反論さえ呑み込んで(1/3)
櫂と一緒に暮らし始めてからしばらくたったある日。
私は午前中に単独の仕事を一つこなしてから、スタジオでの練習に合流していた。
櫂の奏でたベースの低音が余韻を残して空気に溶けていく。
最後の音が完全に消えてしばらくしてから。
「それじゃ、この辺で少し休憩にしようか」
龍のその言葉で、スタジオの中のピンと張りつめていた空気がホッとしたものに変わった。
年明け早々にライブが決まってから、最近の練習はみんなもいつも以上に気合いが入っている。
「ちとせも高音がだいぶ安定してきたよな」
ミネラルウォーターのボトルを口にしながら、雅楽が私を見る。
「え、ホント?」
バックから新しいタオルを取り出していた私は、雅楽のその言葉にパッと顔を輝かせた。
さっきまで練習していた曲には高音域が連続して出てくる部分があって。
この前の練習で「たまに不安定になってる」と指摘された私は、忙しいスケジュールの中で時間をやりくりして自主練を重ねてきたのだ。
けれど雅楽は、なぜか私から目を逸らして横を向いてしまった。
「べ、別に俺は安定してきたって言っただけだろ!‥‥まだまだ練習が必要な事には変わりねぇんだからな」
「それはそうだけど」
それでも練習の成果を認めてもらえた事は、すごく嬉しいんだけどな。
そう思った私の隣で、瑠禾が冷静に指摘する。
「雅楽も終盤で走りすぎてた」
「うっ」
「ははっ‥‥」
雅楽が言葉をつまらせるのに、珍しく龍が声を立てて笑った。
「いずれにせよ、ライブに向けてみんながこれまで以上に頑張らないとな」
「だからそう俺だってそう言ってんだろーが‥‥」
ムスっとしてミネラルウォーターをがぶ飲みする雅楽。
この季節でも流れるほどの汗をかいてしまった龍は替えのTシャツを手にしていた。
そしていつの間にか、マイペースにドーナツの袋を手に口をモグモグさせている瑠禾。
「あれ?」
そんないつも通りの光景を眺めていた私は、その中に櫂の姿が見えないのに気がついた。
(どこに行ったんだろう?)
ぐるりと見渡してみても、スタジオの中には櫂の姿はない。
(櫂には自主練習するのにいろいろと気を遣ってもらったから、お礼を言いたかったのに‥‥)
「あ‥‥」
スタジオを出た私は休憩室のソファに腰を下ろしている櫂を見つけた。
軽く腕を組んで目を閉じている。
(あれ‥‥櫂、もしかして‥‥寝て、る?)
私はそうっと近寄ってその足元に膝を付いて、下から覗き込んだ。
(疲れてるのかな‥‥そう、だよね‥‥‥‥自分の仕事だけでも大変なのに、私の練習も気にかけてくれたんだもんね‥‥)
と、その時。
眠っているとばかり思っていた櫂がパッと目を開けた。
「スキ有りっ!」
「え、きゃあっ!?」
驚いて固まった私を、櫂はたった今まで寝ていたとは思えない俊敏さで抱きしめる。
「つっかまえたー!」
「か、櫂!? 寝てたんじゃ‥‥?」
突然の出来事に、私はすっかり固まってしまっていた。
「え、何のコト?」
ちとせ、可愛すぎ。
「‥‥‥‥‥‥」
そんな私の額にチュッと軽い音を立ててキスした後で、櫂は楽しそうに笑って見せたのだった。
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