少しだけ蒸した食パンに、隠し味に味噌を入れたマヨネーズを塗り、その上に薄くオリーブオイルを塗ったハムと、ぬるま湯につけたレタスを挟んでいく。 最後にまた食パンで挟み、包丁で4等分に。皿に盛り付け、いそいそとテーブルに向かった渚は、「いただきます」と軽く手を合わせてからそれを頬張った。 外のパンはもちもちとした食感。人肌くらいに温めたレタスは冷たさを感じず、それでいてシャキッとした歯ごたえも失っていない。ハムのオリーブオイルと、マヨネーズに混ぜた味噌は意外と相性が良く、見事に口の中で調和している。 なるほど、おいしい。口の中に広がる味に渚は満足そうに頷いた。けれど。 ――何か、微妙に違う。 (…どうしても安室さんのサンドウィッチが食べたくて、ここまで来てしまったけど…) ポアロの前までやってきたはいいが、中に入るのを躊躇ったままもう数分が経過していた。 例の告白騒動以来、すっかり足が遠のいていたポアロだったが――どうせ外でもちょくちょく安室に遭遇するし、そうでなくても結局蘭や園子に連れて来られるし。無理に我慢することもないのではないかと、だんだん高をくくり始めた。 そう、思っているのに。ちらっと物陰から覗いたとき中に見えた彼の姿に、気付かれる前にさっと逃げ出し、また覗いては――をひたすらに繰り返している。 (だ、大丈夫!さっと入って、さっとサンドウィッチ食べて、さっと帰ればいいんだから…!) 以前、元の世界でアニメで見た安室特製のサンドウィッチ。こちらの世界に来たときに実際にそれを食べたときは、感動のあまりバンバンとテーブルを叩きたい衝動に駆られたものだ。 アニメで安室が説明したレシピ通りに再現して、なるほどその美味しさに舌鼓を打ったりもしたのだが、一度元祖を食べてしまうと、自分で作ったものがどうもしっくり来ない。隠し味の味噌の量とか、何か細かいところで違いがあるのだろう。 だが自分で無理に再現しなくても、まさに理想の味を食べられる場所がある。あるのだが――足を踏み入れるには、今の渚には少々荷が重い場所。 「…さっきから何やってるんです、渚さん?」 「ぎゃあ!!」 ぎゃあって。ぎゃあって。思わず口から飛び出した酷い悲鳴に自分でも頭を抱えたくなった。 勢いよく振り返れば案の定。口元を軽く押さえるようにしてクスリと笑い声を漏らした安室が、いつの間にか店外に渚を迎えるように出てきていた。 つまりさっきの色気のない悲鳴を安室に聞かれたということか。しかも笑われた。ちょっと樹海に行ってこよう。 「大丈夫ですよ、そんな渚さんも可愛らしいと思いますから。あと樹海に行くのはお勧めしませんね」 「えっ!?わ、私声に出してました!?」 「渚さんは考えてることがすぐに顔に出るので」 分かりやすいです、とにこりと微笑む安室の言葉に、うな垂れたように渚は肩を落とした。いい年して、そんなに分かりやすいんだ、私…。 「それより、どうぞ。ポアロにいらしたのではないですか?」 「…その通りです。その…久々にここのコーヒー、飲みたくなって」 「じゃあ席に案内しますね」 カラン、とドアのベルが鳴り、笑顔で中に促される。 ここまで来たらもう帰れないと、ならせめて当初の目的を達して帰ろうと諦めたように渚は店内へと足を踏み入れた。 ちょうど店内は客が多すぎず少なすぎず、ちょうどいい混み具合の心地よさだった。案内された席につき、「コーヒー、でしたよね?」という安室の問いかけに頷く。 「あと、あむ…っ」 「はい?」 「い、いえっ!なな、何でもないです!」 必死に手を振って誤魔化せば、不思議そうに首を傾げながらも安室はコーヒーを入れにカウンターの向こうへと行ってしまう。それを見送ってから、渚は口を押さえて重く溜息を零した。 (…思わず『あむサンド』と口走りそうになってしまった、なんて) 例のサイドウィッチのことをずっとそう呼んでいたから、うっかりその名称で呼びそうになってしまい、慌てて口を噤んだ。 当たり前だがメニューには普通にサンドウィッチと記載されている。あむサンドなんて言ったら何のことかと思われるに違いないし、そんな風に呼んでるなんて本人にバレたらもう樹海どころか今すぐにでもビルから飛び降りるしかない。 だが結局一番の目的であったサンドウィッチを頼み損ねてしまった。仕方ない。コーヒーが来たときにでも改めて注文すれば―― 「はい、どうぞ」 ことん、とテーブルに置かれたコーヒーカップ。それと別に、サンドウィッチの載せられた皿がその横に置かれる。 「…私、まだ頼んでない、ですけど…?」 「でも、食べたかったんでしょう?」 「え!?なんで分かったんですか!?」 「まあ、これでも一応探偵ですから」 悪戯っぽく笑う安室に、流石だと感嘆の息を漏らさずにはいられない。 「渚さん、席に座るまでの間に他のサンドウィッチ食べてるお客さんをちらちらと見てましたし、ね」 「…そ、そんな物欲しげな目してましたか…!?」 「言ったでしょう、渚さんは顔に出やすい、と。…あ、ビルから飛び降りるのもなしですよ」 「(バレてる)」 「それだけ渚さんが素直ってことですよ。…あと、それだけ僕がよく渚さんを見ているから、ですかね」 「…サ、サンドウィッチ、頂きます」 これぞいつもの彼の手口だ。乗せられてたまるかとその言葉をわざと無視するが、特に気にした風もなく笑顔でどうぞ召し上がれと言ってくるだけ。振り回されてるのは自分だけなのだろう。悔しいが、それを覆す手段も力も到底持ち合わせていない。 だがそんな荒んだ気持ちも、一口サンドウィッチを食べればすっかり吹き飛んでいた。自分では再現しきれなかった味。求めていた味。そう、これなのこれ! 「あー、やっぱり本家は違うなぁ…。何が違うんだろう…やっぱり隠し味の味噌の量が多すぎるのかな…」 「…よく味噌使ってるって分かりましたね」 まずい、またやってしまった。 すっかり安室はもう行ったものと思い、ぶつぶつと呟いていたらしっかり聴かれていたようだ。 けれど予想に反して、安室はいつものような探る目ではなく、単純に感心したように、目を丸くして渚を見ているだけだった。流石に疑うような内容ではなかったか。少し過敏になりすぎてるのかもしれない。 「渚さん、舌が敏感なんですね。料理も得意なんですか?」 「え、いや特にそういうわけでは…一応自炊はしてますけど、人並みレベルですし…」 「またまた、ご謙遜を!渚さんの手料理、興味あるので今度良かったら」 「い、嫌ですよ!安室さんみたいに料理上手な人に料理振舞うなんて!」 一人暮らしだし、節約のためにも自炊をしているが、渚は自炊を続けてる内に料理スキルを上げていくようなタイプではなく、どれだけ手軽に、時短で料理を作れるかということに情熱を傾けるタイプだった。 料理のスキルを上げる暇があったら漫画読む。女子力ってなにそれおいしいもの状態だ。 大体安室に料理を振舞う状況とはどういう状況だ。できるだけ関わりたくないと散々思っているのに。勘弁してください。 ようやく安室が仕事に戻ったのを見届けて、渚は二つ目のサンドウィッチにも手を伸ばした。 続けて三つ目、四つ目と、しっかり味わってはいたがあっという間に全て平らげてしまった。食後にコーヒーを飲みながら、ふと店内を見渡す。先ほどより少しお客さんが減ってきたようだ。 「そういえば、どうしてそのサンドウィッチの作り方なんて分析してたんですか?」 しばらくして空いたお皿を下げにきた安室が、ふと。不思議そうに首を傾げて尋ねてくる。 渚は返答に困ってとりあえず、コーヒーを一口含んだ。生憎、コーヒーは鎮静効果はあっても、うまい言い訳を思いつかせるだけの効果は与えてくれなかったようだ。 「…なんでそう思ったんですか?」 「『隠し味の味噌の量が多すぎるのかな』と言ってたので、そうなのかなと」 「…流石ですね…まあ実のところ、そうなんですけど」 「自分で再現しようと思うほど気に入ってもらえたのは嬉しいですけど、やっぱりこうして食べに来てもらうのが一番嬉しいんですけどね」 そりゃそうだろう。店の収益にもなるし。だが安室に出会う頻度をできる限り減らしたいという渚の思惑もあって。 「まあ…なんていうか。休日の朝とかにお洒落にサンドウィッチで朝食とか、ちょっと憧れるじゃないですか?やってみたくて…」 「休日の朝もお店開いてますよ?」 「いや休日の朝から朝食のためだけに外出とかハードル高くて私には無理です」 自宅でサンドウィッチ作るのだって、なけなしの女子力を総動員させてるというのに! 渚の言葉に少し苦笑した安室はけれどすぐに表情を変え、「ふむ…」と顎に手を当て何かを思案する様を見せた。 彼がこういう姿を見せるときは、大体次に自分にとって良くない発言が飛び出してくるのだと、いい加減渚も把握していた。無意識の内に警戒心が強くなる。 (いつものパターンだと、『じゃあ僕が作りに行きましょうか?』とか『恋人になれば、休日の朝に僕が作って二人で一緒に食べることもできますよ』とか言ってくるに違いない!その手には引っかからないんだから…!) いつも安室の甘い発言に翻弄されてばかりだが、こう来るとパターンを予測しておけばうろたえずに済むはずだ。 いくつか候補を用意し、それに備える。だけど安室が紡いだ言葉はそれのどれにも当てはまらず。 「でも、レシピは秘密ですからね」 「…え?」 例のパン屋にはあっさり教えたくせに。 いや、今はそれに関する不満はどうでもいい。珍しく彼があっさりと退いたので、なんだか拍子抜けしてしまった。 同時に自分が妙な妄想をしたようで、途端に恥ずかしくなってくる。赤く染まった頬を見られないように、僅かに顔を俯かせて誤魔化した。 コーヒーのお代わり要りますかという安室の声に咄嗟に頷けば、彼はポットを取りにカウンターの向こうへ戻った。ああ、顔が熱い。見られずに済んだだろうか。安室が戻ってくるまでにこの熱を消してしまわなくては。 しばらくしてポット片手に戻ってきた安室が、渚のコーヒーカップにお代わりを注ごうとして近づき、その耳元で一言。 「もしかして、期待しました?」 「っ!」 まるで内緒話でもするかのような声のトーン。小さな小さな呟きを、他の誰にも聞かせないために。その唇は、吐息を感じるほどに渚のすぐ耳元で。 「本当に、かわいい人ですね」 意地悪く細められた蒼の瞳が、それがいつもの彼の策略だと歌っているのに。 それだけ告げて渚の反応を見ることなく、安室はまたカウンターへと戻っていく。どうせ彼女の反応など彼にはお見通しで、渚が安室の掌の上で踊らされ、振り回されればひとまず彼はそれで満足なのだろう。 本心ではないと分かっているのに、うるさく鳴り響くこの鼓動は。コーヒーの鎮静効果くらいでは簡単に落ち着いてくれそうにない。 「…あの二人、あれで付き合ってないっていうんだから…」 「いい加減見てるこっちが苛々するから、早くくっついて欲しいわー…」 頬を赤く染める蘭と呆れ顔の園子がいつの間にか来店していたことに、いっぱいいっぱいだった渚が気付けるはずもなかった。 |