ハレンチ……? とおれの脳が一瞬停止しかけたのは仕方のないことだろう。何せ、ハレンチなんて言葉、現実で耳にすることがまずない言葉だからだ。おれならどんな場面でだってその言葉を選ぶことはないだろう。脳内でハレンチという言葉の意味について考えていると、「ハレンチだって。あたしらのことかな?」「え、違くない? だってくっついてるだけじゃん。もしそうなら超ウケるんだけど」「でもほかにそんな人いないよ? えー絶対童貞だよね、かわいいなー」「え? あんたああいうのタイプなの? じゃあ離れなさいよ」「やだァ、彼の方が素敵だもん」という笑い声が聞こえてきた。距離があるからパウリーには聞こえていないだろうが、聞こえていたら心を痛めたことだろう。女なんてそんなものだ。おれは席を立ち上がるため、そっと彼女たちの腕に触れた。 「すみませんが、連れが来ましたので」 「え? ……もしかしてさっきのハレンチって叫んだお兄さんの集団ですか?」 「ええ、そうです。それでは失礼いたします。どうぞ変な輩に絡まれないようお気をつけてお帰りくださいね」 彼女たちはすこし名残惜しそうに手を離してくれた。おれは荷物を持って立ち上がる。一礼をして歩き出せば「あの! また会えますか?」と後ろから声がかかる。数日しかいないであろうおれとサン・ファルドからの旅行客だという彼女たち。普通に考えれば会うことはないだろうし、その方がいいのではないかと思う。けれど彼女たちは事実を求めているわけではないのだ。「ご縁があれば、きっと」。おれの言葉で彼女たちは嬉しそうに笑った。 歩き出してパウリーのもとに向かえば、パウリーはいまだに顔を赤く染めたまま口をパクパクとさせている。びっと指を差される。行儀が悪い。 「お、おまっ、女、はべらせて! ハレンチな!」 「お前の頭の中がな。ほら、先に受け取っておいたからあとで確認しろ」 「え、あ、ああ……」 ケースを押し付ければようやく落ち着いたようですこしばかり茫然としておれを見上げていた。……彼女たちの言っていたことはきっと大当たりなんだろう、と申し訳ないが思ってしまった。あんなことでハレンチだと言っていたらキスもできないだろうし、脱がれでもしたら失神しそうだ。しかも真っ赤にさせてハレンチだというくらいだから女に興味があるのは間違いないだろうし……なんだか、気の毒だな。考えたことが顔に出るわけではないので再度怒られるようなことはなかった。 パウリーは受け取ったケースの重さにすこし目を見開きながらも、「ありがとな!」と笑った。すぐに切り替えられるところはいいところだろう。それにしても……とほかの人たちに目線を向ける。船大工の面々にカク、ロブ・ルッチというCP9たち。どう考えても場違いだ。この場を辞退すべきかとも思ったが、パウリーがおれをほかの人たちに紹介してくるものだから辞退することはできなくなった。 「ってわけで話してたおれの恩人のガルムだ! 美味い飯と酒がやれんのもこいつのおかげだからお前ら感謝しろよ!」 お前の手柄じゃねェだろ、だとか、あざーす、だとかさまざまな言葉が飛び交うものの、ロブ・ルッチ以外は好意的な態度である。ロブ・ルッチは刺し殺すような視線をおれに向けてくるが、それに反応してやるつもりはなかった。なんでそんなに見てくるんだろうか。面倒くさいことにならなきゃあいいが……。言葉をかけてくれた人たちに「よろしくお願いします」と頭を下げれば、「真面目じゃなァ」とカクが笑う。それにつられたように周りが笑った。 ・ ・ ・ 飲み屋に着いて酒と飯を頼んで、ただただ盛り上がっている席でおれは聞き役に徹していた。自分の普段の生活を鑑みるに面白い話題を提供できるとは思わないし、隣に座っていたパウリーは軽く酔い始めてからずっと船のことについて語っているので、普通に面白かった。全然知らないことを知れるというのは、なかなかにいい経験である。 時間が進むにつれてパウリーの話はアイスバーグさんという人の話になった。とにかくパウリーはその人を尊敬しているようで、妙に熱く語っている。たしかガレーラカンパニーの社長でありウォーターセブンの市長でもある男の名前がアイスバーグだったな、と自分の中の情報と合致させた。とても腕のいい船大工なのだと自分のように嬉しそうに話すパウリーは、目を少年のように輝かせている。