足取りは、重かった。
隣を歩く小さな同行者は渚を気遣うようにちょくちょく視線を向けてくる。それが今はありがたかった。
けれど一体何故彼はあんなに頑なに送ろうとしてくれたのか。ただ夜遅くて危ないからという理由以外に何かありそうだったが、それが渚には分からない。

「…ねえ渚さん、大丈夫?顔色悪いけど…」
「うん、大丈、夫…」

そう答えたかったが、一瞬めまいがして思わず足を止めた。立ってるのが辛くなり、その場で蹲ればさらに心配そうに声をかけられる。吐き気はないが、しばらく立ち上がりたくはない。

「渚さん、すぐそこに公園あるから、そこのベンチで休んだ方がいいよ」
「…うん…」

そう促された後もしばらく蹲ってから、ようやくのろのろと立ち上がる。なんとか公園のベンチに腰掛けた後、しばらく眩暈を堪えていれば、コナンが自動販売機で買ってきてくれたらしい水のペットボトルを差し出してくれた。情けないとは思いつつも、ありがたくそれを受け取る。
この気分の悪さが何によるものかは未だはっきりしていなかった。全力疾走の名残か、酔いが回ってきたからか、先ほどの会話のせいか。
そう、先ほどの会話。あれは一体何だったのか。いかにも怪しげな会話に、何故安室の声を持つ人物が関わっていたのか。あれは本当に安室だったのか。けれど自分がそれを聞き間違えるとも思えない。

(わから、ない…)

ひとまずは貰った水に口をつける。冷たい水が喉を潤し、少しだけ気分を晴らしてくれた気がした。

「気分はどう?」
「…なんかごめんね、コナン君」
「気にしないで。…でもあんまり飲みすぎちゃ、だめだよ」

少しだけ明るい声で窘められる。子どもにそんなことを言われるなんて、面目ない。そう思ったと同時に、コナンはコナンでこの気分の悪さの原因を酒のせいだと誘導しているようにも思えた。
そのことに疑問を呈する前に、先ほどの青年のことをふと思い出した。柔和な表情をしていたが、路地裏で声を殺せと囁いた彼の声はひどく低かった。けれど不思議と、素直に従おうという気持ちにさせられた。あれは一体何だったのか。
渚の口を覆ったその手のひらを、どうしてか懐かしいとすら感じてしまった。

「…渚さん?」

またぼうっとしていたらしい。心配そうにかけられた声に弱く笑って首を振る。水のおかげで、少しは楽になってきた。

「ねえ、コナン君。さっきの人…おきあ…じゃない、キャス…でもなくて、えっと…」
「…昴さんのこと?沖矢昴さん」
「ああ、そうそう。あの人、コナン君の知り合い?なんかまともにお礼の一つも言えなかったから、コナン君を通じてもう一度と思ったんだけど…」
「大丈夫だよ!ボクから言っておくから!」

笑顔でそう押しきられて、でもちゃんと自分の口から礼をと続けようとしたが、無言の圧力に負けてしまった。確かに彼は笑顔を浮かべているが、その態度は頑なだ。沖矢には会わない方がいいということなのか。

(実はああ見えて危険人物だとか?)

否、そうは見えなかったが。けれど憶測したところで答えも見つからず、渋々コナンの言葉に同意するように頷くことしかできなかった。
この世界の漫画の主人公である、正義側である彼が言うなら、きっとそうした方がいいのだろう。

(――漫画の、主人公なんだよなぁ)

無意識の内にその小さな肩に手を伸ばしていた。
そっと触れれば、布越しに熱を感じる。確かにこの世界に生きている存在だった。突然の行動に「渚さん?」と怪訝そうに眉を寄せる声には答えず、じっとその瞳を見つめた。
確かに、彼はこの世界の主人公だ。けれどここは漫画の中じゃない。現実だ。
抱えた矛盾は、未だ渚の中で燻り続けている。

水のおかげか、休んだおかげか。ようやく楽になってきて、「もう大丈夫」と言いながら渚は立ち上がった。コナンが心配そうに見上げてくるが、こんな遅い時間にこれ以上彼を外で連れ回すわけにもいくまい。

