「おはようございます、渚さん」


目が覚めると隣に見知ったイケメンがいました。


……いやいやいや、ちょっと待ってほしい。それだけ聞くと誤解を生みかねない発言だ。
起きたと言っても別に朝とかではなく、昼間。むしろ陽が傾きかけてて夕方に近い時間帯。しかもここはベッドの中ではなく、更に言うなら家の中ですらなく子どもの声響く公園のベンチだ。
決して間違いが起きたとか、そういう類の話ではない。
だがそうだとしても、寝起きに見目の良い顔が飛び込んできたら誰だって驚くだろう。しかも相手は何か企みを持って、最近自分に近づいてくる人物。

「…へ…」
「まだぼんやりしてそうですね…大丈夫ですか?」
「……安室さ、ん?」

寝起きのはっきりしない声で、その人物の名を呟けば。

「偶然公園の前を通りかかったら、ベンチに座る渚さんを見かけたので声をかけようと思ったら、転寝してたみたいで。…折角なので、起きるまで隣にいさせてもらいました」

寝顔、じっくり眺めてしまいました。
まるで内緒話でもするように傍で、囁き声。その距離の近さと囁かれた内容に、驚愕と羞恥心で思わず離れようと反射的に立ち上がった。
しかし寝起きでまだうまく動かなかった体のせいで、立ち上がった拍子にバランスを崩しそうになる。

「う、わっ!」
「――っと、大丈夫ですか?」

渚を支えるようにして伸びてきた、安室の腕。
ばさり、と安室が手にしていた文庫本が地面に落ちたようだが、今の渚にそれに構う余裕はない。
すらっと細身ながらも、自分を抱きとめたままのその腕は意外としっかりと筋肉がついていて、それだけでも心臓が早まるのが抑えられないというのに、「まったく、目が離せませんね」と苦笑するその顔は近い。近い近い近い!
口をぱくぱくさせながら、あ、とかう、とか声にならない声をあげていたら、ようやく安室は渚を離してくれた。ああ本当に、心臓に悪い。
気持ちを抑えるためにもう一度ベンチに座り、何度か深呼吸をする。少しでも距離をとろうとやたらベンチの端に座ったのは無意識の動作。安室はまたも苦笑いしていたようだが、特に何を言うでもなく落とした文庫本を拾い、軽く土を払って同じようにまたベンチに腰掛けた。

「転寝もいいですけど、場所は選んでくださいね。若い女性がこんなところで、何かあったらどうするんですか」
「すみません…。昼過ぎに買い物のために出かけたんですけど、ここの所ちょっと寝不足だったもんで、日差しにやられて…」

ちょっと疲れたのでベンチで一休みしていたら、うっかりそのまま転寝してしまったようだ。
日差しこそ少し強いが、風は心地よく、日陰だと涼しかったためもあるだろう。
しかし安室の言う通り、たしかに無用心ではあったかと反省する。念のためポシェットの中を確認してみたが特に変わった様子はなく、ほっと息を吐いた。

「寝不足?仕事が忙しかったとか?」
「あ、いえ、全然そんなんじゃなくて…!」
「…もし心配事があるとかなら、人に話してみると少しすっきりすると思いますよ。もちろん僕で良ければ、いつでも話を聞きますので…」

ただの親切心か、それとも他に思惑があっての申し出か。いや、善意を疑うのは悪い。そう思いながらも渚は素直に頷くことはできず、「じゃあ、その時は…」なんて曖昧な返事をするだけに留まった。
しかし安室の気持ちは嬉しいのだが、まさか寝不足の理由が「連日夜遅くまでレンタルDVDを見続けていたから」だなんて言えるはずもない。
だんだん徹夜のできない体になってきた。眩しい西日に目を細めながら、内心で渚は乾いた笑いを漏らしていた。

「そ、そんなことより、なんかすみません。もしかして私のせいで安室さん、ここで時間潰す羽目になっちゃったんじゃ…?」
「ああ、いいんですよ。今日はオフですし。それにたまにはこうやって公園で本を読むのもいいですしね」

公園のベンチで足を組んで本を読むイケメン。なんだそれ絵になりすぎだろう。イケメンは何に置いても有利だな!

「それミステリー、ですか?やっぱり探偵って、そういうの好きなんですね…?」
「別に探偵が皆、ということはないでしょうが…僕は好きですよ。渚さんはミステリーの類は?」
「うーん、私ミステリーものはそんなに読まないですね…小説は大体ファンタジーものか歴史ものが多くて…」
「へえ、何かおすすめの本とかありますか?」

おすすめの本、と聞かれては黙っちゃいられないのがオタクの性というもの。よしきたと言わんばかりに渚は熱く語り出す。
「そうですねー最近のお気に入りは××シリーズってやつなんですけど!」と力んで答えれば、興味を持たれたのか「ホォー…良かったらあらすじとか教えてくれませんか?」と続けられて。
ストーリーの概要をうまくまとめながらも重大なネタバレを避けつつ、それでいて興味を持ってもらえるように仕向ける。これまでも嵌ってきた多くのジャンルにおいて通ってきた道だ。
思わず拳を作る勢いでしばらく語った後に、相手がいつものオタク友達じゃないことを思い出して慌てて言葉を止める。しまった、ついいつもの癖でやってしまった。

「す、すみません。一人でぺらぺら喋っちゃって…!」
「いえいえ、楽しそうな渚さんを見てると僕まで楽しくなったので。それにその小説も面白そうですし、今度本屋覗いてみますね」

だが実際安室に興味を持たれた時点で、またもしまったという感情が渚を襲った。今彼女が話題にした小説とは、元の世界のもの。この世界では存在しないものだ。探したところで見つかるわけがない。

「あっ、で、でも!ちょっとマイナーな本なので普通の本屋じゃ見つからないかも…!」
「そうなんですか?だったらネットで探したほうが早いですかね…」
「あ、だけど××シリーズって所謂ファンの間で呼ばれてる愛称みたいなやつで…!正式名称は…あー…えっと……な、長いタイトルで、ド忘れしちゃいました…」

自分でも酷い言い訳だと思う。いくらなんでも苦しすぎる。もうちょっとまともなものが思いつかなかったのか。思わず頭を抱えたくなった。
せめて「今ちょうど人に貸してるもので本が手元になくて!」と言い訳に付け足しをしておく。

「でしたら、正式なタイトル思い出したら今度教えてもらってもいいですか?」
「あ、はい…分かりました…(次会うまでに忘れてくれることを願おう!なるべく会わないようにしよう…)」
「ああ、メールとかでもいいですよ?…そういえば連絡先、知りませんでしたね」
「え?」
「良かったら連絡先、教えてくれませんか?」

これ幸いとばかりにスマホを差し出してくる安室に、渚は表情を固まらせる。
…まさか、最初からこれが目的だったのでは…。
だけどいつまでも黙ってるわけにもいかず、かと言って彼の申し出を断る理由も思いつかず。渋々渚もスマホを取り出し、連絡先を交換する。
わあい、安室さんの連絡先ゲットだぜー。
…そうでも思ってないとやってられない。

「ちゃんと登録できました?」
「大丈夫です…」
「一応、確認しても?」

間違ってないかどうか確認したいのだろうか。首を傾げながらも、連絡帳のページから登録した「安室透」のページを選び、彼に見せる。

「…大丈夫みたいですね。それにしても…」
「え?」
「…いえ、登録してる名前が意外と少ないんだなと思いまして」

それどういう意味だろう。友達少ないんだねって言いたいのか。凹むぞ。
渚が静かにダメージを受けていると、それを察したのか安室は「そういう意味じゃありませんよ」と苦笑している。では一体どういう意味だ。

「…すみません。考えてみたら無理もない話、でしたね。渚さん、記憶をなくしてると聞いたので…」
「っ!それ、誰から…」
「最初は毛利先生に聞いて…それから蘭さんやコナン君たちからも聞きました」

渚が通り魔に遭い、記憶喪失であること――あくまでそれは表向きの話で、事実とは異なるのだが――それを安室に話したことはない。また彼女がこの世界に来たのは、コナン達が安室に会うよりも前のことであったからそれを彼が直接知ってることもないはず。
そう考えると、安室がそのことを知っているのは誰かから聞いたか――渚のことを調べたか。そのどちらかだ。
小五郎たちに聞いたと本人は言っているが、それが全て本当というわけではなさそうだ。

