好く言えば最愛







ぱら、と、ページをめくる音がやけに響く。
こんなにこの部屋は広かっただろうか。斎藤はふと顔を上げる。
放課後の保健室は広い校舎の中にぽかりと空いた穴のようで、カーテンを通したクリーム色の光が室内を満たしている。
窓の向こうからは吹奏楽部のかすれたトランペットの音。
外では皆熱心に部活動に励んでいるというのに、この場所の時間の流れはひどく緩やかだ。
秒針の音もやけにはっきりと耳に届く。
消されたばかりのストーブの匂いはもうほとんど気にならなくなった。
同時に残っていた、むっとするような熱気も薄まったが、11月にしては今日はまだ暖かい。
ブレザーを脱いでいても困らないくらいだ。
手元の腕時計が指しているのは午後四時半で、あれから30分も経っていない。
――あと1時間ほどだろうか。







風紀委員室の鍵を返しに向かった職員室には誰もおらず、ばたつく足音とともに扉を開けたのは保健医の山南だった。

――野球部の子がさっきフェンスで額を切って。
出血がひどいので、病院に連れて行きます。
こういうときに限って皆さん出張で――

面食らっている斎藤の前で、車の鍵を片手に名簿名簿と呟きながら山南はキャビネットに手をかける。
と、振り返りぴたりと動きを止めた。――ああ、斎藤君なら。


そう言い手渡されたのは保健室の鍵だった。

本人の荷物が保健室に置かれたままなので、病院帰りに保護者が取りに来る。
入れ違いになる可能性もあるので自分が戻るまでの留守番を頼みたい、と山南は言った。
今日は委員会も1時間かからずに終わってしまった。
これからの予定も特にない。
借りていた本を返しに近所の図書館に寄り、そこで明日の予習を済ませれば、
夕食の後には新しい問題集に手が付けられるかもしれない。
考えていたのはその程度のことだ。
かまいませんが、と言うと、ほっとした様子で山南は少しだけ眉尻を下げる。
ひどく申し訳なさそうに飛び出していくその背を見送り、斎藤はそのまま保健室に向かった。











半ばを過ぎた本の中では、妻の不貞を疑い殺した夫が後悔を叫んで後を追ったところだ。天を呪うような仰々しい台詞。
1ページの空白の後、何事もなかったかのように次の物語がまた始まる。
きれいは汚い、汚いはきれい。
三人の魔女が唱えるその言葉。


読み慣れない世界の話に、目を閉じ眉間を揉むと息をつく。
一体いくつの話が入っているのか、と、ぱらぱらと目次を見返した。
今終わったのはオセローで、次はマクベス。
『シェイクスピア戯曲集』と書かれた、くすんだ臙脂の表紙を改めてまじまじと見つめる。
どれも大体のあらすじくらいは知っていた。
けれど三国志と宮本武蔵、その他歴史小説しか読みつけていない自分には、やけに長い横文字の名前はおろか内容まで、ほとんどファンタジーに近く感じられる。
愛だの恋だのしか存在しないような世界の中で生きている登場人物たちは、もはや異星人としか思えない。
学園祭にPTAもいろいろと口を出す昨今、演目の相談を、と演劇部長に言われなければ手に取ることはなかっただろう。
目的が済んでしまえばお役御免のはずだった。
けれどこの機会でもなければきっともう読むことはなく、
他に借りた本は全て読破したのだ、読みさしを1冊残すのはなんだか気持ちが悪い、と、
それだけの理由で予定外ついでに本を開いたのだった。が、どれもこれものどろりとした密度の濃さに少々閉口する。
愛故にと皆口々に言いながら、結局自分の感情以外何も目に入らなくなった挙句、殺し合ったり自ら死を選んだり。
悲劇だからだということはわかっているが、その視野の狭さをどうにかするべきではないのか、と、会議の改善案のような感想しか出てこない。
これを読んで皆何かしらの感銘を受けるのか。それも愛とやらの。
いっそ自滅の呪いをかけられた人々のホラーだと言われたほうが、まだ納得がいくような。


まあ理解できるかどうかどうかは別として、何事も勉強と自分に言い聞かせページに目を戻す。
そもそも決めたことを覆すのは性に合わないのだ。
あと半分、と厚みを確かめ続きに向かう。そのとき、がらりと躊躇なく扉を開く音がした。
ほんの一瞬まさか、と思った、そのまさか。

「あれ、どうしたの」
「……総司」

お前こそ、と、口にしかけたところに、続いたのは廊下から響く恨めしげな声。

「そ〜う〜じ〜!」
「うわなに平助」
「なにじゃねえよわかってんだろ、わかってて逃げてきたんだろその顔!
こないだの子が正門のとこ来てるんだよ。お前連れてきてくれってつかまったの!」
「やだ行かない」
「っだー!もー、さーお前さあ!大体メール返さねえからこういうことになるんだろ?!」
「だって知りもしない子とそんなめんどくさいこと嫌だし」
「メアド教えてもいいっつったじゃん」
「じゃないと直接会いに来るとか言うからさあ。なんだ結局一緒だったじゃない。やめとけばよかった」
「総司!」
「とにかく会う気とか一切ないし。早くどっか連れてってよ」
やる気無く頭を掻き、ふあ、と大きくあくびをする。
「ったく……後ろから刺されても知んねえからな…!」
「そうなったらどれくらい休めるかなー、学校」

すたすたとベッドに直行する後ろ姿を引き止めることも諦めた様子で、扉に手をかけたまま、平助はため息とともにげんなりと肩を落とす。
まあとりあえず今日のところはなんとかしてやるけどさあ、と不満だらけの呟き声に、
総司は顔も上げずひらひらと手を振った。

「平助、」

斎藤が声をかけると、眉を寄せ、視線で総司を指してべえと舌を出す。
それでも肩をすくめると、困った笑顔のまま部屋を出て行った。
普段は「はじめくん総司の世話焼き過ぎ」と母親のような顔で真剣に忠告してくるというのに、実際は平助の方がそれに輪をかけて面倒を見ているのではないだろうか。
それに比べて。
荷物をぞんざいに床に放り出し、窓際のベッドに倒れ込んだ総司は両手で枕を抱え込んで、完全にそのまま眠る体制に入っている。
授業中姿が見えない時もきっと入り浸っているのだろう、勝手知ったる遠慮のなさだ。




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