信じてもらえなくても構わないし、信じてもらえるとも思っていないのだけれど、この世の中でたった1人だけ私にはまるで目の前にいるのにも関わらずテレビの中にいるように見える男がいる。透明だけど薄く、しっかりと壁が見えるのだ。この男の声はまるで水の中から聞いているようにくぐもって聞こえる。
及川徹。それがその男の名前だ。

彼ははっきり言ってとてもモテる。私のような女に食い下がらなくても恋人が欲しいならいくらでも出来るだろうし、それこそセックスだってしたいだけ出来るだろう。しかし、私に向かって何度も「好きだ」と言ってくる。
はじめはやんわりと、自分のイメージが崩れないよう"お断り"していたのだ。しかし、それでもめげない挫けない。はっきりいってその態度が私を余計にうんざりさせた。
自信しか持ち合わせていない。自分の未来をなにも考えず所詮無駄なものに時間を浪費していく。こういう馬鹿な大人が描いた青春をぎゅっと凝縮したような人間の生き方本当に苦手だ。
部活動なんて一生懸命やった所でせいぜい昔話の種になるだけ。強豪のセッターになったくらいで何?その先は?大学にはそれで行けるかもしれない。でもその先は?怪我してそれが出来なくなったら?
だいたいセッターなんてポジションはレギュラーでいられるのはチームで1人か2人だ。その他は控え。その座にいつまで自分がいられると信じているのか。そんなことをまるっきり考えていないかのように、この時間が永遠に続くかのように非生産的なことに時間を費やす。私から見れば馬鹿の極みだ。

「処女は"男に"捧げる」「童貞は"女に"捨てる」

こんな言葉一つとっても結局のところこの日本という狭い島国では大昔と変わらず女性は男性に消費されるものであるという根底は変わってはいない。
日本だけではない。世界中がそうなのだ。
大きな声を張り上げて女性の地位向上を掲げたところでここも、世界も変わりっこない。この世界のトップが男性なのだから。
ならば抗うよりも潔く受け入れ、時流に乗る方が私はよっぽど効率的な生き方だと思うのだ。

私は「男」たちに、「自分」を提供するのだ。
男達がくれるものはその時々で姿形を変えるけれど、どれにも共通するのは私にほんの少しの「生きやすさ」を与えてくれるのだ。

その自分は体でもあるし、作り物の好意でもある。男が優越感に浸れるように馬鹿な女を演じてあげる時だってある。
いくら消費される人生とはいえ、それを提供することで得られる対価があるならばきちんと対価を得られる生き方をしたい。それをずっと正しい道だと信じて生きてきた。
若さは価値だ。その価値を高めるも落とすも自分次第。
どんなに口汚くクラスメイトから陰口を叩かれる人物であろうと教師は自分に従順で自分への好意が透けて見える生徒を好む。
同級生からの評価なんてどうだって良い。やれあの子が好きだ、嫌いだなんて下らないことによく熱量をむけられると尊敬に近い呆れの感情を持っていた。将来何のためにもならない友情も恋愛も無駄だ。
いくら何を言われたって彼や彼女たちのことなんか好きでも嫌いでもないのだ。嫌いと好きは最も近い感情だと思う。どちらも相手に対して同じくらいの熱量で思いを傾けているから。だから私はいくら嫌われたって構わない。関心がないのだ。
その点教師はちがう。目下のものの上に立ったつもりで優越感に浸っている馬鹿みたいな人種だと思うけれど、それでも私に利益をもたらすのだ。
私からの好意がたとえハリボテだとしても教師って所詮「学校」という閉鎖的な空間しか知らない人間だから簡単に騙されてくれるし、騙されてくれたら単純に「成績」という評価で返ってくる。
成績は自分の価値を高めるし、少しでも良い大学に入ればそれだけ良き条件の男性に巡り会える可能性も増えるし、良き条件の男性の伴侶となれば安泰とは言えないけれど今よりは生きやすく生きられる。
私は良くも悪くも自分にどういうものが求められているかわかる。大人に従順であれ。男に幼稚であれ。ベッドの中では妖艶であれ。自分にどのくらいの価値があって、どのくらいの値段かも。
それを正しく知れば自分のそれをお金に変えることだってできるのだ。
その価値はいずれ落ちていくことも知っている。
だから、いま私がすべきことは良い大学に入り自分の価値を高めること。自分の価値が最大限に高まる時に良き伴侶を得ること。それに少し疲れたら自分をお金に変えて息抜きすること。それだけなのだ。それが私の生き方なのだ。


