生あくびが出そうになるのを何とかかみ殺す。
寝不足と全身筋肉痛のような気だるさで、とてもじゃないけど座っているだけでも限界。
今すぐ家のベッドでぐっすり眠りたい。
…あのバカ、本当に何考えてるのよ!
ホテルに入った時点で時計が深夜2時近くだったのは覚えている。
あの後、何回も何回も明け方までつき合わされて、怖くて時計も見なかったけど窓から差し込む光は完全に朝日だった。
徐々に記憶が戻ってくる。
ものすごく恥ずかしいことをされたし、自ら進んでした気もする。本当に自分が信じられない。
思い出しただけでも顔から火が出そう。
…でも。
気持ち良かった。
あんなに感じたことはない。
どこを触られても何をされても芯まで痺れて頭の中は真っ白になって、何も考えられなかった。
朝起きて私がいないことに気付いたアイツはどんな顔したんだろう。
どうでもいいことだけど。
気絶するように眠りについた直後、携帯電話のアラームで起こされてホテルを飛び出した。
家に戻って着替える時間もなく、しわくちゃなワンピースのまま。
こんな時は制服のある仕事で良かったと思う。
うちの会社は受付だけ制服がある。
受付としてこの会社に入って、五年も経つと後輩も出来ていて自然と頼られる存在になっていた。
仕事は嫌いじゃない。それなりに充実もしている。
まあ、結婚したら辞めることになっているのだけど。
嫌いじゃないけど、そこまで情熱を注いでやってきたわけでもない。辞めること自体には何の感慨もない。
なのに、どうしてなんだろう。
仕事を辞めて家庭に入る。
何不自由無い暮らしが待っているのに、今での自分が消えてなくなってしまうような気がするのは。
『お前って、つまんねーヤツなんだな。』
ルフィの声が聞こえる。
言う通りつまらないヤツなのかもしれない。
でも、決してそれは悪いことじゃないはずだ。
あんなヤツの言うことに惑わされちゃいけない。
近付いちゃいけない。
そうわかっていたはずなのに。
有り得ない。
目が覚めた時に当たり前のように敷かれていた腕枕も。
寄り添うように顔を埋めて寝ていた自分も。
記憶がおぼろげながら、終わった後にアイツにバスルームに運ばれたのは覚えている。朝起きた時に体がスッキリしていたのはそういうわけだろう。
でも、断片的な記憶でしかないけど…洗うなんていう手付きじゃなくて…。
…やだ…私、変なこと考えてる。
仕事中に変態じゃないのっ?!
もう忘れる。そう決めた。
連絡先も知らないし。会うことも無い。
アイツにとっても不特定多数のうちの一人に過ぎない。
このまま、何も無かったことにして結婚する。あれは事故。
「あのぅ…ナミさん、顔赤いですけど大丈夫ですか?」
「えっ、そ、そんなことないわよ。全然大丈夫!」
「大丈夫なら良いんですけど。」
受付で隣に座るこの子は二年目の後輩。
何故か私のことを慕ってくれている。
「ナミさん、婚約指輪してないんですね。」
「うん、仕事中は目立つからね。あれは外して……。」
あれ?いつ外した?
更衣室で外した記憶が無い。
そう言えば、行為の最中にルフィが邪魔だと言って抜き取ってベッドのサイドテーブルに…。
「ナミさん?どうしたんですか?」
「ううん、何でもないわ。そんなことより、仕事中なんだから私語は控え目にね。」
「はーい。」
仕事中にまったく関係ないことを考えている私が何を偉そうに。自分に呆れる。
そんなことよりも、アイツに会わなきゃいけない理由が出来てしまった。
終業時間と共に、用事があるからと言って更衣室に駆け込んだ。
後から誰かが来る前に着替えて帰らないと、何か突っ込まれたらボロが出てしまいそうだ。
携帯電話を開くと、出張中の先輩からメールが来ていた。
遅い新幹線で帰るから会いたい、と。
婚約してからも、先輩は忙しく出張続きで会えるのは月に二回ぐらいしかない。私にはそれぐらいがちょうど良かった。
今回のメールは、その半月ぶりの誘いなのだけど、指輪無しで会えるはずもなく、体調が悪いからと嘘をついた。
そこに煩わしさはあったけど、罪悪感は無かった。
金曜日になり、また同期達とクラブに来ている。
一週間に二回も来るなんて、相当ここの雰囲気でも気に入っているんだろうか。
席は指定席のように、またあのテーブル席。
会話もそぞろに店内を見回してアイツを探していた。
本当は一人で来るはずだったのに。
仕事終わりに誘われてしまって、断るわけにもいかなかった。
断った後に一人で来たところを見付かったら、それこそ面倒臭いことになりそうだし。
何とかアイツと二人きりになるチャンスを見付けないと。
「そう言えば、この前どうしたの?」
「こ、この前?」
蒸し返さなくていいことを聞かれて声が上擦る。
「うん。ルフィ君が追い掛けてったんだけど、会わなかった?」
「知らない。会ってないし。すぐにタクシーで帰ったから!」
「そうなんだ。ルフィ君も戻って来ないから二人でどっか行ったのかなぁって。」
「いっ行くわけないじゃない!何で私がアイツと!?」
「冗談だって。何焦ってんの?」
