよ」

 そう言ってキリは手袋をした右手へと視線を落とすのでした。
 キリはいつもその手に手袋をつけているのでした。理由を問えば、幼いころに負った火傷の後をかくしているのだと、少し微笑むのでございました。
 しかし、絵馬は知っておりましたーー手袋の中にあるその白く細長い指のついたその手は、小指が欠けていることを。そして、それは彼にも。

 「奥様、」

 「なんですか」

 「・・・・いいえ」

 触れてはならぬーーそう、絵馬は直感したのでございます。奥様と旦那様は二人だけの秘密を抱えている。そう知っているからこそ、分かっているからこそ絵馬はあえて何も聞かないのでございました。
 その二人の秘密はとても美しいと思う反面、とても恐ろしい物だと直感したからでございます。

***

 「いや、いいものを見せてもらいましたよ。私も船がいくつも壊されましてね。ほとほと困り果ててたところでしたから」

 にこやかに笑う男ーー唐沢に城戸はそうか、とだけ頷いて武器をそっと懐にしまい込みました。交渉は常に向こう側のペース。どうにかこちらの有利な条件をいくつか引っ張り出せたものの、長い目で見ると唐沢のほうが利があるのでした。年下だとどこか侮っていた自分を城戸は少し悔いました。

 「資金はいくらでもだしますよ。なんなり申し付けてください。ただ・・」

 「分かっている。防衛面はこちらに任せてほしい」

 「お願いします。さて、玄関までおくりましょう」

 そう言って立ち上がる唐沢の手が、ふと目に着きました。思い返しますと、唐沢はずっとその手に付けた手袋を外さなかったのです。
 どうぞ、と部屋の扉を開けた唐沢に会釈して一足先に部屋を出ますと、城戸は唐沢と並んで歩きながら尋ねました。

 「手に怪我でも?」

 「・・あぁ、少々目立つ傷跡がありましてね。自分では気にいってはいるんですがーー今だから言いますけれど、少々交渉の時に不利になったりするのですよ」

 「不利・・?」

 外はまだ雨が降りしきっておりました。待機していました東に差し出された傘を受け取る城戸に、唐沢はにこやかに言いました。

 「おかえりはどちらまでですか? うちのものに送らせますよ」

 「克己さん」

 城戸が口を開くと同時にそう高い声が重なりました。ふと振り向けば、小さな従者を連れた婦人がおりました。

 「キリ、おかえり。此方は妻のキリです」

 「はじめまして」

 キリが頭を下げれば隣の従者も丁寧に頭を下げました。その手は、手袋がついておりました。手を汚れるのを嫌う貴婦人もいますから、これといって普通の光景でございますが、城戸は少しだけ違和感を覚えるのでした。

 「東、お客様を頼みましたよ」

 「はい。城戸様、こちらへ」

 「では城戸さん、これからどうぞよろしくお願いします」

 そう言った唐沢は階段を上るキリの手を取りました。その手つきが、まるで壊れ物にさわるような、慈しむようなーー

 「城戸様?」

 「・・あぁ、すまない」

 城戸は用意された馬車に乗り込みました。
 馬車はがたがたと揺れて元来た道を戻ってゆきます。濡れた紫陽花が、静かに静かに咲いておりました。

***

 その日はとても静かな雨の夜でございました。
 キリは、目の前の男をじ、と見つめました。いつものあの、何かを隠すような瞳の光は消え、代わりに真剣な光がじっとキリを見据えておりました。消えそうな行燈の火は頼り気なく偽りだらけの室内を照らしております。

 「・・またご冗談を」

 「・・いたって本気ですよ」

 「まさか」

 「証明を」

 そう言って彼が取り出したのは、鈍く鈍く光る小刀でした。



 「キリ」

 ふと名前を呼ばれまして、キリは意識を戻しました。声を頼りに顔を上げ、思わず笑いました。

 「克己さん」

 「・・医師に小指を見られたんだって?」

 「お医者様ですよ、ずっと隠せ通せるはずはないの」

 「それはそうだ」

 するり、と唐沢はキリの右の手の手袋を外しましたーーその、キリの手袋を外す唐沢の左の手も、小指が欠けておりました。

 「交渉はいかがでしたか?」

 「大丈夫。もうあの怪物に君が襲われる事はない」

 そう言ってゆっくり唐沢は自分の左の手とキリの右の手を絡ませました。ゆっくり、そこから熱がともるようで、キリは思わず微笑んでしまうのでした。

 「そうですね、克己さんはいつだって約束を守ってくださります。今も・・・・連れ出してくれた時も」

 これからもずっと、と言いかけた言葉はキリの口から零れることはありませんでした。雨音がそっと全部包み隠してしまったのですから。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -