「渚さん、これ安室さんに返しておいてください!」

そう言われて光彦から渡された紙袋を覗き込めば、見覚えのある上着が中には入っていた。
しばらくそこから視線を離せないまま数秒。ようやく上げた顔は、うろたえていて大分情けないものだったと思う。

「え…なんで私が…?」
「だって安室さん、渚さんに渡しておいてって言ってましたから」

言ってたよ、たしかに言ってた。でもだからって律儀にそれを守ることはないんじゃないかな!?
肩を掴んで前後に振り回しながらそう訴えたい気分ではあったが、まさか小学生の男の子相手にそんな大人気ないことができるはずもなく。
コナンや哀のどこか同情的な視線をひしひしと感じつつ。思わず遠い目をしながら、とりあえずはそれを受け取った。


それが昨日の出来事。渚は紙袋を携え、ポアロの前で立ち往生していた。

(だ…大丈夫!この上着を返すというミッションをクリアしたらさっさと帰ればいいんだから…!今日は用がある。用があるってことにしてさっさと帰れば…!)

頭の中でシミュレーションを繰り返すこと数回。よし、と拳を作ってポアロのドアに手をかける。

「いらっしゃいませ。…ああ、渚さん!」

運が悪いのか、いや今日の場合は運がいいのかもしれない。ドアを開けた瞬間目的の人物が現れ、彼は笑みを携えて渚の方へと近づいてきた。
向こうが行動を開始する前に主導権を握ってしまおう。紙袋を持つ手に思わず力がこもる。

「あの、安室さん!」
「ちょうどいいタイミングですね、渚さん。実は今日から新作のケーキがメニューに追加されたんですよ。試していきません?」
「えっ、新作ケーキ」

ぱあ、と思わず顔が緩む。
それを了承と受け取ったのか、どうぞ、と安室が勧めてくる席に座ってしまい、それから頭を抱えた。
違う、私は上着を返しにきただけなのに。まんまとしてやられた。いや、多分私が勝手に引っかかっただけなのだろうけど。

「あれ、渚さん。この紙袋は?」
「…光彦君から渡された、この前貸した安室さんの上着ですよ。返しておいてほしいって頼まれて」
「ああ…わざわざすみません。ありがとうございます」

すまないと思っているなら何故あえて私に返させたのか!
思わずジト目で安室を睨みつけるが、当然そんなものに怯むような彼ではなく。
「お礼にケーキはご馳走しますから」と言うと、渚の返答を待つこともなく紙袋を受け取ってバックヤードの方に引っ込んでしまった。
…こうして席に座ってしまったからには仕方ない。大人しくケーキを食べて、今度こそさっさと帰ろうと心に決める。

「あら、渚さん、いらっしゃいませ!いらしてたんですね」
「梓さん」

引っ込んだ安室の代わりにバックヤードから出てきたのは梓だった。
屈託のない彼女の笑顔に、警戒心でがちがちに固まっていた心が癒される思いがした。渚の顔にも自然と笑顔が浮かぶ。

「そうだ。聞いてください、渚さん!うちのお店、なんと雑誌に載ったんですよ!」
「えっ、本当ですか?」
「この前取材の人が来て本に載るって言ってたんですけど、まさかこんなに大きく扱われるなんて思ってなくて!」

ほらここです、と梓が持ってきた雑誌を覗き込めば、彼女の言う通り、1ページを丸々使った記事が掲載されていた。

「え、すごーい!あ、ハムサンドの写真もある。それに梓さん!美人店員さんですって!流石ですね!」
「もォー、美人だなんて褒めすぎですよねー!」
「そんなことないですよ!梓さん、本当に美人だし可愛いし!」

『この店のお得意様の三毛猫大尉君と美人店員の梓さん』と題された写真には、三毛猫を抱えて微笑む梓が映っていて。
…記事を目にした時からちょっと気になってたけど、この雑誌の記事って、もしかして…。
渚が考えふけていると、何を勘違いしたのか梓がにんまりと笑いながら渚をつついてくる。

「残念ながら安室さんは取材の日、体調不良でお休みしてて…」
「へぇー…」

まぁ黒ずくめの組織に潜入してる捜査官が雑誌に顔出しなんてして目立つのは色々とまずいだろうから、わざと休んだんだろうけど。

「でも、もし安室さんも載ってたら、今頃店内は女の子であふれかえってたかも!良かったですね、渚さん!」
「いやいやいや、別に何も良くないですし全然関係ないですし!」

