この高校には1000人近くの生徒がいるため、いくら同学年だからといっても顔も名前も知らない人の方が大半だ。
その中でもひっそりと息をひそめるように生活している私のような生徒の名前と顔を覚えている人なんて片手で足りるくらいだろう。
それでもこの高校のいいところは自由な校風と学校の設備。
北校舎の3階の端。第2音楽室が私のお気に入りの場所。
ここでこうしてこっそりと昼と放課後に大好きなギターを弾く。
私の夢はたった1人だけ、私の声を褒めてくれた音楽のおじいさん先生だけが知っている。練習場所がないならとこうして音楽室を貸してくれていることはとてもありがたくて幸せなことだと身にしみて感じる。

Cのコードを押さえてジャンと弦を鳴らす。
今日もいい感じ。バイトして、初めてのお給料で買ったお気に入りのギターはもうすっかり手に馴染んだ。

「誰も気づいてない」
そんな歌詞から始まる歌を私は口ずさむ。最近のお気に入りだ。
ギターを弾いている時だけは激しいマウンティングのスクールカーストのやりとりだとか、受験のプレッシャーだとか、誰にも言えない夢の話とかすべて開放される。今日も自分の世界に没頭しようとしていたその時にパタパタと足音が聞こえた。
だけど、こんな場所に来るのはふしだらな行為に耽る場所を探す男女くらいだから歌うのをやめてギターだけをかき鳴らし人がいるよとアピールする。
しかしその足音はどんどんと大きくなり、ついには音楽室の扉を開けた。

「なあ!お前、今歌ってたよな?」
「…」
「俺、先々週に音駒高校まで練習試合行った時にそこの駅の前で聞いたんだよ!ぜってーお前!!そうだよな?お前だよな?うん、俺間違えるわけねぇもん!」

これが私と木兎光太郎との出会いだった。

私だって覚えている。せっかく地元からも高校からも少し離れた駅前で歌っていたというのに自分の高校の名前が入ったジャージを着ている彼らを見て背筋が凍ったのだから。
だけどその中には私の名前も顔も知っている人などいなかったから変に隠れるのも怪しい気がして歌い続けた。
幸い一人を除いて私の歌など誰の耳にも入っていなかったけれど、木兎は私の歌声よりも大きな声で"すげー!めっちゃ歌うまいぞこの人!声やべー!"と騒いだのだ。
部員のひとりに「ほら、もたもたしないで木兎さん行きますよ」と引っ張られていった後ろ姿を私はじっと見ていた。
そんな彼はなんと、もう一度歌を聞こうと私を探してくれていたらしい。
たまたま前の授業で使ったクラスの人たちが窓を締め忘れたことに気付かず私が歌っていた声がなんと木兎の耳に届いたのだ。
それでここまで来たと、大真面目な顔で語った。

バレー部のエースの木兎と私は同じ高校に同じ時に在籍していたというだけで決して交わらない運命だったのだと思う。普通ならば。
ほんの少しだけ起きた神様のイタズラによって交わらない人生に少しだけ接点ができた。
いや、違う。
私はずっと木兎の名前も顔も知っていた。憧れていたのだ。
誰の目も気にせず「夢は全国制覇!そんで全日本のエース!」と声高に言えてしまうその自信に。
それを単に夢物語でなく目標に変えてしまうひたむきさに。
コートの中を飛び回るその背中に。

それから時々、昼休みには木兎がここを訪れるようになった。
うるさいと有名な木兎は私が歌っている時だけはとても静かだった。

◇◇◇

「なあ、なあなあ。」
「なに?」
「俺の歌とか作ってみてよ。」
「は?」
「なんでもいいよ、出来ねぇ?」
ある昼下がり、そう木兎は私の斜め前の席に座りながら言った。
だんだんとこの男の扱いを覚えてきた私はこれはスルーしてしょぼくれさせると色々とめんどくさいな…と思って仕方なくサンドイッチを食べる手を止めギターを抱え直す。

二三、適当なコードを引き頭の中で適当なメロディーを作ると適当な調子で歌いだしだ。
「ぼーくと、こーたろう
ナイスキー ナイスキー木兎
ナイスサー ナイスサー木兎
梟谷の、エース」

我ながらひどい歌詞とメロディーだ。
それでも木兎の口をサンドイッチを食べ終えるまで黙らせておけるくらいには充分なそれだったと思う。
しかし、木兎は目を丸くして私の顔を見つめる。
そんなに不満だったのか。怒ったかな。

「なあ、俺、お前に名前言ってないぞ。知ってんのか?」

しまった。やってしまった。
私たちはこのやりとりの中歌う人と観客という域を脱していなくてそれが続けば名前を改めて名乗るのも恥ずかしくなってしまいそのままになっていた。
私だけが、知っている。何だか気恥ずかしくて顔が真っ赤になってしまう。
そんな私の姿を見て木兎はニヤニヤしながら続ける。

「なあ、俺がバレー部ってのも知ってたのか?なあ!」
「……うるさい。あんたは有名じゃん。バレー部の木兎って。」

そういうと少ししょんぼりした様子で「そっか、なんだ俺、お前が俺のこと気にしてくれてんじゃねーかって期待した」と呟いた。

「……」
「俺は、なんかお前の名前、改めて聞くの恥ずかしくて一生懸命調べたんだぞ。下駄箱とか。」

気づかなかった。
私たちは木兎の気まぐれでこの音楽室の中だけで人生がほんの少しだけ交わる関係だと思っていたから。
「下條 明依。」
木兎にそう呼ばれると急に鼓動が早くなって、さっきとは比べ物にならないくらい顔が熱くなるのを感じる。
少しだけ素直になって、「ありがとう」といえばしょぼくれた顔がパッと明るくなって「ほら、あれ歌えよ!俺あれ好きだ!川のやつ!」と笑った。


例えば彼に私の夢の話を打ち明けたとして笑わずに聞いてくれるだろうか。
それともそんなに甘いもんじゃねーぞ、と私なんかよりずっとずっと夢に向かう道を先に歩いている木兎は言うのだろうか。
それでも木兎に打ち明けてみたくなった。憧れが、恋に変わったこの瞬間に。
人生が、たしかに交わったと感じたこの場所で。

「ねえ」
「ん?」


「私、将来さ……」


ギターは昼下がりに

Ash様提出
title by コピュラ

<<>>
戻る