――ゆっくりと息を吸って、吐いて。
呼吸を整えて、光を取り戻した目で再び立ち上がると、若干の違和感を覚えた。

…心なしか、視点が低い気がする。

元々身長は高くはなく、最後に測った値は百五十五センチメートル。
その視野はもちろんそんなに広くない。
だけれど、今の視野はそれより狭くなっていた。

いや、他にも。

目に映る建物…
この辺りは田舎道、コンビニエンスストア以外の建物はまばらだったはず。
なのに今目の前にあるのは商店街ではないか。
それに、この町並みは記憶にある――。

ふと、そこで亜樹は右腕のバッグが無いことに気が付いた。
代わりに、背中に重みが…
それは、両肩で背負っているようだった。

ゆっくりと、亜樹はそれを下ろす。
心なしか和らいだ日差しの下、両目を見開いた。

――ランドセル。
亜樹が背負っていた重いものは、小学生時代に背負い慣れた赤いランドセルだった。

高鳴る胸を抑えながら道の端に寄り、ランドセルを開けると…
『五年生・算数ドリル上』『夏休みの友』他、小学五年生の夏休み用の課題らしきものが整列している。

「――な、なに、これ…」

亜樹こと科木(しなき)亜樹は今年でちょうど三十になる。
父母は離婚しており、亜樹は父方についたため、姓も父の実家の科木のままだ。
離婚では母が出ていく形となり、母は亜樹たちの家からそう遠くない隣の市に住んでいた。

そして、今年の四月、亜樹の母は永眠した――。
くも膜下出血が原因らしかった。
らしかった、というのは、亜樹が母親である多恵(たえ)の死に目に会えなかったからで。
亜樹が訪れた時、多恵は住んでいたアパートの一室で倒れて息を引き取っていた。
検死の結果、三日ほどが経過していたらしい。

――けれど。

…亜樹は手元の小学生の夏休みの課題、そして、当時にはまだ活気のあった馴染み深い商店街とを見比べると、一つの小さな決意をした。

「夢、なのかもしれない。うん、きっとそうなんだ。…だけど、もし、もしここが夢じゃないなら」

亜樹は、ずっと前から口ごもって多恵に言えなかった言葉、それから多恵の倒れた姿を回想する。
重いランドセルを背負い直して、八百屋や肉屋、米屋に駄菓子屋等が並ぶ商店街を駆け出した。



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