目だけでも尊敬していることがわかるほどだ。 「でなァ、アイスバーグさんは、すげェんだよ!」 「そうなのか」 「ああ、ほんと、すげェ格好いいしよ! あんなふうになりてェよ!」 おそらくだが話を聞く限りアイスバーグさんとやらは随分学のある人のようだし、パウリーとは方向性が違う気がするので、そんなふうにはなれないのではないだろうか。船大工としての腕だけの話なら、おれにはまったくわからないことだが。機嫌のいいパウリーの言葉に「なれるといいな」と相槌を打っていると、パウリーの奥に座っていたカクがこっちに顔を向けてくる。すこし呆れたような表情。 「パウリー、何度同じ話をするつもりじゃ? ガルムとて聞き飽きとると思うぞ」 「あー? そんなことねェよな、ガルム!」 「ああ、まだ三回目だからな」 そう言ったらカクとパウリーがきょとんとした顔をしてみせた。そのあとカクは声をあげて笑って、パウリーは「そんなに話したか……?」と赤ら顔で首を傾げている。飲みはじめてからそれなりの時間が経っているため、パウリーは酔いが本格的に回り始めているのだろう。自分の言っていることをうまく理解していないというのはなかなかに問題だと思う。これ以上の酒量の摂取はやめた方がいいだろう。まあ、もはやパウリーも言うほど酒が進んでいるわけでもなく、酔った状態で馬鹿騒ぎをしているだけなので、心配するようなことにはならないはずだ。わざわざ止めて場をしらけさせるのも悪い。 ちびちびと酒を飲みながらまたアイスバーグさんの話を続けた。パウリーの中で話題の尽きない人なのだろう。あれがすごい、これもすごい、何もかもすごいという言葉でしか表現できないほどの人のようで、パウリーは自分で言った言葉に自分でうなずいている。随分と盛り上がっているのでその話を止めるようなことはしなかったが、後ろから一人、あきらかに酒の臭いのしない人間が近づいてきていた。その人はパウリーの後ろに立つ。 「で、アイスバーグさんはなァ、本当にすげェんだよ!」 「ンマー、そんなに褒められると照れるな」 「いやいや本当にすげェんだから照れることなんかな…………えっ!? ア、アイスバーグさん!」 振り返ったパウリーは目を瞬かせて驚いている。そのままの勢いで立ったパウリーの身体は、いきなり動いたせいで酔いが回ったのか、ぐらりと揺れる。おれの方に倒れてきたということもあってパウリーを支えると、今にも吐きそうな顔をしていた。さすがに吐瀉物まみれになるのは御免こうむりたい。口を押えたパウリーにアイスバーグさんがやれやれという顔をしてみせる。それからパンパン、と大きな音を響かせる。当然のように注目が集まった。 「主催者がダウンしちまったし、明日の仕事に響いても困る! 今日はここらで解散にしようじゃねェか!」 よく通る声だった。まだ飲み足りないと言いたげな人たちもアイスバーグさんの言葉には従い、挨拶をしながらも店を去って行った。パウリーにはそれに対して何かを言うほどの力は残っていないようで、ほんの少しでも動かしでもしたら吐きそうな顔をしていた。おれがパウリーの面倒を見ていけばいいか、と思ったのもつかの間、まだまだ酒量に余裕のありそうなカクとロブ・ルッチにアイスバーグが話しかけていた。 「お客人にパウリーの後始末をさせるのも悪い。お前ら、パウリーのこと頼めるか?」 「“大丈夫ですクルッポー”」 「仕方ないやつじゃわい。おーいパウリー、帰るぞー」 肩を貸そうとしているカクにパウリーを預ける。文句を言いながらも二人はパウリーを送っていくようだ。そしてなぜかここにはおれとアイスバーグさんの二人だけが残っている。帰るタイミングを完全に逃していた。アイスバーグさんはおれを見て体面的な笑みを浮かべた。 「パウリーの恩人のガルムってのはお前か? 迷惑かけたみたいだな」 「いえ、全然。むしろ興味深かったくらいです。それからご挨拶が遅れてしまってすみません、ガルムと申します」 おれだけが座っているのはおかしいので立ち上がってから挨拶をすると、アイスバーグさんは面食らったような顔になる。けれどすぐに笑みを浮かべ、「まだ酔ってなさそうだな。もう一軒おれに付き合わないか?」と誘ってくれた。何か裏に抱えたものがありそうだったが、今帰ったところですることもない。アイスバーグさんの誘いをありがたく受け、おれたちは店を出て次の店を目指した。 |