「すみません。無神経、でしたね」
「あー…いえ、気にしないでください。…特に悲しいという感情もないですし」

自分で吐いた嘘が、ちくりと弱く。だがじわじわと胸を刺す。
漫画の世界に行ってみたいなんて――そんなのは有り得ないはずの空想だったから、楽しかっただけで。
実際に自分の身にそんなことが起きてみると、夢のような出来事は絶望しか生まず。
自分がいなくなった元の世界はどうなっているのだろう。私は行方知れずという扱いになっているのか。実家の両親に知らせは届いているのか。友達はどう思っているのか。泣いてくれているのか。泣かないでほしい。――複雑な感情が、入り乱れて苦しくても、吐き出す相手もいやしない。
私は「記憶喪失」だから、それを振舞わなくてはいけないから。
笑顔の裏に、本心を隠す。
じっと見つめてくる安室の瞳が苦手だった。何もかもを見透かすその蒼の前では、嘘で塗り固められた彼女の本心などあっさり暴かれてしまいそうだ。

だから目を逸らし、早々に立ち去ろうとスマホをポシェットに仕舞い、立ち上がる。
けれど歩き出すことは叶わなかった。原因を探ろうと振り返れば、彼女を引き止めていたのはその手首を掴む褐色の、安室の手。

「…渚さんって、嘘つくの下手ですよね」
「うっ」
「一応褒めてるんですよ。…まあ、こんな時にまで無理して嘘は吐かないで欲しい、ですけど」

その言い方だと、記憶喪失と偽っていることを指摘されたわけではないようだ。渚は僅かに肩の力を抜く。

「…別に薄情だと思ってくれていいですよ。全く悲しくないっていうのは嘘だけど、今を楽しんでるのも一応本当なわけですし」
「薄情というなら、むしろそれは僕の方でしょうね。もしあなたには他に恋人がいて、でもそれを忘れているとしたら、そのまま永遠に忘れてくれていれば都合がいいと願ってるわけですから」
「(まぁそんな存在いないことは他ならぬ私が重々分かってるんだけどね!)」
「…今渚さんが考えてたこと、当ててみましょうか?」
「え(まさかバレてる!?)」
「『多分そんな存在はいなかったと思う』って顔してますよ。…まあこれはただの僕の願望も含んでますが」

…一応記憶喪失を装っていることがバレたわけではないらしい。
まるではっきりと「どうせ恋人なんていないだろ」と断言されたようで、これはこれで複雑なのだが。

「ああ、それからもう一つ」
「えっ!?」
「『早くこの手離してくれないかな』…そんなところでしょうか?」
「…安室さんはエスパーか何かですか」
「いえいえ、ただの探偵ですよ」
「分かってるなら、早く離してくださいよ…」
「僕の言動で渚さんを困らせてるかと思うと、離すのが少し惜しくなってしまいまして」

あれ、おかしいな、安室さんってこんなSっぽいキャラだったかな。漫画に描かれていた彼は、たしかに自信家ではあるがもっと紳士的だったような気もする。
まさかこんな所で漫画のキャラの、キャラではなく実際に血の通った人間であるという面を認識することになろうとは夢にも思わず。

「まあでも、あまり渚さんを困らせて嫌われたりでもしたら元も子もありませんから」

そう言って少し名残惜しそうに――そんな態度もきっといつもの演技なのだろうけど――ようやく安室は手を離してくれた。
ほっと渚は息を吐き、さっと手を背に隠した。子どもや親子連れの多いこの公園で、彼に手を掴まれていた姿はまるで周りから視線を集めていたような気がして気が気でなかったのだ。

「じゃ、じゃあ、私もう帰りますから!」
「そうですか…。僕はもう少しここで本の続きを読んでいくので。気をつけて帰ってくださいね」

てっきりついてくとか家まで送るとか言い出すかと思ったが、あっさり引き下がった安室に内心拍子抜けしてしまう。
だがそうなると自分の考えがまるで自意識過剰だったようで、途端に恥ずかしくなる。いや別に期待してたとかじゃなくて、安室さんは私を探ろうとして近づこうとしてるだけって分かってるから!
これ以上は墓穴を掘りそうだと慌てて踵を返す。平常心。平常心。


「渚さん!」


声をかけられ、思わず立ち止まった。足を止めてしまったからには無視するわけにもいかないだろう。渋々顔だけで彼の方を振り返れば、横目に移ったのは相変わらずの笑顔。

「本のタイトル、分かったら教えてくださいね」
「……」
「メール、待ってます」

けれど素直にそれに了承を返すのはなんだか悔しいので、せめて細やかな抵抗として。
約束の返答は、保留にしたまま。

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