- ナノ -

帰り道


 結局その日は時折鶴谷さんからの刺すような視線を感じながらも、どうにか無事に乗り切ることが出来た。しかしまだ週の初めの月曜日だというのに、幸先の悪いスタートだ。
 だけど命は惜しい。美人は怒ると怖いと言うけど、本当だった。だから余計なことは口にせずいつも通りの時間を過ごし、部活動に属していない俺は黙々と帰り支度を進めている最中だ。
 お互いに予定がなければチュウさんやコウキと遊ぶが、今日は二人共用事があると言うので一人で帰宅する。と言っても元々俺と二人は帰り道が逆だから帰る時はいつも一人なんだけどな。
 逆にチュウさんとコウキは家が近い。だから幼少の頃からの友人なんだと。高校で出会った俺とは違い、あの二人は本当に互いのことをよく理解している感じがする。俺にはそんな友達いないから少し羨ましい。
 なんて虚しいことを考えながら歩いていると、ふいに数メートル先を歩く女子の姿に足を止める。

 ……え? あれ、あのお団子頭……まさか、だよな……?

「え〜……? そんなことあるか……?」

 今まで何度もこの道を歩いてきた。だけど彼女を見かけたのは初めてな気がする。
 いや、単に俺が気付いていなかった可能性もあるし、帰宅時間が被らなかっただけかもしれない。それでも彼女に見つかるのは避けたくてどこかに隠れる場所がないかと視線を巡らせていると、突然彼女――鶴谷さんが振り返った。

「げ」
「は?」

 ――スニーキングミッション失敗。
 一瞬バカげたことを考えて現実逃避をするが、現実を生きる彼女は眉間にハッキリと皺を寄せながらこちらを睨んでくる。そしてそのまま立ち去――ることはなく。スタスタと足早に近付いてきた。

「ちょっと、君」
「は、はいっ」
「君の家、こっちなの?」
「そ、そうです」

 相変わらず睨むような視線に真正面から見据えられ、一秒も目も合わせられず何もない場所を視界に入れながらもどうにか頷き返す。
 咄嗟に握り締めた鞄の紐が手の平に食い込んで若干痛いが、そうでもしないと恐怖で手が震えそうだった。

「ふぅん? ま、いいけど。ところで、本当に誰にも話していないでしょうね」
「は、話してませんっ」
「休憩時間はともかく、男子トイレは私も近付けないから疑ってたんだけど……本当に本当ね?」
「トイレでそんな話しませんよ! というか、そもそも信じてもらえないだろうし……」

 二次元に一切の興味がなさそうな人なのだ。幾ら騒いだところで「よく似た人じゃねえの?」で終わるに決まっている。
 だから話したところで誰も信じるわけがない。と必死に伝えれば、鶴谷さんは不審そうにこちらを見上げながら腕組みをして軽く唸った。

「まあ……君の言い分も分からなくはないけど」

 狭くもなければ広くもない歩道の真ん中で、腕を組む女生徒と項垂れる男子生徒がいればチラチラと見てしまう気持ちはよく分かる。
 現に傍を通り過ぎていく顔も知らない生徒たちから一瞬視線を寄こされては素通りされていく。だけどその視線が居たたまれないというか何というか。注目されるのが苦手だからあまり見ないでほしい。
 ……まあ、鶴谷さん美人だから、つい目で追ってしまうんだろうけども。

「いいわ。信じてあげる。だけど油断しないでね。明日だろうが明後日だろうが来週だろうが、もしも私が“あの場所”にいた、って噂が流れてきたら承知しないんだから」
「だから言いませんって!」

 何でこんなにも頑なに信じてくれないんだ。半ば泣きたい気持ちになりながらも約束すれば、ようやく納得してくれたらしい。鶴谷さんは組んでいた腕を解くと、肩にかけていた鞄を改めて掛け直した。

「分からないでしょ。火のない所に煙は立たぬ、って言うじゃない」
「そもそも誰も信じませんって……。鶴谷さんがあの作品見てるだなんて、うちのクラスどころか学年全員に伝えたところで俺が笑われるだけですよ」

 タイトルでも『漫画』でも『アニメ』でもなく『作品』と呼べば原画展で会ったとは聞き耳を立てているかもしれない人にもバレずに済むだろう。むしろ美術館とかそっち系だと勘違いしてくれる可能性の方が高い。
 彼女も俺の配慮に気付いてくれたらしいく、トゲトゲとした雰囲気が一瞬驚きに塗り替えられた。

