- ナノ -

嫌いな人


 学年一の人気者である野瀬くんの襲来から早一週間。あれから野瀬くんは度々こちらの教室に来ては鶴谷さんに声をかけていた――のだが。

「ねえー、ハルカちゃんはどう思う?」
「どうも思わない」

 まさに『取り付く島もない』という言葉がピッタリと当てはまるほどの冷たい対応しかされていなかった。
 学年一どころか、下手すれば学校で一番モテているかもしれない男子をここまで素気無くあしらうのは鶴谷さんだけではないだろうか。思わず冷や汗が流れそうなほど、彼女の素っ気ない対応は徹底されていた。

「いや、本当よくやるよな。アレ」
「そうだねぇ」
「俺ならあそこまで脈なしだったら心折れてるって」
「コウくんは意外と繊細だからねぇ」
「意外とってなんだよ! 俺ほど繊細なハートの持ち主はそうはいねえぞ?!」
「あははは〜」

 コウキとチュウさんが仲良くじゃれ合う中、俺はチラリと視線を隣の席に向けて鶴谷さんを観察する。
 彼女の前の席に陣取っている野瀬くんは相変わらずニコニコと笑いながら彼女を見ているが、鶴谷さんは英単語帳に視線を落としており、一向に見ていない。正しく『眼中にない』状態だ。
 実際話だってどの程度聞いているのかは分からないが、少なくとも相槌を打っている様子はない。適度に野瀬くんが「どう思う?」とか返事を要求するから答えているだけで、友達同士の会話というよりは事務的応対にしか見えなかった。

「野瀬くーん! そろそろ教室戻ろうよぉ〜」
「あ。もうそんな時間? じゃあ、ハルカちゃんまた来るねぇ〜」
「来なくていい」

 野瀬くんのクラスの女子だろう。二人、いや。正確に言えば三人か。教室の入り口から顔を覗かせている子たちがいる。彼女たちは一瞬面白くなさそうな顔で鶴谷さんを見たが、野瀬くんが席を立つと嬉しそうな笑みを浮かべた。

「分かりやすっ」
「よっぽど野瀬くんのことが好きなんだねぇ」

 野瀬くんが近寄っただけでキャアキャアと黄色い悲鳴の音量が上がる。その顔はパッと見ただけでも幸せそうで、本当に彼のことが好きなんだなぁ。というのが見て取れた。
 だけどその一方で、彼に延々と話しかけられていた鶴谷さんは心底不愉快そうに溜息を零しながら単語帳を閉じた。

「えっと……お疲れさま、です?」
「ええ、本当に」
「はは……」

 憶測ではなく、鶴谷さんは野瀬くんのことが苦手だ。というか完全に嫌っている。それは誰の目から見ても明らかなのに、野瀬くんは気付いていないのか、それとも『関係ない』と思っているのか。もしくは鶴谷さんに振り向いて欲しくて頑張っているのか。ハッキリとは分からないが、一つ言えることがあるとすれば彼は恐らく自分が『嫌われている』ことに気付いている。じゃないと面白そうな目で鶴谷さんのことを見つめたりしないだろう。

「最近、よく来ますね」
「ごめんなさいね。うるさくして」
「いえ、俺は大丈夫なんですが……」

 鶴谷さんは心底頭が痛そうに顔を顰めながら謝罪してくるが、隣に座っているだけの俺に直接的な被害はない。そりゃあ時折「高谷くんはどー思う?」なんて突然話を振られて驚くことはあるが、精々その程度だ。だから鶴谷さんほど心労というか、ストレスは感じていない。とはいえそれを直接的に表現するのは鶴谷さんに失礼な気がして言葉に迷えば、察してくれたらしい。すぐさま「気にしなくていいわ」と返される。

「確かに鬱陶しいけど、一々気にしていたらあの男の思う壺だから。気にしないようにしているの」
「思う壺、ですか?」
「ええ。君は知らないかもしれないけど、アイツ、性格悪いのよ」

 だから嫌い。
 と率直に続けた彼女の言葉に、つい傍に立っていたコウキとチュウさんの顔を見てしまう。二人共それぞれ驚いたような顔をしていたけど、温和なチュウさんはすぐに表情を戻して「そっかぁ」と柔らかく相槌を打った。

「野瀬くんも鶴谷さんが嫌がっているの分かってるんだから、わざわざ嫌われるようなことしなくてもいいのにねぇ」
「あの男なりの嫌がらせなんでしょ。相手にする価値もないわ」
「うわぁ。強ぇ」

 のんびりとした口調で、それでも野瀬くんの態度に思うところがあったのだろう。もう少し配慮してくれたらいいのに。と零すチュウさんに対し、鶴谷さんはバシッと決める。それを引き笑いするコウキと一緒に聞いていると、すぐさま次の授業を知らせるチャイムが鳴った。

