「――最近渚さん、綺麗になりましたよね」


きらきらと目を輝かせながら楽しそうに告げてくる蘭こそ、同性の自分から見ても綺麗で可愛らしいと思う。そんな彼女に綺麗と言われてお世辞だとしても嬉しくないはずがなく、つい表情は弛んでいた。
「そ、そうかな」と呟きながら、コーヒーカップに口をつける。垂れてきた横髪を耳にかければ、ほんのりと赤づいた肌が姿を現した。
そういやぁそうだなぁ、と蘭の言葉に小五郎の視線もこちらを向く。じっと見つめられるといたたまれず、思わず身を捩らせたが、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべる小五郎は気にした風はない。
ていうかおっちゃん、オヤジくさい。

「ははーん…さてはオトコでもできたか!」
「…っ!」
「…その反応、本当にできたのか」

少し驚いたような小五郎に、ますます目を輝かせる蘭。コナンは興味があるのかないのか、目線はこちらに向けながらジュースをストローで吸い上げている。

「そうなんですか!?どんな人ですか!?」
「え、と、それは」

身を乗り出す勢いで詰め寄ってくる蘭に狼狽しつつも、彼の名を出そうか一瞬戸惑った。
きっと意外そうな顔をされるのだろう。無理もない。彼のような人と付き合ってるなんて、他ならぬ自分が一番信じられないのだから。
けれど渚がその名を紡ぐより先に、その場に割って入った声が名乗りを上げた。


「僕ですよ」


その声に驚いて振り向けば、端正な顔がにこりと笑んでいる。

「安室さん!」
「こんばんは、毛利先生!今日は皆さんでポアロで食事ですか?良かったらサービスしますよ」
「おう、いつも悪いな安室君」

渚と毛利家のテーブルの間に入って、彼が今師事しているという小五郎に話しかけている安室は、エプロンをつけて注文をとっている。
そう、あの痛ましい事件の後、自分の未熟さを痛感したとかで安室は小五郎に弟子入りをしていたのだ。その縁でここポアロでバイトを始めた安室に会いに、渚も足しげく通うようになっていた。

「それよりさっきの…渚さんの相手が、って…」
「ええ、僕です。あの事件で知り合って彼女に告白しまして、今僕達付き合ってるんですよ」

そう言って安室の甘い視線がこちらを向くものだから、思わず顔を俯かせていた。けれど覗き見えるその顔は赤く、ただ照れているだけとはこの場の誰もがすぐに分かった。
蘭はますます楽しそうに声を上げ、小五郎とコナンは意外そうに目を丸くしている。何を言いたいかは分かる。随分失礼だが、渚自身それは感じていることなので文句も言えない。
ついでに店内のあちこちから視線を感じる気がする。ひとまず彼のファンに刺されないことを祈るしかない。
その後、毛利一家が店を出るまで蘭の質問攻めと小五郎の揶揄をひたすら受け続ける羽目になったのだった。


   ***


その後、バイトを終えた安室が家まで送ってくれるというので、それに甘えることにして二人彼の車に乗り込んだ。
それにしても、車には詳しくないのだが、これはなかなかの高級車なのではないだろうか。車が好きなのだとしても、こんな車に乗れるなんて、意外と探偵の稼ぎはいいのか…。
彼の家にはまだ行ったことがないが、もしこれでいい部屋にでも住んでいたらますますその可能性が高くなる。

「はい、着きましたよ」
「安室さん、いつもありがとうございます」

とりとめのない会話をしている内に、車は渚の住むマンションの前に着いていた。時間が経つのはあっという間である。
以前渚が通り魔に遭ったことがあると知られて以来、こうして時間を作っては家まで送ってくれる安室には、申し訳ないという気持ちと嬉しいという気持ちが混ざった感情を抱いている。少し名残惜しそうに手を握ってくるものだから、いよいよ渚の頬は朱に染まった。

「あ、の、…安室さん」
「はい?」
「その、もし良かったら…うちに寄って行きません、か。いつも送って貰ってばかりで悪いので…」

緊張を飲み込んで、ようやくその言葉を絞り出した。
ばくばくと煩く鳴り響く鼓動を隠すように、胸元で拳を握る。恐る恐る顔を上げれば、安室は少し困ったような表情を浮かべていた。

「そんな可愛らしくお願いされたら受けないわけにはいかない――と言いたいところですが、すみません、この後別の仕事がありまして…」
「あ…そう、なんですか。すみません、忙しいのにわざわざ送って貰っちゃって…」
「少しでもあなたと一緒にいたいという僕の我が儘ですから、気にしないでください」

にこりと笑みを浮かべる様子は、嘘とは思えない。なんとか渚も微笑み返して、それから車から降りようとした。
けれどそれは安室の手によって拒まれる。腕を強く引かれ、振り返れば一瞬の熱を唇に感じて、また頬に熱が灯った。