何かを含んでるような物言いが気になると思ったら、そういうことか!
慌てて否定したが、「別に照れなくてもいいんですよ!」と梓は聞く耳持たない。まさか蘭や園子枠の人間がここにもいただなんて。私の心休まる場所はやはり二次元にしか存在しないのか。
カランカラン、とそのとき来客を告げるベルの音が店内に響いて、梓はそちらの応対に向かったようだ。
ひとまず追求から逃れたことにほっと息を吐いて、手持ち無沙汰だった渚はそのままつられるように新たな客の方に目を向ける。60代くらいの、眼鏡をかけた女性が一人、来店したようだった。

「いらっしゃいませ!」
「あの、ちょっと伺いたいことがあるのだけども…」

だが純粋に客として来た雰囲気ではなかった。首を傾げる梓に、つられて渚も。
そういえばこの女性。見覚えがあるわけではないが既視感を感じるのだが、もしかして。
そして脳内である結論に至った渚をよそに、女性は一冊の雑誌を鞄から取り出し、付箋を貼っていたページを広げてそれを梓に見せてくる。先程梓が見せてくれたのと同じ雑誌、そして同じページだった。

「この写真の猫だけど…この猫、私の孫娘の飼い猫じゃないかと思いまして」
「えっ!」

梓の驚いたような声。 そう、あの写真の三毛猫はポアロに餌をねだりに来る野良猫で、最近梓が引き取って飼い始めた。――と、原作では描かれていた、はず。
首輪をしているので元は誰かの飼い猫だったようだが、あの記事を見て、元の飼い猫が現れてくれれば…という思いもあったようだ。
そしてその通りに、こうして飼い主だという人が早速現れたというわけだ。

「返して頂きたいのだけど、構わないかしら?」
「え、ええ…でも、今はちょうど私の家にいて…」

いつもなら夕方になれば餌をねだりに来ていたから、その時に確認してもらって引き渡せば良かったのだろうけど、今は梓の自宅にいるのでそういうわけにもいかず。
けれどポアロのマスターが、ちょうど今はお客が引けていて手の空いてる時間だから、今の間に猫を連れてくればいいと言う。それにすみませんと頭を下げて、梓は一度自宅に戻ろうとドアを開け外に出た。

「何かあったんですか?」
「うわっ」

一連の流れをぼーっと見ていると、急に声をかけられて渚は肩を跳ねさせた。
いつの間にか安室がバックヤードから戻ってきていたようだ。梓が出て行ったことに不思議そうにしている安室に経緯を説明すると、彼は何かを思案するように真面目な表情を浮かべている。

「大尉の飼い主を名乗る女性、ですか…。まあ本物か企み持って近づく人間か、見極める必要性はありそうですが…」
「あー…たしかに、そうですね…」
「渚さんもそう思うんですね?」

言ってからしまったか、と。一瞬思ったが、そこまで怪しまれるべきものではないし、変に誤魔化すよりはここは貫き通したほうがいいだろう。

「雄の三毛猫って、たしかすごい珍しいんですよね?聞いたことあります」
「ええ…染色体異常で1000匹に1匹の割合でしか生まれなくて、その希少価値からいわゆる招き猫のモデルとされているんですよ」

知っているとも、原作でも安室が言っていた台詞だ。そうなんですか、とそれに相槌を返しておけば、それ以上安室が訝しむことはなかったようだ。思わずほっと胸を撫で下ろす。

「……おや」

何かに気付いたかのようなその呟きに、まだ何かあったかとビクリと肩を震わせたが、杞憂だったようだ。安室の視線は外に向いている。
ガラスの向こう、店の外に見知った子ども達の姿を捉え、安室の興味はすっかりそちらに向いたようだ。一瞬何かを思案するような動きを見せた後、梓と話し込んでいる子どもらの元へ向かうべく、同じように店の外に出て行ってしまう。
いくら今店内にお客さんが少ないからって勝手に店出て行っていいのかと、ちょっと内心つっこみたい衝動に駆られつつも。
そういえば新作のケーキとやらを食べられるのは当分後になりそうだと、この後の展開を思い出して軽く溜息を吐いた。

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