「そういえば渚さん、恋人はいなかったんですね」
「…初めに付き合ってる人なんていないって言ったじゃないですか」
「それはあの時は、の話でしょう?」

肩を抱きながら渚の髪を指に絡めるようにして、甘い眼差しを向けながら問うてきた安室に、渚は仄かに頬を染めながらも若干居た堪れなさそうに肩を縮こませていた。
安室の言いたいことはつまり、これまでに恋人が、という意味なのだろう。いい歳して恋人の一人もいなかったのかと言われているようで居心地が悪い。けれど渚の表情からそれを察したのか、すぐ耳元でくすりと笑い声が聞こえた。

「もちろん、僕としては嬉しい限りですから」

何の問題もありませんよと続けられて、それからこめかみに一瞬の柔らかい感触。相変わらずさらっとこういうことをしてのける人だ。恋愛経験に乏しい身としては翻弄されてばかりである。
気恥ずかしさに顔を背ければ「こっち見てくださいよ」と引き戻される。それでもやはり真正面から彼の視線を受けるには耐えられず、顔を俯かせて逃れれば、また忍び笑うような声。
羞恥心の中にも、胸をくすぐるような幸福感は確かにある。緩みきった表情を隠すことは難しそうだった。

「…好きな人はいましたけど。でも彼にフラれてからは、そういえば特に好きになった人もいなかったなぁ…」

とはいえ告白して玉砕したのももう何年も昔の話なのだが。今となっては懐かしい思い出だ。思わず苦笑を零すと、一瞬安室が息を飲んだのが聞こえて顔を上げれば、彼は僅かに眉を寄せながらじっと渚を見つめていた。

「…渚さん、まさか記憶が…?」
「!」

言われてからしまった、と内心焦りを抱いていた。
通り魔に襲われた後この世界で目覚めて、今の住所や家族のことなどを警察に尋ねられたがその情報はこの世界には存在せず。おそらく頭を殴られたショックで記憶を失ってしまったのだろうと診断され、違うとは分かっていながらもそれに乗っかったほうが都合が良いと判断した。
おかげで警察の保護下、仮の戸籍を与えられ、なんとか普通に生活ができている。そうでなければ生きていくことすらできなかったかもしれない。
だから記憶喪失などと嘘を吐いているのは、仕方なかったのだと自分に言い聞かせて、それを信じてくれる周りの人に抱く罪悪感には蓋をした。
けれどまさか、よりによって安室の前で記憶喪失が嘘だと分かるようなことを言ってしまうなんて。視線を逸らし、咄嗟に思いついた言い訳を口にする。

「…全部が全部、忘れてるわけじゃないんです。ぼんやりと覚えてることもあって…今のも、その一つです」
「そう、ですか…」

眉を下げる安室は、今の嘘を信じてくれたんだろうか。聡い人だ、気付かれてないといいのだけれど。
だが恋人である安室にも、渚の出自を正直に話すのは憚られる。まさか違う世界の人間だなんて、そんな非現実的な話、どうして信じてくれるだろうか。
頭がおかしいんじゃないかと、そうやって安室に嫌われてしまうのは怖い。
おそるおそる、目線だけを安室に向ければ、彼は何やら考え込んでいるようだった。けれどそれも一瞬のこと。渚の視線に気付いた安室は、すぐに宥めるような優しい目を向けてくれる。

「焦ることはありません。…少しずつでいいから、記憶を取り戻していきましょう。僕もできる限りのことはしますから」
「…ありがとう、ございます」
「それにしても、その彼に失恋してからは誰も好きにならなかったなんて…まさかその人のことが忘れられなかった、とか?」
「い、いえ、そういうんじゃないです。ただ単純に、彼以上に好きになる人がいなかったというか…」

別にこっぴどくフラれて恋愛に対してトラウマを抱えたとかそういう話ではなく、その後は二次元に夢中すぎて恋愛に興味もなかっただけだ。我ながらそれもどうかと思うが…。
そこまで言って口を噤んだ。あまり今の恋人の前でベラベラと話す内容でもないんじゃないか。
けれど安室は嫌な顔を浮かべる様子はなく、むしろ余裕の笑みさえ浮かべている。

「へぇ。では僕はその人以上に魅力的だったというわけですか?」
「う…っ」

確かに、そういうことになるかもしれない。もごもごと言葉を濁せば、安室はますます笑みを深めるだけだ。
きっとこの人は恋愛経験豊富なんだろうなぁなんて思いながら、赤くなった頬を隠すように彼の肩口に顔を埋めた。

「それで、その彼というのはどんな人なんですか?」
「…そういうのって、普通聞きたがらないんじゃないですか?」
「そりゃあ、あなたの昔好きだった男の話なんて…とは思いますが、その人の手がかりがあればあなたの記憶を取り戻すきっかけにもなるでしょうし」

だから教えて欲しいんですよという安室の言葉になるほど、と頷いた。
ふと、渚の頭をあの無愛想な顔が過ぎった。そういえば彼には長いこと会っていないが、元気にしているだろうか。

「…一応幼馴染、になるんでしょうか。子どもの頃からの知り合いだし…」
「幼馴染…その彼の名前とかは、覚えていますか?」

当然、覚えているに決まってる。
だがその名を正直に告げることも躊躇われた。ここは名探偵コナンの、漫画の中の世界であり、この世界に彼は存在しないのだ。彼のことを調べてくれて、一致する人物がいないと知ったら安室はどう思うだろうか。その先を考えるのは怖い。
だから覚えていないという意を込めて、申し訳なさそうにふるふると首を横に振れば、「そうですか…」と少し気落ちしたような安室の声。けれど居た堪れなさそうにしている渚に気付いて、すぐに笑顔を取り繕ったようだけど。

(…嘘吐いてごめんなさい、安室さん)

こんなに真剣に自分に向き合ってくれている安室を騙すような真似をしていることには、ひどく罪悪感を覚えるのだけど。
いつか彼に全てを告白する勇気を出せる日は来るのだろうか。ふとそんなことを考えた。


   ***


かかってきた電話を仕事の電話と装って、渚の家を後にした。
今日は泊まっていく、と伝えた後だっただけに渚は少し気落ちしていたようだが、それを必死に隠して「お仕事頑張ってくださいね」と送り出してくれた。
当然仕事というのは嘘なのだが。残念だが本当に部屋に泊まっていくほど、彼女に気を許したつもりはない。
車に乗り込みながら、安室は先程の渚の話を思い出していた。

(幼馴染、か)

記憶喪失だという彼女が、その記憶だけ都合よく覚えているということはあるのだろうか。そしてその幼馴染の名前は覚えていない、なんて。
そうすぐに疑ってしまうのは、彼女のことを信用していないからか。だが安室に指摘されたとき、視線を泳がせていた行為がやはり引っかかる。どうしても素直に信じることはできそうになかった。

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