目を開いたとき、そこは、自分がいなくなったところと寸分変わらない場所だった。見知らぬ男に暴行し、殺しかけ、老婆に会ったあの場所のままだ。
 キッドはその場にいきなり現れたはずなのに、驚きを露わにする声は思った以上に少なかった。それもこれも目の前にいる老婆があらかじめ提言していたということなのだろうか? やはりこの老婆が事態を引き起こしたのだろう。
 ニンマリと癪にさわる笑みを浮かべた老婆は、キッドを──キッドとシュウを見ていた。


「おやまあ、連れて帰ってきてしまったんですかい?」

「うるせェな……テメェにゃ関係ねェだろうが」


 おおこわい、とでも言いたげに老婆は口元を隠すが、おそらくその手の下はニンマリと意地の悪い笑みでも張り付けているのだろう。それが嫌というほど伝わってきたが、キッドは苛立つこともなければ殺してやろうとも思わなかった。
 ……これがあの手紙に書いてあった『頭を冷やした』効果なのか、はたまたキッドのきまぐれか。どちらかといえば、後者だろう、とキッドは思う。シュウが関わっているから、今回のことに関してはそう悪い結果をもたらしたわけではなかったから、目の前の老婆を殺そうとは思わないだけで、ひどい目にあっていたのなら肉片や肉塊と称されるような形になっても気持ちが落ち着いたかどうかすらわからない。


「キッド! 大丈夫なのか?」

「ああ、別に何もねェよ」


 キラーを先頭に駆け寄ってきたクルーたちが、キッドへと群がる。一週間顔を見ていなかっただけだというのに、なんだかとても懐かしい気がして、キッドの顔には自然と笑みが浮かぶ。やはり自分の居場所はここだ。あんな場所にいたかったわけではないらしい。心なしか空気も美味しいような気がした。


「それで……そいつは?」


 マスク越し、遠慮がちに向けられた視線の先にはシュウの姿がある。シュウはキッドの腕の中で茫然自失としており、この状況がいまいち飲み込めていないようだった。先に説明すべきは、どちらか。
 一瞬だけそう思考して、キッドはキラーたちに説明することにした。今までいた『異世界』で、世話になった人間を気に入ったから連れてきた。端的にそう言えば、キラーたちは納得したように頷いた。おそらく、老婆からある程度の話は聞いていたのだろう。きっと一週間経っても戻らなければおまえを殺すだのなんだのと言ったに違いない。
 老婆は笑う。口元を隠していても、はっきりとわかるほどに悪辣と。


「かわいそうに」


 よく通る声だった。「かわいそうにねェ」。繰り返されると腹が立ってくる。いったい何がかわいそうだって? そんな意味を込めてキッドが睥睨すると、老婆は声に出して笑った。その声がたまらなく不快だったことなど、言うまでもなく。空気がぴりっとしたものに変わる。それでも老婆はなお笑い続けながら、理由を口にした。


「その子、もう帰れないよ」

「……かえれ、ない?」


 老婆のその声で、シュウがようやく反応らしい反応を示した。ゆるゆると顔をあげ、周りを見渡し、老婆を見る。「そうだよ、おまえさんはもう元の世界には戻れないんだ」。キッドはその言葉にひどく安堵した。自分が異世界に行けたように、そして帰ってきたように、シュウも元の世界へ帰る方法があると思っていたからだ。しかし、現実は違う。シュウには帰る方法がない。この世界での伝も、自分しかいない。となれば、逃げようがないのだ。
 だからキッドは安堵していた──ぽたり。シュウの目から液体が流れ落ちるまでは。まさか、シュウが泣くなんて、思うわけもなく。
 今までキッドが見てきたシュウという男はだいたいいつでもへらへらと笑う男で、楽観的ともバカともとれるような男だったはずなのだ。執着も薄そうで、特にこれといってあの世界に未練を持つような性格では──と考えたところで、キッドは気がついてしまった。
 シュウは家族がいると言った。友人がいると言った。そして、恋人がいるとも言った。それが未練にならぬわけもないのだ。はじめからわかっていたはずだったのに、いざこうなると精神的にくるものがある。ため息を一つ吐く。そして笑う。悪役らしく、悪辣と。


「ようこそ、おれの世界へ」


 逃がしなど、しないのだから。


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