好く言えば最愛 /2 「総司、おい」 「……」 「起きろ」 仕方なく本を持ったまま、ベッドの横に移動する。 囲むように取り付けられた薄黄色のカーテンが、光を透かして総司の髪も金色に染め上げている。 斎藤の足音を待っていたかのように、ベッドの主は枕からちらと半分顔を上げた。 「……なに一君、一緒に寝る?」 「馬鹿を言え」 「せっかく誰もいないのにさ。……あれ、ていうかそうなんだよ、なんで一君がいるの」 「留守番を頼まれた。山南先生の代理だ」 「じゃあ、手当てもしてくれるのかな」 楽し気に、わずかに声が高くなる。その語尾を叩き落とすようにぴしゃりと言った。 「仮病の者を甘やかす気はない。ほら起きろ」 「えー、仮病なんかじゃないんだけどなあ」 「どこがだ」 「このへんが」 言うと、ぐいと斎藤の右手を引く。押し当てられたのはシーツに埋もれていた左胸。 「治して」 「あんたはまた馬鹿なことを……――っ、!」 呆れて逸らした目線まで読んでいたかのように、気を抜いたその隙をついて強く腕を引かれる。 そのまま引き寄せられてベッドに倒れ込んだ。 ひとり分の身体はわざと空けられていたかのようなスペースに苦も無くすっぽりと納まって、 さも予定通りと言わんばかりに勝ち誇った顔で総司は半身を起こした。 見下ろす視線を頬に感じながら、辛うじて枕の上に引っかかっている本の表紙に、逃げるように目を移す。 「……そういうことを簡単に口にするから、逃げ回ることになるんだろう」 「あれ、気にしてるんださっきの」 「誰が」 「素直じゃないなあ」 ふふ、と、嬉しそうに笑う。 「でも別に、さっきの子は会ったこともないし。 なんか駅で見かけたから紹介して、って平助の友達?の友達?とかいう子がしつこかったみたいでさ。 ずっと断ってたんだけど押し切られちゃって。 会うの面倒だからまあメールなら、って思ったけど毎日おはようとか何してるのとか しつこく来るし……まさか学校まで来るとは思わなかったな」 でも一くんのそんな顔見られるならこれでよかったかも、と、悪びれもせず口にする。最後の平助の言葉に内心深く頷いた。 けれど同時に、冷え切り尖っていた声のトーンが急に熱をもつそのことに、胸の奥がざわめく。 嬉しい、などと思ってはいけない。何度も繰り返してきた呪文。 総司の興味のない事象に対しての冷酷さは、隣でいやというほど見てきたのだ。 ひどくそっけないように見える平助への態度ですら、あれはかなり心を許しているというのがわかる。本気で嫌がっていれば相手になどしない。 無言で氷の一瞥をくれるだけだ。 期待を込めた目で近づいてくる他校の女子がその眼に射られ、強張った顔で後ずさっていくのを目にするたび、こちらを振り返る沖田の別人のような柔らかい顔にこいつはまた、と呆れながら――それでも、ほっとしていたのも確かだった。 ああ自分はまだ、と、引き比べては確かめて。 一瞬ふわりと浮きあがるような心持ちのその後に、一瞬の闇が見える。 急に明るい場所に出た瞬間のように、世界の天地がわからなくなるあの感覚。 それを繰り返すうち胸の奥には、その闇の名残なのか、ぽつりと黒いインクを落としたような染みが点々と残った。 拭ったところで消せないその粘度の高さ。 ――知りさえせずば、おれは幸せだっただろうに。 おお、もう永遠におさらばだ。安らいだ心も、満ち足りた気持ちも。 ついさっきまで目にしていた、古びたページの活字が頭をよぎる。 煮詰めたような愛憎劇の言葉など理解できない。そう思っていたのに。 「……あったかいね、一くん」 言って、細い指先がするりと頬を撫でる。 この手の、声の甘さを知ってしまったら。 異なるものだと思っていた、世界の近さに目眩がした。 「ん、……っ、」 言葉の続きを確かめるように口づけられる。 ゆっくり触れるようだった唇は何度も角度を変えながら、徐々に深くを貪りだす。 「――っあ、ふ」 首筋に触れていた手が後ろに回り、息を継ごうとするのも許さないように引き寄せられる。 必死でシーツを掴んで耐えた。この腕を背に回したら、もう。 小さな抵抗を見咎めたのか、侵入してくる舌は容赦なく口腔を撫で回す。 歯列をなぞり、絡め取った舌先を何度も吸い上げて。 そのたびにびくりと引き攣れる肩を深く抱き込まれた。 「……っ、は、」 ようやく解放された唇で深く息をつく。 熱の籠もった目で一瞬茫然とこちらを見ていた総司は、張りつめていた糸が切れたように、はは、と小さく笑い声を上げた。 「……一くん、この部屋みたい」 「……なんだ、それは」 総司の手が襟元にかかる。 「なんか、シーツも硬いし寝心地も良くないし。ここのベッドって眠れるのはいいんだけど、 いつ来てもきれいすぎて、あんまり馴染んでくれないような感じでさ。 でもなんか、それって一くんに似てるっていうか」 緩みきったネクタイを、勿体ないとでも言うような手つきでゆっくりと引き抜く。 うっすらとアルコールの香りのするシーツが擦れ、耳元でしゅる、と乾いた音を立てた。 「こんなことしてると真っ白いものわざと汚してるみたいで、……だからすごく興奮する」 言い終わるやいなや、細められた目の色が変わる。 その獣じみた光を、抵抗などさせないと決めきっている声音を、 心のどこかで待っていたような気すらしてまた目を閉じた。 まただ。嫌だ。求めるほど戻れなくなる。 知りたくなかった闇を見せつけられる。――きれいなものは、本当は。 あんたは知っているんだろうか。 「……やめ、ろ」 「どうして?」 知られたくない。この胸の内など。その気持ちすらも漆黒の点に変わり滲む。 言い訳を探して、薄山吹に染められた天井を見つめた。 差し込む陽がつくるカーテンレールの細い影。 遠く響く、グラウンドの人のざわめき。 はたと我に返って身を捩る。 「……っ、校内で、こんな」 「だからいいのに」 埋められた顔から首筋に息がかかる。 さっきまで触れていたはずの唇は、押し当てられるとひどく熱かった。 ぷつ、と、シャツのボタンを外す音。 「…っこ、ら…っ」 制止する手を脇に抱え込んで動きを止めると、そのまま総司の手は背中に回った。 たくし上げられた裾から入り込んだ手はひどく優しく、腰から肩甲骨へと這い上がる。 ぞくぞくと肌が粟立つのは、素肌に触れるシーツの冷たさからだけではなかった。 それを確認するかのように、首のうしろをざらりと舌が舐め上げる。 「っあ、や、……総、司、」 自由になる場所などほかにない。 せめてもの抵抗とばかりに頭をゆるくうち振った、その直後。 床にばさ、と何かが落ちる音が響く。 その音にほんの一瞬だけ、ぼやけていた思考回路がクリアになった。 同時に耳に付いたのは、うっすらと廊下から近づいてくる足音。 次へ |