「ナミ、そういうのキライだもんねー。」
「そうよ。やめてよ…冗談でもそんなこと言うの…。」
心臓に悪い。
さっさと指輪を返してもらわないと。
でも、アイツも毎日ここに来ているとも限らないし、上手く行くだろうか…。
そんな私の心配をよそに、ルフィは呑気にやって来た。
入口から、また一直線でカウンターに向かう。
「私、ちょっとトイレ行ってくる!」
階段を駆け降りてカウンターに向かう。
今日は一人のようだ。
「ねえ、話があるんだけど。」
振り向いたルフィは一瞬笑顔になりかけて、すぐ不満顔になった。
「お前、黙っていなくなるなよな。何で、先に帰っ…ウグッ」
「ちょっと!余計なこと言わないでよ!」
誰が聞いているかもわからないのにぺらぺらと喋り出すルフィの口を慌てて塞いだ。
ちらりとテーブル席を見上げたけど、同期達はこちらには気付いてないようだ。
「こっちに来て。」
ダンスフロアの奥の方、テーブル席の真下の死角になるところに連れて行った。
「俺、踊れねぇぞ?」
「バカじゃないの?何でアンタと踊るのよ。」
爆音のBGMの下、自然と距離が近くなる。
「アンタ、何か食べてる?」
甘い香りに、つい要らないことを聞いてしまった。
「ん、飴。」
ペロリと舌を出して、ピンクの飴玉を見せてくる。
「飴って…。」
いちいちガキ臭いんだから。
「お前も食う?」
「食うわけな…」
突然、口を塞がれて息が出来ない。
舌と一緒にイチゴ味の飴玉がころりと転がり込んできた。
後ろに下がろうとしてバランスを崩した腰はルフィに支えられて、離れようにも後頭部はもう片方の手で押さえ付けられてビクともしない。
「んっ、んーーー!!」
肩を叩いて抵抗しても止めるどころか、舌が更に入り込んでくる。
歯列をなぞって、ゆったりと口内を味わうように。
目を白黒させる視界の端で、周りの酔っ払い達が口笛を吹いたり奇声を上げたりして、盛り上がっているのが見える。
見せ物じゃないのよっ!!
「んっ!!」
唾液と一緒に、小さくなった飴玉ごと飲み込んでしまって一瞬喉が詰まる。
「ゴホッ、ゴホッ……何考えて…!」
「あー!お前、せっかくやったのに飲むなよなー。」
「いい加減にしてよ!こんな所でキ、キスするなんて何考えてるのよ!!」
「何って、したくなったから。」
「はぁ!?アンタ、本当にバカじゃないの?」
周囲の視線に耐えきれず、トイレに連れ込んだ。
広めの個室は扉一枚で外の爆音をかなり抑えてくれる。中の会話が聞かれる心配はないだろう。
「ねえ、あの夜のことは忘れて。私も忘れるから。」
「何で?」
「何でって…お互い楽しんだでしょ?それでおしまい。それで良いでしょ?」
「何で?」
「だから…」
ルフィが一歩ずつ近付いて来て、壁の方に追いやられる。
個室に連れ込んだのは間違いだったかもしれない。
「でも気持ち良かっただろ?」
顔をズイと近付けられて、何も言葉が出てこない。あまりの近さに思わず目を閉じる。
「俺はスゲー気持ち良かったけどな。お前は?」
「わ、忘れた!!」
「あ?」
「もう忘れたの!私の中では何も無かったのと同じことよ!」
溜まっていた息と一緒に吐き出す。
ギュッと閉じていた瞼を開けて様子を伺うと、誰が見てもすぐわかる不機嫌な顔があった。
「ふーん…。」
次の行動が予測出来なくて怖い。でも、怯んでる場合じゃない。
「だから、もう私にキスとかしないでっ!」
「やだ。」
「やだって、…あっ!」
ルフィの手が胸元に近付いてきたかと思ったら、カットソーの襟をグイッと下げられていきなり吸い付かれた。
ピリッという痛みがして、ルフィが離れると胸の谷間のあたりに真っ赤な印がついている。
「これで、しばらくは他のヤツとできねぇな。」
嬉しそうに人差し指でチョンチョンとその印を叩きながら、そんなことを言ってのける。
「信じられない…!何してんのよっ!」
一瞬の出来事に愕然とする。
青ざめる私に対してルフィは腹が立つぐらいニコニコとご機嫌だ。
「そういや、お前。俺に話あるとか言ってなかったか?」
「……話…?そっそうよ!指輪!!」
すっかりコイツのペースにはまってるうちに、自分がとんでもない最重要事項を忘れていたことを思い出した。
「指輪?」
「私の婚約指輪!アンタ、持ってるでしょ!?」
「ああ、アレのことか。アレなら捨てた。」
「捨てた?!捨てたってどういうことよ!!」
今度は私がルフィに詰め寄る。
形振りかまっていられない。
「うそ。」
「嘘?!」
「うん。俺が持ってる。」
「つ、つまらない冗談やめてよ!今すぐ返して!」
「今すぐは無理だろ。持ち歩いてねぇもん。」
「じゃあ、どこにあるの!?返して!!」
自分が鬼の形相になっているのは鏡を見なくてもわかる。
睨み付ける私にルフィは大して動じず言葉を返す。
そして、この男が無表情で物を言うときは大概が突拍子もないことだ。
「俺んち。取りに来いよ。」
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