33-1

遠くから聞こえる音はピアノではない。チェンバロだ。そして、バッハでもベートーヴェンでもなく、モーツァルト。

そこは図書室、と呼ぶには絢爛豪華な場所だった。
一冊一冊の本が分厚く、見事に書棚にびっちりと揃っている。だが、決して読まれることはないのだろう、それらは皆うっすらと埃をかぶっていた。
ずらりと天井まで高く並ぶ蔵書たちは、背表紙に金の箔押しが施されていて、いかにもお高い本です、と言わんばかりの風体だ。

「……どうして」

柊美冬は頭を抱えた。
たった一分前、彼女はオレガノの言いつけ通り、リハビリを兼ねて並盛公園の並木道を歩いていた。青空が気持ちの良い午後だった。なのに。

彼女は椅子に座っていた。
テーブルを挟んで目の前の席には、ノート。
そして、彼女の席の隣には、法律書の山という山。

目の前の席には、男がいた。
彼はきらきらとした目でこちらを見つめている。いつぞや見かけた、沢田綱吉を前にして浮かべていた気怠い気配は失せていて、頬を紅潮させ、そこには満面の喜色が浮かんでいる。なぜそんな顔でこちらを見てくるのか。


「……美冬さん…?」


どうして、彼はそんな声色で私の名を呼ぶのか。
どうして、彼が目の前にいるのか。
ていうか、ここはどこなのか。


「はい…」
「ああ、やっぱり!!」


呼ばれて返事をしたら、何かのトラップにかかるかもしれない。
一瞬そんなことを考えたが、目の前の男がそんな器用な真似など出来ないことを、彼女は知っていた。
なにせ、遠目では何度もその姿を見てきたし、夏祭りの夜には一度だけ接触したこともあった。沢田綱吉を監視していれば、いやでも目に付く男。でも、その程度でしかない。なのに。

「10年前の美冬さんはやっぱり可愛らしいなあ…今とはまた違う魅力がある…」
「……どうも…」

頬杖をついた彼は、うっとりと美冬を見つめた。
この視線の種類には覚えがある。自称”お前の兄”と同じ類の色だ。なんとも言えない、ちょっとした気味の悪さを覚えて美冬は仰け反った。


「……ええと、ランボ…さん」
「はい、なんでしょうか?」
「ここはいったいどこで、私はここで何をしていたんでしょうか…?」


よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりに男――10年後にはすっかり背が伸びて、妙な色気を纏うようになってしまった彼・ボヴィーノファミリーのランボは胸を張ってこう言った。


「ここはボヴィーノの私設図書館です。」
「え」
「美冬さんはここで週1回、僕の家庭教師を務めてくれているんですよ!」


ランボは彼の目の前にあった数学の教科書とノートを広げ、彼女に見せつける。本人からあふれ出る気品とは裏腹な、いかにも中高生男子が書いたちょっと汚い字が書き連ねられていた。

「は・・・・?」

思わず美冬の口から漏れ出た乾いた疑問符は、ベルベット地の豪著な絨毯に吸い込まれていった。









その日美冬は、オレガノから「運動せよ」との通達を受け、平日の昼間から散歩をしていた。といっても、彼女の散歩先はいつも通りの並盛公園である。
のんびりと歩いて、帰り道にお気に入りの氷菓でも買って帰ろうかな、なんて思っていると、公園の最奥にある総合病院に辿り着いてしまう。ここは先日、退院するという山本武を迎えに行った際にも訪れたばかりであった。

「みんな、元気かな」

山本武が退院してすぐに、獄寺隼人も退院したという報せを受けた。残るは雲雀恭弥と沢田綱吉の二人。オレガノの調べでは、沢田綱吉も間もなく退院できるだろう、とのことである。

(……)

最後に沢田綱吉を見かけたのは、夏休みが終わってすぐの、昼休みのことだ。
彼を助けるためとはいえ気絶させてしまったので、接触らしい接触はしていない。だが、いつも遠くから眺めていたあの柔らかそうな髪に触れたとき、なんともいえない幸福感に包まれたのを覚えている。

「……綱吉君、元気でしょうか」

まあ、元気がないから入院しているのだが。

「ここから見上げていても、綱吉君のことが見えるわけでもないし…。どうぞお大事に、綱吉君。」

そう一人呟いて美冬が踵を返したときである。




ぴぎゃぁぁぁぁぁ!!!!!




小さな子供の、全力の泣き声が聞こえた。しかも、知っている子供の声だ。
びくり、と肩を震わせた美冬は、よくよく声のする方向へ目を凝らす。すると、公園の並木道のずっと向こうで、泣きながら両手を振り回している子供の姿があった。

「やだもんねー!!フゥ太のバーカバーカ!!」
「ちょっとランボ…もう、怒るよ!!」
「ランボさん知らないもんね〜!!」
「×○▽◎☆▲!!!」

(あれは…)

猛然と泣き狂うあのもじゃもじゃは遠目でもよくわかる、沢田家の居候・ランボである。道端で癇癪を起している彼は、じたばたと道の真ん中で転げまわっていた。そんな彼を宥めたり諫めているのは、ランボとセットでよく見かけるフゥ太とイーピンだ。

ランキングフゥ太。
六道骸に操られ、黒曜のアジトで出会った時の彼は随分と憔悴していたが、今はすっかり肌艶もよく、何より目が輝いている、と美冬は思った。能力を失ったが今のところは元気そうだ、という情報は本当だったらしい。

「元の日常に戻れた…のかな?」

よかった、と、美冬が目を細めた時である。
ランボが、もじゃもじゃの中から見覚えのある何かを取り出した。

(あ)

何かを思う間もなく、どふん!!という爆音とともに、美冬の視界は深い深い霧に覆われてしまった。フゥ太とイーピンが「ランボ!!!」と叫ぶ声が遠くに響く。


(これ、身に覚えがあるやつ……!!)


