静かすぎる部屋。
唾を飲み込む音さえ聞こえてしまいそう。

ルフィが私を見つめてゆっくり近付く。
鼻先が触れ合う寸前で思わず目を閉じた。



チュ、と目蓋に柔らかいものが触れて、離れる気配がする。


「送ってく。」
「え…?」
「帰るんだろ?」
「…う、うん。」


起き上がるまでに数秒の間が空いてしまう。


「俺は別に泊まってっても良いけど。」
「帰るわよ!帰りますっ!!」

慌てて起き上がると、ルフィは新しいシャツに着替えて出掛ける準備をしている。

「あ、あのっ一人で帰れるから。大丈夫。」
「大丈夫って、この辺タクシー来ねぇぞ?」
「タクシー通りそうな道まで歩くわよ。」
「お前なー、こんな時間に女がこの辺歩いてたら襲ってくれって言ってるようなもんだぞ。」
「お、襲っ!?」
「危ねぇから乗ってけ。」
「……じゃあ、お言葉に甘えて。」


とは言ったものの、夜道の痴漢よりもコイツの方が何倍も危険な気がする。

今まさに襲おうとしていた張本人が何を言ってるんだか。


でも、あの暗い道を一人で歩くのを想像すると、やはり身震いがする。
結局、素直にバイクで送ってもらうことになってしまった。








ルフィの背中にしがみついて夜道を走る。
夜風の冷たさと、背中越しの温もりがちょうど良かった。

今日初めて乗ったのに、コイツの後ろは私に馴染むように乗り心地が良い。

多分気のせいだろうけど。


住宅街を抜けると、金曜日ということもあって、まだ街並みは騒がしい。
徐々に見慣れた風景に近付いていく。

「その信号のところでいいわ。」

マンション近くの大きな交差点で停めてもらうことにした。
そこからなら歩いてすぐだし、大通りだから大丈夫だろう。



「家の前まで行かなくていいのか?」

バイクを降りると、そんな気遣いをするルフィに少し驚く。

「大丈夫よ。それにアンタに場所教えたら押し掛けてこられそうだもの。」
「俺がそんなことすると思うか?」
「思う。すっごい思う!」
「失礼だな。お前、失礼だぞ!」
「とにかくっ、送ってくれてありがと。」
「おう、またな。」

ヘルメットを突き返すと、それを被ったルフィが身軽にバイクに跨がる。

「またなって、アンタとはもう会わないわよ!」
「いや、会うだろ。」
「会わないわよ!もう、あのクラブにも行かないし!」
「必ず会う。」
「なっ…。」
「じゃあな。」


そう言って走り出すと、あっという間に見えなくなった。
乗せてもらってた時に、意外に安全運転なんて思ったことは撤回。


危ないやつ。


「必ず会うなんて、何の根拠があるのよ…」


目蓋に、まだ唇の感触が残ってる。











あれから、何度か同期達から飲みに行こうと誘われているけど断り続けている。

たった一ヶ月前の慌ただしかった一週間が嘘のように、何事も起こらない平和な日常。


「必ず会う」なんて言ったくせに、私がクラブに行かなければ会うこともない。
本当にテキトーで気まぐれな言葉。
言った本人も覚えていないに違いない。




物事は一つ決まるとトントン拍子で色々な事が決まっていく。

一ヶ月ぶりの恋人から連絡があり、両親の顔合わせと、式場の下見、上司への報告、結婚指輪選び、次々と予定が詰め込まれた。
埋まっていくカレンダーを見て妙に安心する。忙しくしていれば、余計なことを考えなくて済みそうだ。




一人で過ごす夜はとてつもなく長い。


















「ねー、ナミ最近付き合い悪いよ。」
「そうだよ。今日こそ良いでしょー?今日は絶対に終電で帰るからー。」

断り続けていても、必ず誘ってくれる同期達は有り難いけれど、面倒くさい時もある。

「そんなこと言って、絶対に朝まで飲むつもりでしょ?」
「約束する。絶対に帰る!だから行こうよー!」
「ナミいないとつまんないよー。」
「…本当に?」
「うん、絶対!!」

