うららかな陽気が心地いい休日。春めいてきた季節とは裏腹に、渚の心は重く沈んだままだった。
それは先日の出来事からずっと続いているものだ。冷たい安室の声、表情、そして彼の素性など。安室のことが悩みのほとんどを占めている。
何度溜め息を吐いたか分からない。はあ、というその声を自分でも聞きすぎて飽きてしまうほどだ。そう考えたらまた漏れそうになったそれを、なんとか飲み込んで暗い感情ごとしまいこむ。

(…何か、明るくなるようなことないかな)

そんなことを考えていたら、目の前を桃色の花弁がひらひらと風で舞い、通り過ぎていった。その様子を視線で追い、出所を探れば、満開の桜が視界に飛び込んでくる。
桜か、とぼんやりそれを眺めながら呟いていた。思えば毎年、友人と集まってよく花見をしていたっけ。とは言え「桜が似合うキャラは誰か」といった話題で盛り上がるなど、場所が異なるだけでしていることはいつもと大して変わらなかったわけだが。思わず苦笑して、それから懐かしさにそっと目を細めた。

「…ちょっとだけ、覗いていこうかな」

まだ陽は高いし、特別この後用事もない。それに、最近気落ちしているこの気分を上昇させるにはちょうど良いかもしれない。そう思い、渚は満開の桜が並ぶ神社の敷地内へと足を踏み入れた。
今日は天気もいいし、流石に休日なだけあって花見客は多かった。人の間を縫うように歩いていき、桜の見事さに思わず息を漏らす。ほんの少しだけ、気分は晴れた気がした。

(やっぱり桜は日本人の心、か)

せっかくだからこのままお参りもしていこうと、財布からお賽銭を取り出そうとして、中に入っていたお守りについ手が止まってしまった。
お守りに書かれている神社の名前を視線で辿って、溜息が零れた。それは元の世界にある神社の名前。そう、通り魔に襲われてこの世界に渡った際、鞄の小さなポケットに入れていたこれは、元の世界と繋がる数少ないものの一つである。

(…と言っても、通り魔に襲われてる時点でご利益は既に薄い気もするけど…)

それでも手放しがたいものであることに変わりはない。大切そうにお守りを指でなぞって、それからまた財布にしまい、同じように財布も鞄にしまった。もう一度桜を見上げる。先ほどまで綺麗だと感じていたそれが、急に寂しいものを纏っているように思えた。

「――あ、すみません」

その時すれ違った中年の女性にぶつかってしまい、いえ、と渚はよろけながらも軽く頭を下げた。この人ごみの中ぼうっと突っ立っていた渚も悪いのだろう。そそくさと立ち去り、離れたところで溜息をもう一つ。ぶんぶんと頭を振り、再び神前に向かって歩き出す。
お賽銭を投げ、静かに鐘を鳴らして二礼、二拍手。目を閉じながら、願をかけるにしても一体何を願うかとか、住所を心の中で呟くにしろそれはどちらの住所なのかとか、ついそんなことばかり考えてしまって、結局何を願うでもなく一礼してその場を後にした。

「……はあ」

気分を晴らすために花見に来たのに、これでは逆効果ではないか。こんなに自分は落ち込みやすい人間だったか。何度目かの溜息をつき、もう帰ろうと思ったがその前におみくじ売り場が目に入った。
…これで悪い結果が出たら更に凹むだけではないか。そう思いながらも好奇心には敵わず、一枚引こうと鞄の中で財布を探った手が、止まった。

「…ん?」

いつまでもその感触が見つからず、眉を寄せながら鞄の中に目を向ける。だが目当てのものは見つからず、嫌な予感を覚えながら慌てて鞄の中をまさぐった。やはりどこにもない。一瞬にして顔が真っ青になって、急いで直前までのことを思い出そうとするのに思考回路はぐるぐる回るだけでなかなかうまくまとまらない。
お賽銭を取り出したときはあったはずだから、その後に落としたのか。そうすると考えられるのは鞄にしまった際だが。近くの地面に視線を落としながらあちこちうろつき回る。前を向いていなかったせいで人にぶつかり、慌てて頭を下げて、ふと何かに引っかかった。そういえばあの時も、人にぶつからなかっただろうか。

「…まさか」

落としたと思っていたが、もしかしてスリに遭ったという可能性も否定できない。あの女性ではなくても、並んでいる間ということも考えられるが。
こういう場合はどうしたらいいのか。警察に通報すべきなのか。でもただ落としただけという可能性もないわけではないし。迷いながらも、視線は自然とあの女性を探し回っていた。あちこちうろついて、トイレの裏のあたりを見ようとしたところで、後ろから声をかけられた。

「おお、渚さんじゃないかね?」
「え?」

振り返れば、そこにいたのは少年探偵団の保護者でもある阿笠の姿があった。会釈すれば、彼は朗らかに笑いかけながらこちらに近づいてくる。

「あ…こんにちは、阿笠さん」
「君も花見に来ておったんじゃの!」
「ちょうど近くを通り掛ったもので…もしかして、コナン君達も一緒ですか?」
「そうなんじゃよ。良かったら渚さんも一緒にどうじゃ?」
「嬉しいお誘いなんですけど、先に探し物が…」

けれど、コナンが来ているというのなら彼にも協力を仰いでみた方がいいのかもしれない、とふと思った。せっかく花見に来ている彼らにそんなことを頼むのも申し訳ないのだが。
渚の煮え切らない様子に不思議そうに首を傾げた阿笠に、事情を話そうと口を開いたところで、近くから聞こえてきた音にそれは飲み込まれてしまった。眉をひそめながら音の出所を探り、後ろを振り向いたところ、トイレの裏のあたりで誰かが何かを打ちつけているのが目に入った。
何度も、何度も。細い棒のようなもので打ちつける度に鈍い音があたりに響く。木陰で暗く、その人物の姿はシルエットになっていてはっきりとは見えない。分かるのは帽子を被っていることくらいか。阿笠は眉を寄せながら「杭でも打っておるのか…?」と呟いているが、音が一つ、二つ、増えるごとに渚の心拍は音を強くしていった。
あのときの光景が頭を過ぎって、指が、震える。

「……っ!」

足がすくんで、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。もう傷などとっくに治っているはずの頭が痛い。気持ちが悪い。口を抑えて、固く目を閉じた。阿笠の心配する声が上から降ってくるが、それに答える余裕はなかった。
この世界にやってきた、通り魔に襲われたときのことを思い出す。あのとき渚を殴ったのも、似たような金属の棒だったか。

「あ、ちょっと…!」

やがて音は止み、その人物は立ち去ったようだ。うっすらと開けた視界に、片足を引きずるその人物の足が映る。それをぼんやりと見送って、それから再びトイレの裏の方へ視線を戻した。
自分の心はとっくに警鐘を鳴らしていたのに、どうして見てしまったのか。木陰の暗さに目が慣れ、打ちつけていたのが杭でも何でもなく人間だと気付いて―― 一瞬にしてぞっと体が冷たくなった。

「た、大変じゃ!警察を呼ばんと…!」

阿笠は慌てて警察を呼びにいったようだ。それを耳で感じながら、渚は目の前の光景から――見たくもないのに、視線を逸らせない。
あの時のことを思い出しながら、誰か助けてと救いを求めたところで、あの時誰も助けてくれなかったように渚の傍には今誰も、いやしないのだ。

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