「でも……本当に鶴谷さんのことを好きだったら、どうするんですか?」
「普通にお断りよ。こっちはアイツのこと好きじゃないんだから。当然でしょ?」
「そ、そうですか……」

 惚れた腫れたの話には縁遠い自分であっても、こうして面と向かって誰かを「振る」と言われるとちょっと心臓がビックリしてしまう。でも、野瀬くんが「好きじゃない」なら、鶴谷さんはどんな人を好きだと思うんだろう? 想像出来ないな。

「お前らー、早く教室に入れー」

 廊下に残っている生徒がまだいたのだろう。次の授業である英語を担当している先生の声がする。慌てて机の上に教科書を出せば、鶴谷さんも同様に教科書とノートを準備していた。
 そういえば、鶴谷さんって頭いいよな。先生に何か質問されてもすぐに答えてるし。いつもどのくらい勉強しているんだろうか。

「きりーつ、れーい……」

 思わず鶴谷さんの方を見たまま呆けてしまった。学級委員の号令に合わせて慌てて席を立ち、軽く会釈してから着席する。それからはいつも通り、特に好きでもない授業を聞きながら、時折窓ガラスに映る彼女の横顔を何となく眺めていた。


◇ ◇ ◇


「やっと終わった……」

 今日は放課後、各委員会の会議が入っている日だった。美化委員に所属している俺も例外なく招集され、通達されていた教室まで足を運んだ。とはいえ代り映えしない会議内容に、無為に過ぎていく時間。終わってみれば気疲れするだけだった。
 あとは各自に割り当てられた清掃ポスターをどうするかだ。絵心がない身としては非常に頭が痛い。そもそもポスターにどれほどの影響力があるというんだろう。掲示板に貼ろうが昇降口に貼ろうが、守る人は守るし守らない人は守らない。掃除道具だって嬉々として振り回す生徒だっていれば、丁寧に扱う生徒もいる。ゴミ拾いや、ポイ捨てを禁止するポスターもそうだ。どれほど効果があるのか分からない。
 それでもやらなければならないのだから委員会というのは面倒だ。

「はー……。なんかいい感じの図案、ネットで探してみるか……」

 絵心がないとはいえ、未提出は不味い。俺同様姉貴に絵心なんてないし、母さんもそうだ。唯一父さんだけはそれなりに絵が描けるが、こういうのは俺がしないと意味がないと言って手を貸してはくれないだろう。となるとあとはそれっぽい画像をネットで拾い、それを自分なりにアレンジして描くしかない。全く同じにすれば盗作になってしまうが、部分的に似せるのであればまだセーフだろう。……多分。……ダメかな。ダメ、かなぁ……。

「はあ……」

 下駄箱の、硬く冷たい扉に額を押し付け項垂れていると、控えめに「大丈夫?」と声をかけられ慌てて顔を上げて振り返る。

「つ、鶴谷さん?!」
「そうだけど……。なに? 大丈夫なの? 熱でもある?」
「あ、いえ。ないです……」

 下駄箱に額を押し当てていたから熱でもあるのかと勘違いさせてしまった。慌てて首を横に振れば、彼女は「そう」と訝るような眼差しを向けながらも一応は頷いてくれた。

「鶴谷さんも、今から帰るんですか?」
「そうよ。今日は生徒会長が休みだったから、細かいことは今度決めることになっていつもより早く解散出来たの」

 あ。そう言えば鶴谷さんは生徒会に入ってたんだっけ。
 二年に上がってすぐの頃、学級委員やら何やらを決める時に担任から打診を受けていたのだ。何でも成績上位者には声をかけるらしく、彼女以外にも声をかけられている人はいた。鶴谷さんも最初は断ったみたいだけど、結局生徒会に入ったから推薦か何かがあったのだろう。
 ローファーを履く鶴谷さんの姿を何となく目で追っていると、履き終えた彼女が不意にこちらを振り返った。

「帰らないの?」
「あ。か、帰りますっ」

 俺も慌てて靴を履き、意外にもそのまま帰ることなく待っていてくれたらしい鶴谷さんの隣に立つ。

「そ、そういえば、鶴谷さんは生徒会ではどの役員に就いているんですか?」
「会計よ。最初は書記で、って声をかけられたんだけど、結局会計が足りなくてそっちに回されたの」
「か、会計、ですか」

 会計と言ったら、予算を扱う役員のはずだ。高校生にお金の管理を任せるのはどうかと思わなくもないが、結局学校というのは社会を学ぶ場だ。先生のチェックもあるだろうし、そこまで大きなお金を扱うことはないのかもしれない。詳しくは知らないけれど。

「大変そうですね」
「そうね。でもこれも勉強だから。いつか役に立つと思えば苦にはならないわ」

 前を見据えたまま、ハッキリと答える鶴谷さんは正直に言って格好いいと思う。たまに堂々としすぎてて怖くもなるけれど、基本的に彼女は裏表がない、まっすぐな人なんだと分かってきた。
 だからこそ人の好き嫌いも分かりやすいんだろうけど……。