子供みたいに駄々をこねられて押し負けてしまった。久しぶりに飲みたい気分でもあったし。
最近は早く帰っても眠れない。















一軒目を出た時点で、まだ9時だから大丈夫だと、終電で帰るからと、またここでもごねられて二軒目に向かっている。
飲んでいる時はそれなりに楽しいのだけと、しつこいのが困る。

でも、私が本気で嫌がれば同期達だって無理強いはしないことを知っている。

なのに、結局クラブに向かっているのは確かめたかったから。

あれはもう過去の出来事だと。
忘れてしまったら、それは無かったのと同じこと。
アイツに会ったら「覚えてないわ。どちら様?」とでも言ってやろう。








今日は入ってすぐのカウンター近くのテーブル。ハイチェアーは座り心地が良くないから、あまり好きではない。

飲み初めて30分ぐらい経った頃だろうか、聞き覚えのある声で振り向いた。


「あー!ゾロとサンジじゃん。」

ルフィと初めて会ったときにいた二人。
同期達も顔を覚えていたらしい。

私達に気付いたサンジ君は大袈裟に、

「女神だ!女神がいるっ!!まさか、これって運命の再会!?」

と飛び跳ねて近付いて、当たり前のように同じテーブルについた。
同期達も普通に受け入れて一緒に飲み始める。

ゾロはため息をついて、一人カウンター席に座ってお酒を注文していた。









ルフィは?今日は一緒じゃないの?

そんなことは誰も聞かない。たった数回飲んだだけの相手のことなんて誰も気にしない。
みんな簡単に忘れる。







盛り上がっている会話に入っていけなくて同期達のテーブルから離れた。

カウンター席に向かい、一つ空けてゾロの隣に座る。



私の存在を無視して一人飲み続けているけれど、嫌な空間では無かった。

相変わらずの無愛想だけど、何故か怖くはない。それに騒がしいのは嫌いだと言っておきながらこの店に来るのも、友達の誘いを無下に断ったりしないんだろう。

「アンタってさ、付き合い良いわよね。」

「あ?」



話しかけられて初めて私の存在に気付いたように、こちらを向く。



「人相悪いわりには人付き合い良いなって思って。」
「『人相悪い』は余計だ。」
「それに、意外と気が利くしね。」
「『意外』も余計だ。」
「そうかしら?」

はっきり言って笑わないし、喋らないし、周囲を威圧する雰囲気を持っているけど、話しやすい。
気が利くと言ったのも本心。
初めて会ったときも、ルフィが私に突っ掛かってきたら然り気無く止めに入った。
意外に人のことをよく見てる。

