「夢見る魚」ヒロイン視点

小さくて白くて几帳面に片付けられた部屋で、もう何度夜を越えたのだろう。何度朝を迎えたのだろう。時計も窓もないこの部屋に流れる時間は酷くゆっくりとしている。随分と回転が鈍くなったこの頭で振り返ってもあの夜以上に最高で最低な夜はもう二度と来ないことはわかる。
あの日はじめて彼のベットで眠りに落ちた。誰かと一緒に夜を越えるなどという事ははじめてだったのだ。そのはじめてが彼だったのは偶然だったのか必然だったのか。眠りに落ちる前に私を「可哀想」だと言ったのは彼だったのか、夢だったのか。そんなことは今はどうだっていい。目が覚めると手枷と足枷がされていて、「お前、もうここから出られないから」とうっとりした顔をした彼が言った。つまりこの部屋に縛り付けられたのだ。私は無理やりここを出ようとした時や暴れて彼を困らせた時のことを想像して抵抗するのをやめた。私は絶望と、ほんの少しの期待で運命を受け入れた。期待通り、私は彼のことをより好きになった。今は彼が私の生活のすべてだから。ただ、彼を好きだと思う度に少しずつ自分というものがなくなる感覚がある。それでも私は自分自身でとりあえずはここにいることを選んだのだ。だから足枷は軽いものに変えてもらった。足枷をしていればきっと安心して私のことを見ていてくれるだろうから。

1度だけ、この部屋から出たいと言った。
この部屋に来てから少したった時だったとおもう。ほんの少しでよかった。外の空気を吸いたいとおもったのだ。もちろん、この部屋には戻ってくるつもりで。
ニヤニヤといつものように笑ってくれれば良かったのに、ひどく傷ついたような悲しい顔で笑ったから「そうか、じゃあ出るか?」との問いかけに「やっぱりいいや」と呟いた。
私がこの部屋から出る時は彼と永遠に離れる時なのだとそこで気づいたからだ。少し気がかりだった友達はどうしているのだろうかとか、仕事は?だとかそんなことはもうどうだって良くなってしまった。
きっと彼は色々と上手くやっているのだ。
局長があんな人ならば、その下に着く副局長だってなかなかの人物だということはよく知る人は知っていた。

この部屋の居心地はとてもいい。
お願いだって部屋を出たいというもの以外ならなんだって聞いてくれた。でも贅沢はすぐに飽きて最近は何も言ってない。
ただ、「お願いだから必ず夜には帰ってきて」とは言っている。だって寂しいもの。彼はそれを律儀に守る。彼が戻れば夜、彼が行ってしまえば朝。それがせめてもの”普通の生活”を送るための最後の砦だった。
「ねえねえ、お魚ちゃん。」
私はすっかりルームメイトと化した色とりどりの魚達には声をかける。あの最高で最低な夜、私は彼らを可哀想だといった。ならば今の私は可哀想なのだろうか。
彼も私を可哀想だと思っているのだろうか。
「君たちは幸せ?」
赤や青の身体を翻し、私の問いかけなど口からこぼれ落ちなかったかのようにゆらゆらと水中を泳ぐ。
考えてみればもう無理なのだ。彼らも私も。ここから出ることは。幸せか不幸せかなんて取るに足らない小さなこと。
文字通りこんなに飼いならされてしまってはきっと外では生きていけない。だって、この箱の中に居られるのは彼の愛だから。
彼との関係に名前をつけられなかったのは私に自信がなかったから。彼の愛だけで生きていける自信が。
だからフラフラと他の男に抱かれた。
彼に私のことを気にかけて欲しくてわざと他の男に抱かれた痕跡を残し彼の元へでかけた。私は昔彼に、誰かの腕の中でしか存在している価値が見いだせないといった。そして誰かの傷つく顔をみるたびに生きていることを実感するとも。
だけどそれは実のところ、彼の腕の中でしか存在している価値が見いだせない、そして彼の傷つく顔を見る度に生きていることを実感するということなのだ。
彼に、それは誰かじゃなくて貴方なのだと伝える自信がなかったのだ。
だからもし、彼が悪人で罪人だというのならば彼をそうしてしまったのは私だ。
私はなるべくしてこうなった。きっと彼を傷つけた時間の分だけこの部屋にいる義務がある、そう思っていたのだ。
だけどここは思いのほか居心地が良い。ここにいる間は彼の愛だけで生きていける。そう、今の私は私がなりたかった私なのだ。彼に愛され、彼だけを愛する私。私の望んだ姿なのだ。

ガチャッとドアが開いて水槽に反射して部屋の中に入ってきた彼がうつる。私は振り返ることもせず「おかえりなさい」といった。
彼は真っ直ぐに私のところへ来て後ろから抱きしめると「ああ」と耳元で言った。
「ねえ阿近?」
「なんだよ。」
「私って可哀想?」
私の問いかけにしばらく黙って考え込んだ後、「ああ、お前は可哀想だな」と答えた。

私はなぜだかその答えにひどく安心してニッコリと笑う。

「あのね、阿近。私可哀想だけど、私すごく幸せなの。」
そう言って振り返ると私の唇に彼の唇が重なった。
その瞬間、今までの”私”は死んだ。私は負けたのだ。そしてこのひどく幸せで歪んだ愛に満ちた部屋で一生過ごしていくことを自分自身で心の底から受け入れたのだ。
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