「高谷くんは? どうしてこんな時間まで残ってたの?」
「あ、俺は美化委員会で……会議があったので」
「ああ……。そういえば美化委員だったわね」

 美化委員の仕事は難しいものではない。が、面倒ではある。
 ポスターの作成、掃除用具の点検、清掃ボランティアへの参加などなど。校内清掃だけに関わらず、あらゆる清掃活動に関わることは基本的に強制参加だ。家庭の事情や体調不良で不参加になる分には仕方ないが、夏でも冬でも地域の活動があれば駆り出される。それが辛いと言えば辛いのだが、何も取り柄のない自分が将来受験や就職の面接で役立つことを言えるとは思えない。だから少しでもこうした活動に参加するよう、努力していた。
 まあ、ポスターなんて絵心がなくても『描いた』という事実が大事なんだから、どうとでもなるだろう。

「確か、そろそろポスターを貼り換える時期だったわよね?」
「はい。なので全員、最低一枚はポスターを描くよう言われました」
「そう。頑張ってね」
「はい」

 絵心がない俺だけど、別に綿密な絵を描けと言われたわけでもない。ようは『ゴミはゴミ箱へ』『掃除道具は大切に扱いましょう』というのが伝わればそれでいいのだ。……多分。

「高谷くんは、絵を描くのが得意なの?」
「いえ……むしろ苦手というか、絵心がないのでどうしようかと考えていたのが先程の光景です……」
「ああ……それで……」

 俺の情けない姿を思い出し、そして理由に納得したのだろう。軽く頷いた後、以外にも「分かるわ」と同意してきて思わず目を丸くしてしまう。

「え?」
「私も、絵が苦手だから。上手に描けないというか、絵を描くことに対して興味がないのよね。だから絵が描ける人や、絵を描くことが好きな人はすごいと思うわ」

 鶴谷さんにも苦手なものってあったんだな。なんか、いつも何てことないように色んなことをこなしているイメージがあったから、驚いてしまった。
 いつもなら澄ました横顔に委縮していたけれど、何だか今は親近感すら湧いて来る。というか、夕日に照らされているせいか、いつもより鶴谷さんの表情が柔らかく見える気がする。

「どんなポスターにするの?」
「え。あ、えっと、一応、ポイ捨て禁止にしようかな、と」
「そう。いいんじゃない? 生徒会でも地域の清掃ボランティアについての話が出たから、少しでもゴミが減るのはいいことだわ」

 俺が描いたポスターにそれほどの効果があるとは思えないが、そう言われるとなんとなく「頑張ろう」という気になってくる。それに彼女が口にした『地域の清掃ボランティア』には強制的に参加することになっている。だから少しだけやる気が湧いてきたというか、背中を押されたような気がして、ほんの少し心身に蓄積されていた疲労が軽くなった気がした。

「えっと……生徒会は、ボランティアに参加するんですか?」
「ええ。ほぼ強制的にね。ま、どうせ用事なんてないからいいんだけど」
「美化委員会もそうですよ」
「そう。じゃあ、当日も顔を合わせるかもしれないわね」

 ふ、と、鶴谷さんの口角が上がったのが見えて思わず視線を逸らす。な、何で今一瞬、唇に目が行ってしまったんだろう。いつもはまともに顔が見られないのに。
 そりゃあ鶴谷さんは綺麗な人だ。ちょっとキツイ顔立ちと言われたらそれも頷けるけど、美人は大体迫力があると勝手に思っている。だから今までこんな風に、変に意識することはなかったのに。
 何だか妙な気恥ずかしさを感じながらも黙々と歩いていると、学校から然程離れていない自宅が見えてきた。鶴谷さんも覚えていたらしい。「家が近いっていいわね」とまた少しだけ笑ったので、どうにか頷いた。

「それじゃあ、また明日……」
「ええ。また明日」

 この間とは違い、ほんの少しだけ心の距離が近くなったような気がする。
 まあ、最近は野瀬くんがいたから余計にそう感じてしまうだけかもしれない。俺は、多分、あそこまでは嫌われていないはずだから。

「……野瀬くんとはどういう関係なんだろう……」

 一方的に『お友だち』宣言してきた野瀬くんと、野瀬くんを『性格が悪い』と言い捨てた鶴谷さん。
 二人が一年の時に同じクラスだったことは人伝に聞いたというか、女子たちが話している声が聞こえてきたから知っている。その時に何かあったのだろうか。一年の時はクラスが離れていたうえ、他のクラスについては疎かったから二人がいたクラスのことも正直よく分かっていない。
 あの鶴谷さんが『性格が悪い』って言うぐらいだから何かあったとは思うんだけど……。
 こればかりは本人に聞かないと分からないよなぁ。なんて考えながら、まだ誰も帰っていない玄関の扉を開けた。



2022/07/09 19:36
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