ルフィの方がヘラヘラ笑って人畜無害そうな顔をしているけど、何を考えているか全くわからないし、私にとっては危険信号でしかない。



アイツは、いつもこのカウンターに座って何を考えていたんだろう。





…3回。

何度数え直してみても、実際ルフィと会ったのはたったの3回で「知り合い」よりも遠い存在。
名前以外は何も知らない。






「アイツなら、もうこの店には来ねぇぞ。」



声の方を向くとゾロがこちらを見ている。さっきの言葉はゾロが私に言ったものらしい。

「ルフィは、もうこの店には用がねぇから来ない。」
「な、何でいきなりルフィが出てくるのよ…。」
「違うのか?」

「違うも何も、アイツのことなんて…私には関係ないわ。」

「…そうか。じゃ、俺の勘違いだ。悪かったな。」

「別に…いいけど。」

「ナーミッ、ゾロと二人で何話してるのー?」



こちらに気付いた同期が、いきなり後ろから抱き着いてきた。


「…特に、何も。」
「えっ、何もって今までずっと無言だったの!?変なのー。」

完全に酔いが回っているらしく、ゲラゲラと大して面白くないことで大笑いしている。
ゾロはまた静かに飲み始めた。


その後もみんなで飲んでから、やっと11時を過ぎたところで解散になった。
ふらつく足でマンションに帰り着く。今日は何だか飲みすぎた。







アイツはもうあのクラブには来ない。

そんなの私には関係ない。むしろ都合が良い。傷ついてなんかいないし、ショックでもない。ただ無性に苛々する。


飲み過ぎた酔いを醒まそうとバスルームに向かう。

コックを捻って熱いお湯を一気に頭から被っても全然スッキリしない。
鏡に映る自分が他人のように見える。


胸元の赤い痕もとっくに消えて何も残っていない。

もう、何も残っていないのに。






























先輩との一ヶ月半ぶりのデートは式場の下見になった。
下見と言っても、彼の両親の意向でほぼ確定しているようなものだけど。


土曜日だったから、ちょうど本番の式を挙げているカップルもいる。
式場併設の教会を遠目から見学していたら、中から花嫁が出てきた。新郎と腕を組んで、とても幸せそうに。


私もあのドレスを着るんだろうか。

あんな風にこぼれるような笑顔で階段を降りて、周りから祝福されて。


「ナミのドレス姿、楽しみだな。」



嬉しそうにはにかむ彼はきっと未来を思い描いていて、その隣には私がいるんだろう。









式場見学の後はレストランで食事をして、今は車で送ってもらっている。

接待以外では全くお酒を飲まない彼はいつも送り迎えをしてくれる。



「ナミ、元気ないね。」

「そう?そんなことないと思うけど。」

「最近忙しくて、全然休み取れなくてごめん。」

「…ううん、仕事だもの。仕方ないわ。」


何も、知らないのね。


「でも、来月になったら少し落ち着くと思うから、そしたら有給とって旅行でもいこうか。前に沖縄行きたいとか行ってたよね?」

「…うん。」

「一週間ぐらい休めれば海外とか行きたいんだけどなぁ。でも、新婚旅行は絶対にナミが行きたがってたイタリア行こうね。」

「そうね…。」


横顔のキレイな私の恋人は、私が望めばどこへでも連れて行ってくれて、私が望めば何だって買い与えてくれる。

私をまるでお人形のようにとても大切にしてくれる。



マンションの前に着くと、いつものように名残惜しそうに私の手を握って、優しくキスをする。


「おやすみ。またね。」

「…おやすみなさい。」




その、唇が触れ合うだけの行為に、何も感じなかった。





恋人の車を見送った足でマンションとは逆方向の駅に向かう。この夜遅い時間の上り電車はガラガラでほとんど人が乗っていない。


ふらふらと誘われるように歩く。

駅から遠いのはわかっていたらか途中でタクシーを拾って乗り込む。目的地まで案内できるか不安だったけれど、一回行っただけでも意外と覚えているものだ。



到着したのは、繁華街から少し離れた住宅街のアパート。



一階の一番奥の、明かりのついていない部屋。アイツはまだ帰ってきてない。




…何を、しているんだろう。



考えることも、歩くことも疲れて、その場でしゃがみ込んだ。

















「うおっ!…びびった。お前、こんなとこで何やってんだよ。」



あれからどのぐらい時間が過ぎたんだろう。顔を上げると、驚いて間抜けな顔をしているルフィと目が合った。




「嘘つき。」



しゃがんだまま、ルフィを睨みつける。


「あ?」

「必ず会うって言ったくせに全然会わないじゃない!嘘つき!」

「…お前、酔っ払ってんのか?」

「酔ってないわ。いたって素面よ。」

「最近は色々忙しかったんだよ。」

「色々?」

「まあ、それは色々だ。」

「私、アンタのそういうところ大っ嫌い!人のこと振り回すくせして自分のことは秘密主義で!卑怯者!」


溜まったものを一気に吐き出すようにルフィにぶつける。


「お前、声デケーよ。どうしたんだよ。」

「アンタのせいよ…。忘れようとしてるのに忘れられないの!考えたくないのに、いつもアンタのこと考えちゃうのっ!」



ルフィは何も言わない。

私だって自分が何を言っているかよくわかってない。


この感情の名前を知らない。



「…会いたかった。会いたかったから来たの…。」





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