別に今日、おれに何かあったわけではなかったと思う。悪いどころか、よかったはずなのだ。体調もすこぶるよかったし、バイトと言えどオーナーに会えるから機嫌もよかったし、もうすぐ給料日で何を買おうかとわくわくしていた。何も問題はなくて、何の問題もなくて。バイトが始まるまでオーナーと他愛もない話をして、それからいつものように労働基準法を無視したような勤務をやらされて、へとへとだ! という頃に“あいつ”が来るのもいつものことだった。
 ニヤニヤとした顔で現れたドンキホーテをいつものとおりカーテンの奥に通して、メニューを聞いて絡まれて、疲れてはいたが愛想笑いも対応もきちんとできた。何も問題はない、そんなありふれた日常である。オーナーが絡まれているおれを助けに来てくれるのもいつものこと──なのだけれど。


「フラミンゴ野郎、うちの従業員にちょっかい出してんじゃねェよ。営業妨害で訴えるぞ」

「なんだなんだ、そんなに悪評をばら撒いてほしいのか? ワニ野郎」

「テメェごときの悪評で潰れるほど柔じゃねェんだ」

「とか言いつつ追い出しはしねェんだから素直じゃねェなァ」

「クハハ、言ってろ。貰った金の分だけのサービスはしてやるさ」


 むかっ、ときたのだ。胃のあたりか、あるいはもう少し上の部分が妙な締め付けにあったような気がして手を当てる。……べつにこれと言った痛みはなかった。気のせいだろうか? もにょもにょとした何かが残っているような気になって擦っていると、ドンキホーテが目ざとくおれの仕種に気が付いた。その瞬間、サングラスの奥の目がぎらっと光った気がした。……おそらく漫画の読み過ぎっつーか、気のせいだけど。


「なんだイード、体調でも悪ィのか?」

「いえ、何かつかえたような気がしただけですのでどうぞご心配なさらず」


 いつも通りの愛想のいい笑顔を作り、「お気遣いありがとうございます」と頭を下げた。ドンキホーテは何故か機嫌良さそうにいつもの笑い声を上げていたが、それにツッコミを入れている場合ではない。オーナーがここを引き受けてくれるのならおれはさっさと下がって別の仕事をするべきなのだ。スパークリングウォーターをグラスに注ぎ、オーナーが座った席に置く。


「それでは、御用がございましたらお呼びください」


 オーナーに教わったように綺麗に頭を下げてその場を後にすることにした。あとでオーナーに何か飲み物でも持っていくべきだろうか。ワインがいいか? でもまだ仕事をするかもしれないから、その場合は珈琲か? でもあまり珈琲ばかりというのも胃に悪そうだ。ううん、と唸りながら厨房に戻り、ワインを一本頼んでからホールの方を手伝おうと厨房を出ようとして、いつの間にか戻ってきていたオーナーに引き留められた。


「え? あれ、オーナーもう戻ってき、」

「イード、ちょっと来い」


 くいくいと手招きをされておれはオーナーの後ろをついていく。いったい何があったというのだろうか。こんなに早く戻ってきたということも、仕事中にこうして呼び出されるということも。あの場では話しづらいことだったのか、オーナーは執務室までおれを連れて行った。そして先におれを入らせて、あとから入ってきたオーナーはがちゃりとドアを閉めたのである。


「えっ、あ、鍵?」


 鍵をするってことは、誰かに聞かれたくないようなことだというわけで。普段鍵をするときは、プライベートな話が含まれる話であったりいちゃつきであったりなわけで。でも今は、仕事中なわけでして。オーナーはおれの仕事中にそんな関係を持ち込むほど甘い人ではない。おれのことは周りと同じかそれ以上に厳しく扱うし、甘ったるい空気になるようなことも、嫉妬をぶつけてくることも絶対にないのである。そういうのは全部、仕事が終わってからだ。だというのに、仕事中の今、鍵まで閉めて話すって、よっぽどな話、だよな?
 困惑するおれに説明をくれることはなく、オーナーはずんずんとこちらに向かって歩いてくる。どこか怒っているような空気にも感じるし、けれど怒っているときとはまた違ったような雰囲気な気もするし……。どうしたものかとオーナーのことを見ていると、眼前まで迫ったオーナーの眉間には皺が寄っていた。しかし怒っているというより、拗ねている……? いや、困ってる? どっちかわからないけれど怒っているわけではないようだった。