そうして霧が晴れた時には、彼女は見事10年後の世界に足を踏み入れていたというわけである。









「な、なぜ私はボヴィーノであなたの家庭教師を務めているのでしょうか…」

状況整理をしたい。
美冬の内には、波のように疑問の数々が押し寄せている。その中でも特に代表的な疑問を、彼女はランボに訊ねた。すると、ランボは重々しそうに口を噤み、一呼吸置く。

「それはですね…」
「それは…?」
「俺の数学の点数が悪いからです!!!」
「偉そうに言うことじゃないですからね!?」

たっぷりの間の後、どん!とランボが胸を張って答えれば、美冬は並盛生活で染みついてしまったツッコミで反射的にランボに合いの手を入れる。するとランボは、それはそれは驚いたように目を丸くした。

「え…あ……ふふっ」
「笑うところじゃないですよ!!」
「ああ、いや、すみません」

何が可笑しかったのか、ランボは何やら面白そうに、一人笑った。先程公園で見かけたように、子供の頃はやれキャンディだなんだと賑やかに騒いでいたが、今の彼の笑みは子供の頃からは想像できない程に色気を孕んでいる。

(…これはディーノさんと同じタイプですね…)

本人が気づかないうちに女の子たちが餌食になるタイプの笑みだ。10年の年月は偉大だな…等と思いながら、美冬はまた背を仰け反らせた。

一人可笑しそうに笑うランボはさておき、美冬は彼の前に広げられているノートに視線を走らせる。なるほど、そこには中学1年生次に倣うような暗記すべき公式がずらりと並んでいる。

「……うーん、これとこれ、あとこれも覚えておいた方がいいでしょうね。基礎の基礎です。」
「ああ、美冬さんも言ってたな」
「だと思います。あとは――……って、どうかしました?」


ランボの視線がむず痒い。
チクチクと刺さる視線を辿って見つめ返せば、ランボは双眸のエメラルドを細めてぽつりと零した。


「……ボンゴレに、確かに似てるな、と思って」
「え…?」


10年後の彼が言う”ボンゴレ”とは、沢田綱吉のことを指す。それは即ち。

「いやいやいや、何を仰っているんですか」
「昔の美冬さんは、ボンゴレそっくりだね。雰囲気も…ああ、ツッコむ勢いとかも似てるかも」
「ええ…?」

自分ではそんなつもりは全くない。
困惑する美冬を余所に、目の前の男はこう独り言ちた。

「やっぱり、血縁なだけある。」
「!?」

それは。
沢田家光と自分、そして極々一部の人間しか知らない情報である。それを何故ランボが知っているのか。瞬時に表情を固くした美冬に気づいたランボは、慌てるように瞳を見開いた。

「ああ、いや、ごめんなさい、あなたはまだ誰にも打ち明けてないんだっけ」
「………っ」

心臓が、どくどく、と脈を打ち始める。
この先の10年の間で、一体何が起こるのか。少なくとも、美冬の素性がランボにまで知られてしまい、ボヴィーノで家庭教師をするくらいには、彼との関係性が深まっていく、ということなのか。

(あれほど…隠すべきことだったはずなのに…?)

これまで、彼女の出自について絶対に知られることがないよう、彼女が沢田の名を捨てた時から”親方様”が細心の注意を払っていたはずだ。それが、こんな、余所のマフィアにまで知られてしまっているというのは、何が起こったのか。

突如目の前に与えられたピースはあまりにも断片的だ。頭の中が真っ白になっていく。ますます状況が把握できなくなっていく美冬に、ランボが「あちゃあ」と言いながらため息を零したときである。


「こーら、ランボ。過去から来た人に、無暗に喋っちゃダメだよ。」
「あ」
「…?」


透き通った第三者の男の声に、美冬は一度思考を止めた。ランボは向かい合った美冬の、その背後を見て明らかに「げ」という表情を浮かべる。美冬もランボの視線に釣られるようにして振り向けば、そこには穏やかな表情を浮かべた長身の男性が立っていた。

「ええと、ごめん。びっくりしたよね。」

彼の左手には、トレー。その上には三つのカップ。
まるでウェイターのようにバランスよく、優雅な仕草で男は1つのカップを手に取った。男は、ランボの前に座っていた美冬の席に、カップを置いた。

「あなたみたいに、うまくは作れないんだけど、よかったら飲んで。」

そう言って、男は苦笑する。
カップの中から湯気と共にふわりと漂うのはシナモンの香りだ。中に入っているのは、ミルク。美冬はこの飲み物を知っている。時折、夜眠れないときに自分で作って飲んでいる代物である。どうして、彼が、これを?

「……あなたは」

彼は、柔らかな髪色も優しそうな瞳も、幼い頃そのままに、ぐんと背丈が伸びていた。ウェイターよろしく、フゥ太はテーブルの奥へ回り込むと、もう一つのカップをランボに、そして最後の一つを、美冬の隣、法律書が山のように積まれた席に置いた。


「……フゥ太、さん?」
「さん付けとかやめてよ。美冬姉。」


面映ゆそうな表情を浮かべて、彼は最後に照れたように笑った。
prev next top
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -