「立て。」

少し低い声は怒っているように聞こえた。


乱暴に私の腕を掴んで立ち上がらせる。
ガチャガチャと上手く回らない鍵を煩わしそうに開けて、私を引き込んだ。


扉がバタンと閉まると同時にされたのは、噛み付くようなキス。

この前みたいに甘く蕩けるような優しいものとは全く違って、貪り尽くすように乱暴で、性急で、でも確実に私を求めていた。

ルフィの首に腕を回して、より深く、舌を絡ませる。


壁に押し付けれて支えていた体も、力が抜けて崩れ落ちる。


それすらも気に止めずにルフィの舌は私を翻弄して、大きな手が私の髪を掻き乱す。


「ナミ。」

掠れた声に心臓が締め付けられる。

私を抱き上げようとした腕を咄嗟に止めた。
不思議そうに見つめるルフィから目を逸らしながら告げた。


「…ここで良いの。ここで、して。」


一瞬の間を置いてから、ルフィは鼻で笑う。

「お前、変なこと言うな?ま、俺はどこでもいいけど。」

私の首筋顔を埋めて、手が自由に這い回る。スカートがあっという間に脱がされて、玄関に投げ捨てられた。


「でも、ここ音響くからあんま声出すなよ。」


頷く代わりに目を閉じた。



ベッドなんかじゃなくていい。
こんなフローリングの上で、動物みたいに後ろからされるのがいい。




その方が、酷いことをされている気分になれる。


優しく抱かれた記憶なんていらない。
一回寝ただけで愛情を錯覚するほど愚かじゃない。


会ったときからわかっていた。

人には言えない仕事も、身体中の傷も。
本心を見せない黒い瞳も。


住む世界が違う。


私の人生とルフィの人生が交わることは決してない。



あの夜を全て塗り潰して消してしまいたいのに、手が、声が、唇が優しくて息が出来ない。



ルフィの興奮した息遣いが、思考回路を停止させる。


左手の薬指を隠すように、握り締めた。






















目が覚めてすぐに自分がどこにいるかは理解した。
あのまま、気を失うようにして眠りついてしまった私をルフィがベッドまで運んでくれたんだろう。

狭いシングルベッドの上で、ルフィの腕が私の背中にしっかりと回されている。
カーテンのない小さな窓から差し込む光で朝だということはわかった。

まわりを見回すと、ベッドの頭の所にあるデジタル時計が6時を表示していた。
とっくに始発も動いている時間だ。

帰らなきゃ。

ルフィを起こさないように、ゆっくりと体を動かして、巻き付いている腕をそっと剥がした。
フローリングで擦れた膝がヒリヒリする。


目線だけで服を探すと、玄関に脱ぎ散らしたままになっている。まあ、ルフィが服にまで気を遣うとは微塵も思っていなかったけど。

そろりとベッドから出ようとしたところで、突然手首を掴まれた。
振り向くと、大きな瞳が少し不機嫌そうに見ている。

「お前、また黙って帰ろうとしただろ。」
「………。」
「今日はダメだ。」
「あっ…。」

せっかくベッドから出ようと起き上がっていた体を、また中に引き戻される。


「お前が途中で飛んじまったから、俺はまだ物足りねぇんだよ。」

体をまさぐる手が何を意味しているかはわかる。

「ちょっと、やめてよっ。」
「やめない。」
「……やっ……。」






この男の前で抵抗なんて意味がない。
私の体は簡単に支配される。


そのまま思考も、理性も、全てを奪いさってくれればいいのに。




激しい律動の後に果てたルフィが私に覆い被さる。

汗の匂いと、触れ合う肌から伝わる体温に胸が押し潰されそうになる。




「ナミ。」


呼吸を整えたルフィが上体を起こして私を覗き込む。


「俺、ここから出るんだ。」
「…いつ?」
「来週。」
「どこに、行くの?」
「んん、それはまだ決めてねぇんだよなー。でもこの街にもう用は無くなったから居る必要もねぇしな。」
「そう…。」


私が望まなくても、離れることなんて簡単だ。ルフィに囚われていたのは、私の妄想。



「お前も一緒に来いよ。」
「え……?」


本気なのか冗談なのか。
その瞳からは何も読み取れない。

「無理に決まってるじゃない。」

ルフィを押し退けて起き上がる。
シーツだけ巻き付けて、服を拾いに向かった。


「何で無理なんだ?」
「結婚するんだもの。無理よ。」

背中に聞こえる声には振り返らず、手早く服を身につけるながら答える。


「そいつのこと好きじゃねぇのに?」
「前にも言ったでしょ?好きかどうかじゃないの。」
「そんなもん、やめちまえば良いじゃねぇか。」
「無責任なこと言わないでよ!じゃあ、アンタが……っ!」
「俺が?」
「…っ何でもない!帰るわ。」



じゃあ、アンタが結婚してくれんの?


喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。

吐き気がする。

コイツに限って有り得ない。
私だってそんなこと望んでない。




「土曜にはこのアパート引き払うから、その日の夜に出発する。」
「あ、そ。」


顔は見ずに部屋を後にした。



本当にこれで最後。

















あの日から何も考えないように、時間が過ぎてくれることだけを静かに待った。

私は今の安定した生活を捨てられない。


あれから一週間、今日の夜には出発すると言っていた。今日さえ過ぎれば、きっといつか、全てを忘れられる。
息が詰まりそうに苦しいのも、気のせいだったと思える。




今日は、結婚式のドレス合わせで、彼と彼の母親まで出てきて、朝からあれやこれやと着せ替え人形のように飾り付けられている。


「ご新婦様、スタイルが良いのでどれもお似合いですね。」

衣裳コーディネーターが上品そうに微笑む。

「本当にナミさんは何を着ても素敵よ。悩むわねぇ。」

彼の母親は、大企業の社長夫人という気取った感じや威圧感はなく、とても穏やかで優しい人。
彼の物腰柔らかい性格はきっと母親譲りなのだろう。








結局、今日は試着をしただけで決められず、また次回に持ち越しになり、ドレスショップの近くのレストランで遅めの昼食をとることにした。





「あなた達、のんびりしてるけどまだ新居も決めていないんでしょ?どうするの?」

デザートまで食べ終わったところで、コーヒーを口に運びながら彼の母親が問いかける。

「ああ、それは僕のマンションの部屋が余ってるし、子供がいないうちはそれで充分だから。」
「ええ!そうなの!?ナミさんはそれで良いの?」
「はい。私も今は特に新しくする必要も無いと思っているので。」
「そう?ナミさんが良いなら、良いけど…。」


一人息子のせいか、彼の母親は少し過保護なところがあり、二人のことに関して親が介入してくることがよくある。

「それで、仕事はいつまで続けるの?」
「あ…それは、まだ決めていなくて…。」
「今すぐ辞めちゃいなさいよ。働く必要も無いんだし。」
「でも、引き継ぎもあるので今すぐっていう訳には…。」
「そんなの気にする必要ないわ。大丈夫。あなたが辞めても代わりの人はすぐ見つかるから。」
「そう、ですね…。」


悪気がないのはわかっている。間違ったことは言っていない。私がいなくなっても、代わりの人なんていくらでもいる。

だから、私がここで何か思うことの方がおかしい。

彼も、母親に同調するように微笑みかけてくる。







水位が、上がってくる。















彼の母親と別れた後、彼と二人で街を歩いていた。
彼の口からは将来の話が次々と溢れ出す。

そして交差点で立ち止まった彼が、ふいに真剣な眼差しで見つめる。

「これから先何があっても、俺がナミのことを守るよ。」





私は何から守られるのだろう。

守るという言葉は、水槽の中に閉じ込められるようだと思う。水と栄養を与えられて大切に飼われる。






どんどん、水位が上がってくる。
きっとそのうち呼吸さえ出来なくなる。




手を離した私を、彼が不思議そうに見る。


「ナミ、どうしたの…?」
「……私は…。」



「ナミ!」

聞こえるはずがないのに、アイツの声がする。

居るはずがないのに、交差点の向こうに見覚えのあるバイクに乗ったシルエット。


信号が変わると同時に急カーブを描いて、通りの向こうから私達の目の前にやって来た。



「お前、こんなとこで何してんだ?夜には出るって言っただろ?」
「一緒に行くなんて、一言も…。」
「来るだろ?」

「ナミ、その…彼は、友達?」

私とルフィを交互に見ながら、先輩が問いかける。


全てが上手く、順調に行くと信じていた。
誰もがうらやむ幸せな生活を送りたいと思っていた。

ここで、ルフィのことなんて無視をして先輩のところに戻れば、それが叶えられる。



ルフィに背を向けて、先輩に向き直った。





「今まで、ありがとう。」


薬指の指輪を差し出すと、呆気にとられた顔でそれを受け取る。

「ナミ、どういう…」 
「…さよなら。」



いつか、この夜のことを後悔する日がくるかもしれない。


だけど、今の安定した生活も、約束された未来も、鏡の中の純白ドレスを着た自分も、何もかもが偽物だった。



「ルフィ、アンタと行くわ。」

「お前、俺の名前初めて呼んだなぁ。」

目を細めて笑う顔は、初めて会ったときと同じ幼い印象。


バイクの後ろに跨がって走り出すのを、先輩はただ呆然と見ていた。


嫌いじゃなかった。
ちゃんと好きになれなかったけど、心から愛することが出来たらどんなに幸せだろうと思っていた。

自分の気持ちさえも思い通りにはいかない。
















「お前、スッゲーいいとこ住んでんなぁ〜。」
「そう?無駄に広いだけだと思うけど。」

持っていく荷物なんて何もないけれど、服だけは少しは必要だろうとマンションに取りに寄った。


婚約者の名義で借りてもらっていた部屋は、リビングが12畳もある1LDKで、一人では持て余していた。
ここで、夢のように満たされた偽物の時間を過ごしてきた。



寝室にあるクローゼットから目についたものだけを数着、バッグに詰め込んでいく。

部屋を出ようとすると、リビングのテーブルに置いてある携帯電話が鳴り始めた。確認しなくても相手はわかる。


「お前、電話は?持ってかねぇの?」
「…私にはもう必要ないから。」
「そっか。」


私にはもう帰る場所も、守るものもない。


大切な家族も、友達も捨てて、恋人のことも平気で裏切って。















大通りから国道に出て、ルフィが更にスピードを上げる。

どこに、行くんだろう?

コイツに着いて行ったところでどうなるんだろう?
未来もない、約束されたものなんて何もない。


今の私には、この背中から伝わる体温しか信じられるものがない。



厚い雲で覆われて星一つ見えない空。

夜がどこまでも続いている気がした。




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