「えっと、オーナー、なんですか?」

「具合、悪ィのか」

「へっ?」


 なんでおれの具合が悪いって話になってるんだ? 首を軽く横に振りながら「健康体ですけど……」と言ってみる。オーナーは眉間に皺を寄せたままだったので納得していないのかと思ったが、「だろうな」と呟いた。……おれ、オーナーのことがよくわからない。だろうなってことはおれの体調が悪いとは思ってないんだよな? なのになんでおれに聞いたんだ? しかも執務室に連れ込んでまで。おれが頭の中で疑問符を浮かべまくってると、オーナーは苦い顔をして目線を軽く逸らした。


「……アイツが見つけただろう、てめェが腹を押さえてるとこ」

「あ、いや、本当に大丈夫ですよ」

「ならなんで腹なんて押さえてやがった」


 たしかにオーナーの言うことはもっともだ。腹や胸に近いところを押さえて違和感があるなんて言われたら何か悪い病気であると言う可能性も考えてしまうだろう。しかし、理由がはっきりわかっていないおれでもわかる。おそらくこれは、そういうんじゃない。だったら何かと聞かれると非常に困るのだが、……そもそもいつああなったんだっけ?
 えーと? ドンキホーテに絡まれてるところにオーナーが来て話してたんだよな、オーナーはいつもより口調も荒かったしドンキホーテもなんか軽くちょっかいだしたりとかしてて、なんか、すごい仲良いな、って感じ……で……? 普段そんなふうに感じたことなんかなかったような……オーナーはうざったそうだし、ドンキホーテがからかってるだけなはずだし、仲が良いとか言ったら絶対オーナー怒るだろうし。しかも、庇ってもらったらおれはさっさと出て行くはずなのに、なんで出て行かなかったんだ……? そのあとおれの胃だか胸だかがもにょっとし、て……。


「あ、えっ、い、いやっ、まさか……!」


 そんなはずはない。そんなはずはない、だろ。そう否定しようと思っても、頭の中にはしっかりと──“嫉妬”の二文字が張り付いていた。おれが、ドンキホーテに嫉妬? オーナーと仲良くしやがってっていう、あれ? そういう、こと? いやいやないない、だってドンキホーテだぜ? あの迷惑がられてるドンキホーテが羨ましいとかそんなのあってたまるかってんだよ。なあ?
 ……そうやって何度も否定してみても、結局はすべて無駄に終わった。頭から嫉妬という言葉が離れず、否定すればするほどにこびりつくようだった。そうしているうちになんだか恥ずかしくなってきて、じわっと顔が熱くなってくる。オーナーがとても珍しい驚いたような顔をしておれを見てくるものだから、余計に羞恥が増してきて口元を覆って視線をさまよわせた。これは、言えない。恥ずかしい。


「おい、どうした。やっぱり何か悪いところが、」

「え、あ、その、……そういうんじゃないんで、心配は無用と言うか……」

「顔まで赤くなってるやつが何言ってんだ」

「いや、これは体調が悪いんじゃなくて、ですね」

「あァ? ……じゃあなんだってんだ」


 困惑したようなオーナーの顔を見れる回数はそんなになくて、この顔を結構好きだと思っているのに真正面からまともに見れない。絶対に言いたくないのだが、おれの身体を心配してくれるオーナーに何も言わないのはまずいと思った。「恥ずかしくて、です、」と自分で発した声とは思えぬほどの小さな音をオーナーは拾えてしまったようで、さっきより何倍も驚いて目を見開いていた。


「お前が、恥ずかしい?」

「そんなおれが羞恥のない人間みたいな言い方はやめてくださいよ……」

「そうだろうが、じゃ、ねェな。一体何を恥じてんだてめェは」


 冷静に戻ったらしいオーナーはまっすぐな目をしてそう言ってきた。それ以上をおれの口から言えるわけもなく、曖昧に笑ってごまかしておく。当然ごまかせるわけもなかったけれど、仕事を言い訳にして執務室から飛び出した。顔はいまだ熱を持っている。……しばらくの間、オーナーの顔、直視できないかもしれない。

思ってたより好きみたい

バイトさんの一日のif話で、クロコダイル相手の嫉妬する男主@慎さん
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