21-03
ざあん。ざあん。
寄せては引く波の音が聞こえる。
「…すごい、本物の海だ」
駐車場に停めた車から降りて、美冬が独り言ちたのをディーノは聞き逃さなかった。普段は敬語で話しかけてくる彼女だが、独り言はさすがに敬語ではないらしい。
ぼんやりと海を見つめて立ち尽くす美冬に、ディーノは手を差し出した。
「ほら美冬、行ってみようぜ」
「え、あ、はい」
エスコートは任せろとばかりに差し出された手。美冬はちょっと気後れしつつも指先をそっと乗せた。すると、ロマーリオは運転席から顔を出してディーノに声をかける。
「あー…なんか車の調子悪いから、俺ここで車みてるわ」
「えっ」
「わかった。頼むぜ」
「ええっ」
ディーノとロマーリオの顔を交互にきょろきょろと見た美冬は言外に悲鳴をあげた。
(ロマーリオさんは来ないんですか!それって大丈夫なんですか!)
心の耳で美冬の悲鳴を聞き取ったロマーリオは「安心しな、近くにはいるから」とばっちりと茶目っ気のあるウインクを返すだけ。
ボスの意に沿って動くのがロマーリオの仕事だ。基本的に二人の邪魔はしないというスタンスに、ディーノは満足気に笑い、「さ、行くぞ」と美冬の手を引いた。
ざくざく。
「砂が靴の中に入りますね」
「砂だからなあ」
海辺を歩くと、美冬が履いていたローファーの中に、すぐさま細かな砂が入り込んできた。困惑するかのような美冬のなんとも言えない表情を見たディーノは、そういうものだ、と笑いながら、波打ち際まで彼女をひっぱっていく。
ざあ…
波は静かに二人の足許までやってくる。不規則に満ち引きを繰り返す波に足元を攫われないよう気を付けながら、美冬はディーノに手をひかれて、波打ち際を歩く。その視線は、興味津々とばかりに波に釘付けだ。
「寄せてはひく、とはまさにこれですね。なるほどこれが月の引力」
「?」
「波という現象は主に二つの理由があって発生するんです。ひとつは風の力、そしてもう一つは月の引力によるもので、潮汐力と呼ばれています。まあ、月の引力が起こす事象は主に潮の満ち引きなのですが、波は延長線にあるものといえますね。」
「…へえ。美冬はほんとうになんでも知ってるな」
「昔、本で読みました」
ふふん、と彼女は得意げに笑う。
だが、本物を見るのは初めてということで、その瞳はすぐに波に吸い寄せられていく。
(……)
膨大な知識量に対する、乏しい経験。
ディーノはどうしても、この点に関しては昔から納得がいかない。
美冬が事務能力に長けていることは周知の事実だ。
ディーノが美冬と初めて出会った時でさえ、美冬は大人でも舌を巻く知識と技術を持っていて、CEDEFで仕事をしていた。沢田家光は彼女を重宝し、「美冬がいなくなったらCEDEFは回らなくなっちゃうぜ」なんて言いながら、彼女を外には出さず、ひたすら内勤ばかりをさせていた。
結果的に、知識も技術もあるのに、社会経験はおろか友達もろくにいない、孤独な少女像が出来上がっていた。
(あの頃の美冬は、まるで檻の中にいるようだった)
だからこそ、外の世界の欠片を彼女にプレゼントしたかった。それはケーキであり、洋服であり、出張先の土産物だった。彼女はいつも迷惑そうにしつつも、受け取ってくれた。インドのガネーシャの置物なんて贈った日には「実用性が感じられません」とかぶつぶつ言いながらも彼女は結局受け取って……以来ずっと、PCデスクの隅にガネーシャが鎮座していることを、ディーノは知っている。
外の世界への憧れは、美冬の中に確実にあった。
だが、沢田家光は彼女の気持ちを知っていながら、CEDEFに閉じ込めるような真似を続けていた。
それが、ディーノには納得がいかなかった。
美冬は並盛に来てからというものの、表情も明るくなり、口数も増えた。
今このときだって、砂浜を歩いて困惑し、海を見て瞳を煌かせている。彼女が文字の上でしか知らなかった情報に、鮮やかな色彩が宿っていくのを、ディーノは真横でまざまざと感じ取った。
「……」
それは、ディーノが長年夢見たことだ。
美冬の行きたいところへ連れ出して、見たいものを見せてやりたい、とずっと願ってきた。横にいる彼女は、今や旺盛な好奇心を隠すことなく、大変楽しそうに世界を見つめている。
真っ暗な海、輝く月。
さざ波はやわらかな音色を奏でてキラキラと輝き、空には満天の星空が浮かぶ。
瞬く星が、美冬の瞳に吸い込まれて、弾けるように光る。
「なあ、美冬」
「なんですか?」
「お前、CEDEFに帰りたい?」
「……え、」
ディーノを見上げる睫が、ひくりと震えた。