遠く・・遥か彼方まで続く陽炎と、煩いくらいの蝉の音。 任務から帰還したニカは自室の窓を全開にし、窓枠に腰を掛けた。 視線を下ろせば、常人なら命を落とすであろう距離が彼女を見上げている。 常人、なら。 ポケットの中に手を入れて、皺の寄った箱を取り出し、その中に入った煙草をくわえる。 しかし、唯一の訪れるはずだった幸せな時は簡単に阻止されてしまうのであった。 突然彼女の身体がぐらりと揺れたかと思えば、力無く宙へと舞って行く。 置き去りにされ、箱から飛び出した煙草が無造作に彼女の後を追った。 来るであろう、予想される身体が砕けるような衝撃にすら彼女の瞳は揺るがない。 恐怖は、映らず。 案の定、受け身すら取ら無い彼女は痛々しくも、地面へ叩き付けられた。 ビシャ、と血が飛び散る。その上に、少し遅れて数本の煙草が落下した。 「大丈夫、まだ何も、起こって、無い。」 そう、何も。 最後の瞬間(トキ)はまだ訪れていない、俺が見たのはあくまでもその過程だ。 でも少し、落下距離があり過ぎたようだ。 段々と意識が遠退いて―・・ まあ、問題は無い。 数時間経てば砕かれた骨も、破裂した臓器も全て綺麗に元通りになるだろう。 意識を手離そうとした瞬間に、近くから土を踏みしめるような音が聞こえ視線だけをそこに向ける。 ―・・霞んだ視界に映るは黒、黒、黒 それから・・ 一面に咲き誇る蓮の華 ---------- 「神田君が一人森の中で鍛練していたら、突然ニカが落下して来たんだね?」 「ああ。」 『神田』と呼ばれる青年はベッドに寝かされたニカにチラリと視線を向けた。 あれ程傷付いていた身体がみるみる内に治癒して行く。 部屋から落下したらしいだが、普通なら助からない高さだ。 俺と、同じか? 否・・違う。 あの時生き残ったのは俺だけだ、あの実験の被験体は、皆死んだ。 なら、何故・・。 コムイは黙りこくる神田の考えを見抜き重たい口をゆっくりと開いた。 「神田君とは、少し違うよ。」 「・・ならコイツは何だ?」 ニカは―・・ 今から約7年前。 教団は、伯爵との聖戦によりエクソシスト・・そして、探索部隊(ファインダー)の大半を失った。 嘗て経験した事の無い危機を乗り越える為にある計画が企てられる。 あの惨殺事件から丸々2年。 人々は再び、同じ過ちを犯そうとしていたのだった。 前提として確立されたのは、"より神に近い存在を造る"と言うこと。 本庁の人間を中心に、内密に計画されたその実験は沢山の屍を産み出しながらも、試行錯誤の末に一人の少女を造り出した。 選ばれた人間にしか適合しないイノセンスは少女を主だと認め、誰が備え付けた訳でもない生まれながらに宿す『予知能力』と『全てを見透かす』その力から『神』が降り立ったと崇めた。 直ぐに本庁は歩くことすら儘ならないその少女を黒の教団(ホーム)へと送り、数少なくなった探索部隊(ファインダー)と共に戦場へ向かわせた。 「それで、どうなったと思う?」 その話しを聞いた神田は身体の硬直を自ら解くと、何時もより一層深く眉間に皺を刻み込み、答えた。 「今コイツが存在しているってことはやり遂げたんだろ。」 「半分正解だね。」 そう、半分だけ。 次々と湧き出て来る、初めて遭遇した醜い姿のそれら(アクマ)を見て、幼い少女は言った。 『貴方達も、私と同じ。』 幼いながらに己の役割を理解していた彼女は並のエクソシストでは成し遂げられないような数のアクマを一瞬で殲滅させたのだった。 その時の彼女の表情は一瞬の迷いも無く、初めから光など映さないような、凍てついた瞳で粉々に解体されたアクマをただ見下ろしていたと言う。 生まれたその瞬間(トキ)から己の全てすらを見透かした彼女が笑った姿を見た者はいない。 "幼い少女"の影など初めから無かったのだ。 人の手により造られた『神』の心は死んでいた。 ×
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