「だからと言って楽観視は出来ないわ。人は娯楽のためなら何でも噂にするから」

 鶴谷さんは有名人だ。良くも悪くも。
 実際、俺でさえ鶴谷さんのことは入学した時から知っていた。何せ新入生を校舎の中から眺めていた先輩たちの「綺麗な子がいる」と騒いでいた声が聞こえたからだ。
 事実、誰も口にしていないけど鶴谷さんは学年どころかこの学校で一番綺麗な人だと思う。ちょっとキツイ顔立ちではあるが、全体的にパーツ配分が整っており、人目を惹く容姿をしている。だから入学当初はそれはもう、男子たちは祭りのように騒いでいたのだが――

「いい噂よりも悪い噂の方が広まりやすいでしょ。他人のゴシップを騒ぎ立てて喜ぶ人たちに、自分を餌にしたいだなんて思わないわ」

 そのキリっとした顔立ちを裏切らない性格に、多くの男子、そして女子さえも返り討ちにされた。
 今もそうだ。淡々とした口調に感情が伴っているとは思えない、どこか冷酷さを滲ませる声音に委縮しそうになる。
 チラリと横目で見下ろせば、彼女の真っすぐとした視線は前だけを見つめている。それがこちらに向くことはなく、隣を歩いていても『一緒にいる』という感覚は抱けなかった。

「……まあ……そう、ですよね」
「でしょ? ところで、君の家ってどの辺りなの? 私は橋の向こう側なんだけど」
「俺は橋の手前です」
「そう。学校に近いのね」
「はい」

 彼女が言うように、俺の家は学校から近い。逆に彼女は学校から離れてはいるものの、ギリギリ徒歩通学の範囲内らしく、自転車通学が出来ないようだった。

「いいわね。私は毎日三十分以上歩かなきゃいけないから、羨ましいわ」
「それは……大変ですね」

 雨天を始めとした悪天候は勿論だが、体調不良になって早退しても家まで遠いんじゃ倒れてしまいそうだ。
 特に病弱には見えないけど、女の子って色々あるみたいだし。一応姉を持つ身として何も知らない訳ではないので気の毒に思う。
 そんな俺に鶴谷さんは珍しいものを見るかのような顔を見せたが、すぐに「しょうがないわよ。ルールなんだから」と取り付く島もなかった。
 いや。別に取りつきたかったわけではないんだが。

「あ。俺の家あそこなんで」

 その後は特に会話もなく、このまま隣を歩いていいのか?! なんて葛藤している間にも我が家が見えてきた。それに心底『救われた!』と思いながら自宅を指させば、彼女は「そう」と頷いてから立ち止まった。

「じゃあ、また明日ね」
「え。あ……はい。また、明日……」

 まさか鶴谷さんから『また明日』なんて言われるとは思わなかった。
 咄嗟に反応出来ず、何とも情けない、消え入りそうな声での返答になってしまったが、彼女は気にすることなく背を向けると颯爽と歩いて行った。勿論、振り返ることは一度もなかった。

「……また明日、かあ……」

 まあ、実際同じクラスだし、席も隣だし。彼女の言い分は間違っていない。だけど、何だか少しだけくすぐったい気持ちになるのはやっぱり俺が男だからだろうか。
 幾ら敵に回したくない相手とはいえ、女子は女子だ。異性に全く興味がないわけでもないので、それなりにドキドキしてしまう。

「ただいまー」

 一度深呼吸してから玄関を開ければ、廊下の先から姉が顔を出してきた。

「見たぞー、青少年。あんなに綺麗な子と一緒に帰ってくるとか! ついに彼女ができたわけ?」

 金髪に染め直したのだろう。ギンギラと輝く髪の隙間から見える目は心底楽しそうで、……いや。隠す気が最初からないのだろう。ニヤニヤとした笑みに好奇心が滲んでいて呆れてしまう。

「違う。あの人はただのクラスメート。偶然一緒になっただけで付き合ってなんかない」
「え〜? なんだよつまんねえなぁ。もっとグイグイ行けよ。アタシの弟なんだからさ」
「姉貴の知り合いじゃないんだから関係ないだろ」

 ウザ絡みしてくる姉貴の横を通り過ぎ、二階にある自室の扉を開けてしっかりと鍵を掛ける。
 それから鞄を椅子の上に置くと、制服も脱がずにベッドに横になった。

「あ〜……つっかれた……」

 今日は朝から気を揉みまくった一日だった。それに帰り道も一緒だったし、無言の時間は身の置き場に困った。
 もし誰かに見られていたら明日、さっきの姉貴みたいに問い詰めてくるのだろうか。
 隠しもしない好奇心を瞳に乗せて、彼女が厭う“噂”となって校内を巡るのだろうか。
 それは何だか嫌だなあ。と漠然と思いながら、下の階から自分を呼ぶ姉貴の声に嫌々ながらも返事をした。


2022/06/12 13:30
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