「もう、お酒の飲みすぎには気をつけなくちゃね」

苦く笑って、そして自ら口にした酒という言葉にふと、何かを思い出した。
バーボン。好きでよく飲むその酒の名前を、あの時は聞きたくないと思った。そしてその名を聞いて答えたのは安室と同じ声だった。あれではまるで、酒の名前に反応したというより、まるで自分が呼ばれたようではなかったか。
そういえばジンとかウォッカとか。よろしく、とは、それこそまるで誰かの名前のよう。酒の名前をつけられた人間が偶然集まるというのも妙な話。それはまるでコードネームのような――そこまで考えたところで、再び何か引っかかるものを感じた。

(コナンとお酒の名前って、なんか関係なかったっけ)

名探偵コナンというこの漫画が好きな友人がいて、彼女にしょっちゅう「読んで」と強く勧められていたことを思い出した。その度に「巻数が多すぎて追いつくの大変そうだから」とのらりくらりとかわしていたが、時々軽くプレゼンをしてくれたので、若干の内容だけ覚えているところもある。とはいえほとんど記憶から抜け落ちてしまっているのだが。

(なんだっけ…そう。元々コナンが小さくなってしまったのが、変な薬を飲まされたせいで、そのきっかけとなったのが、怪しげな取引現場を目撃してしまったからで、その口封じに毒薬を飲まされて…)

必死になって思い出そうとして、不意に過ぎった名前。その毒薬を飲ませた男というのが、たしか、そう。


「――ジンと、ウォッカ?」


ぽつりと、口から零れた言葉にあからさまにコナンの体が強張った。
――意外と分かりやすい少年だ。その反応では、その名前に何かあると白状しているようなものではないか。

「渚さん、その名前、なんで…!」
「…なんでって、お酒の名前、だよね?」

そう答えれば、はっと息を飲んだコナンは表情を緩めながら「…そう、ただのお酒の名前、だよね」と息をついている。その様子をじっと見下ろしながら、気付かれないように渚も溜息を一つ。あまり原作に関する知識がないとは言え、彼の秘密の一端を知っていると気付かれるわけにもいくまい。

(ねえ、でも、ちょっと待って)

その酒の名を持つ男たちは、たしかある組織に所属していて、それは主人公であるコナンとはいわゆる敵対関係にあるのではなかったか。
バーボン。それに反応したあの声が、本当に安室のものだったとしたら。


(――まさか安室さんは、敵側なの?)


今度は渚が強張る番だった。
表情を硬くしてグッと服の裾を握り締める渚を見て、はたしてコナンはどう思ったのか。ただのお酒の名前だろうと誤魔化したが、この反応ではそれに含まれる意を知っているとバレバレではないか。分かりやすいのは、渚も同じこと。人のことばかり言えない。
けれどコナンが渚に示したのは、探るような訝しげな視線ではなく、真剣な眼差しだった。

「――渚さん。突然こんなこと言われても困るだろうとは思うんだけど」
「…コナン君?」
「安室さんに、あんまり気を許さないで」

不思議と、疑問は抱かなかった。むしろその言葉は、先ほど導き出した憶測をより強める手助けになったほど。
再びその場にしゃがみ込み、コナンと視線を合わせる。痛いほどに真剣にこちらを見据える瞳は、まっすぐで、綺麗に澄んでいる。

「それは前にコナン君が言ってた、私の死んだ幼馴染のことを安室さんに話さない方がいいって言ったことと…何か関係ある?」

答えはない。けれど僅かに強くなった瞳の光が返事のようなものだった。そっか、と零れた呟きは、何に対するものだったのか。
この世界は、漫画の世界だ。違う、元の世界とは異なるだけの現実の世界だ。でも彼は漫画の主人公で、絶対的に信頼できる正義の側。その彼が警戒し、敵対する安室。一体どちらを、何を信じればいいのか。思考回路がどんどんぐちゃぐちゃになっていく。

「分か、った」

頷いてしまった。でもその答えを本当に定めたつもりはなかった。今はただ、何も考えたくない。
また立ち上がって、行こうと彼を促す。さっと歩き出し、強張った表情をコナンから隠した。コナンは何も言わずに渚の後をついてくる。
その二人の背を先ほどの蒼の双眸がじっと探っていたことに、二人はついに気付くことはなかった。

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