「…っ」
「おやすみなさい、渚さん」
「お、やすみなさい…」

去っていく安室の車を見送って、それから渚もマンションの中へと入っていった。唇に指を這わせながら、先程の安室の顔を思い出す。でも羞恥心の方が勝って、ほとんどまともに見られなかったわけだけど。
スマートというか手慣れてるというか。こちらは振り回されてばかりだ。未だ声高に主張を続ける心臓を落ち着かせるように深く息を吐き出して、ようやく自分の部屋に戻った。

ところが部屋に戻って電気をつけたら、途端に虚しい気分に襲われた。
鞄をそこらに放り、ベッドに倒れこむ。寝そべったまま部屋を見渡し、馴染んだ雑多感のなさに思わずため息を漏らした。

(――安室さん、部屋に寄ってくれないかと思って部屋片付けたけど)

どうやら徒労に終わってしまったらしい。またポスターとフィギュアを元の位置に戻そうかと思ったが、なんだか面倒になって今日はもうそのままにすることにした。
安室と付き合うようになってから、ファッションを変えてみたり化粧を変えてみたり、不相応にならないようにあれこれと努力している。
彼と不釣り合いなのは重々承知の上。それでも――先に告白してくれたのは安室の方とは言え――優しく頼りになる彼をすっかり好きになってしまったから、彼の隣に堂々と立ちたいのだ。
けれど、どうも最近空回りしている気がしてならない。

(…部屋に寄ってくれたのは、あの時の一度だけ)

いつも用があるという理由で断られてしまっている。
やはり彼の告白は一時の気の迷いで、もう恋情など失せているのではないか。そんなことを一瞬思いつつも、でも彼が自分に向けてくれる瞳は優しく、疑うには忍びない。
結局自分に自信がないだけだと、ブンブンと頭を振ってその考えを振り払った。

(きっと、本当に忙しいんだ)

ぼんやりと虚空を見つめていた視線が、本棚の方に移る。空いたスペースに倒れこんだ本を見て、無意識の内にポツリと愚痴を零していた。

「…漫画とアニメ、見たいなぁ」

もしかして無理してるのか、なんて過ってしまった思いには蓋をして、気付かない振りをした。


   ***


「――そうか。そんな人物のデータは出てこないか」

安室は車を路肩に止め、いつもとは違う口調で電話の相手に話しかけていた。
顎に手を当て、何やら考えこんでいるようなその顔はどことなく険しい。軽く息を吐いて「引き続き調査を頼む」と電話を切ると、ますますその眉間には深く皺が刻まれたようだ。

「…彼女の名前、年齢、外見の特徴に合致する失踪者の届けは出ていない、か」

――通り魔に襲われて、そのショックで記憶喪失になったらしいのだと小五郎や蘭に教えてもらった。
そのことを渚にも聞いてみれば、戸惑いながらも頷いていたが、あからさまに泳いでいた視線はそれを知られて気まずいからか、それとも真実でないからか。
どうにも彼女は分かりやすい。考えていることはすぐに顔に出る。だから記憶喪失の件に関しても、渚が後ろめたい思いを抱いてることなど明らかだった。
それに安室には、彼女の記憶喪失という話をおいそれと信用するわけにはいかない理由がある。

(彼女はあの時、確かに俺の名前を呟いていた)

降谷零、とその口から漏れた、その意味を。
自分には思い当たる節がない。だが何故か彼の真実の名を知るらしい渚を放っておけるはずもなく。
問題なのは、本当に記憶喪失である場合だ。何かのタイミングでうっかり記憶が戻ってしまったときに対処できないのはまずい。
一応その可能性も考慮して、彼女の条件に合致する行方不明者がいないか探している。彼女からは天涯孤独の人間といった雰囲気は感じられず、記憶喪失が本当ならきっと彼女を探している家族や友人がいるはずだが――

(そんな人物はいそうにない、か)

それがますます、渚の記憶喪失という経歴への疑惑を深くする。

(とりあえずはこのまま彼女に恋人として近づきつつ、探るしかない)

別れ際の渚のことを思い出して、思わずため息を零した。
公安警察という本来の立場上、他人の出した物に容易に口をつけるわけにはいかない。ただでさえ疑いを抱いている彼女が相手である。その思いは余計に強かった。
だから渚の家に寄らないかという誘いもずっと断っているが、少し焦らす程度ならまだしも、あまり断り続けて彼女の想いが離れては元も子もない。
最初はむしろこちらから誘いを持ちかけた。渚の家に上がり込み、彼女を抱いた。偽りの愛を囁きながら何度も何度も、もう無理だと言う言葉に耳を貸さず、気を失っている間に部屋を探索したが有益なものは何も見つからなかった。もうあれ以上あの部屋を探る意味はあるまい。

(これでもし彼女が完全にシロだとしたら、最低だな)

流石に罪悪感を覚えたが、もう後には引けない。
目的のためには手段を選ばない。組織を壊滅へ導くため、これまで命を賭してきた者達のため。ここで立ち止まるわけにはいかない。危険な芽は、予め全て摘んでおく必要がある。
彼女のこともその一環に過ぎない。罪悪感には蓋をして、安室は再び車を宵闇に走らせていた。

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