「ねえ」
今日も来た。彼は決まって昼休み、私の元へ訪れる。今日もいつもと変わらず透明な壁越しにその姿はあって声もくぐもってはっきりとは聞こえない。
私のクラスの女子たちはこの光景をみて眉をひそめる。「調子乗ってるよね」「せっかくああいってくれてるのにね」「でも付き合ったら逆に腹立つかも」って。目の前の彼の声は上手く聞き取れないのに誰が言ってるかわからない私への中傷ははっきり聞こえるのだ。

「なに?及川くん。」
「そろそろ俺のこと好きになってくれた?」
「だから何回もいってるでしょ、及川くんとは付き合えない。好きにもならないよ。」
「何で?」
じゃあ聞くよ、なんでだよ。なんで私がお前のこと好きになるって思ってるのだろう。ちょっとくらい顔がいいからって調子に乗らないで欲しい。どんな女も自分を好きになると思ってるのか?思い上がりも大概にして欲しい。まあ、そんなことを言えるわけもないので「及川くんとは根本的に違う人間だからだよ」と答える。

「俺のこと嫌い?じゃあ、諦める。」
「……諦めてくれるなら及川くんのこと、嫌いだよ。」
「ふーん、嫌いなんだ。じゃあいずれ俺のこと好きになるよ、きっとね。俺のことこれっぽっちも関心ないように見えたのにな。」

ああそうか。私はこの男が嫌いだったのか。言わされたようで、これが私の本心だったのだ。顔が良くて人気者なところも、仲間に囲まれている姿も、無駄なもの時間を費やす姿もこの男が大嫌いだ。大嫌い。
でもずっと気づいていたのだ。羨ましい。そう思っていた。
でもそれを認めたらきっとこんな生き方しか出来ないのに自分の正しいと信じることが、揺らぐ。だから、怒りに任せて彼を殴りたい気持ちになった。この壁の向こうの、彼へ拳を振り下ろしたい。私の心に入ってこないで。

そう思った瞬間、私と彼との間にあった透明な薄い壁にヒビが入った。
この壁は私に警告し続けていたのだ。この男に近づくなと。この壁が守っていてくれていたのだ。
私はこの壁を信頼し過ぎた。それが脆い自分自身だと気づかずに。壁があるから安心だ、と拒絶しきっていなかったのだ。私は"わかっている人間"だから大丈夫だと。
だけどそれが間違いだった。完璧など存在しない。知らず知らずのうちに私は及川徹という人間の一部を体に取り込んでしまっていた。それはじわじわと私の体を支配した。そして作り替えられていた。知らぬ間に。

「なんで俺が君のことが好きになったか教えようか。俺のことが世界で一番嫌いって顔してたからだよ。じゃあ、またね。」

急に大きくなったその声が耳を犯し、彼が吐いた息を私の体が取り込む度に呼吸が苦しくなった。こいつは危険だってわかっていたから。こうなってしまうから、だからあの壁があったのか。
もう全てが、取り返しのつかないところまで来てしまっていた事に気づいてしまった。
それと同時に自分はなんて馬鹿な人間なのだろうと。きっと私は前のように男達に媚びへつらって自分を提供することができない。あの男は私が欲しいものを何一つだってくれはしないことがわかっているのに。私は去っていく彼の背を見送ることなく机の海に沈んだ。


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