65. フィナーレへと続く階段





「クソ……終わったか……」

苦戦を強いられたものの、ブチャラティはコロッセオの直前でセッコを仕留める事に成功していた。
何の因果関係かーー、チョコラータの最期と同じように、セッコの変わり果てた姿はゴミ収集車へと投げ入れられ、そのまま車は何事も無かったかのように発進していったのだ。
無関係な一般市民の少年を多少巻き込む形にはなってしまったものの、こうして無事、地中の男との闘いは幕を閉じた。

目の前にそびえたつコロッセオを前にブチャラティは歯を食いしばる。
脚は震え、もう自力で立っていられない状況であった。セッコとの闘いで身体を負傷しすぎたのだ。あばらを何本か折っている。他の細かな骨も砕けているだろう。
骨だけじゃない。耳も目もほとんど機能していなかった。

死、とは、こういうものなのだろうか。

(もう……もう、ここまでなのか?俺は……)

ブチャラティは、セッコとの闘いで薄々気づいていたのだ。いや、その前からずっと気づいてはいた。自分の身体が何か、別の物になっちまったんじゃあないかと。
そして、すっかり別の物になった自分の身体は、もう長くは持たないかもしれないと。
サルディニアの隠れ家であの晩、自分がヴィスカに何をしたのかをブチャラティは鮮明に覚えている。それはまるで、砂漠で1滴の水を求めて手を伸ばすようなーー、大海原で一艘の小舟に手を伸ばすような感覚に似ていた。
あの時自分は心の底からヴィスカを切望していた。ヴィスカそのもの、というよりは、彼女の中にある"何か"を。

時々視界の隅に映る"何か"が、"ヴィスカの瞳を通して見える世界"であると気づいた時、その不確かな感覚が確信に変わった。
決定的だったのは、アバッキオの死を前にした時だった。ヴィスカがアバッキオの手を取って涙した時、視界いっぱいに涙で歪んだ大きな穴が1つ見えたのだ。まさか、と思い、確かめるように彼女に声をかけた。
こちらを振り向いた時に何が見えるのか。それはーー唇を血で汚した、見るに堪えない面の男の顔が映るのだろう。その予想は見事に当たった。

自分と、ヴィスカを繋ぎとめる何かが、自分を生かしている。
いくつもの事象を重ね合わせ、ブチャラティはその結論に行きついた。
ヴィスカが、きっと自分に何か細工をしたのだ。全てが終わった男に対して夢を見させてくれるちょっとした時間をくれた。うたた寝程度の、優しく、ささやかな時間を。

(早くーー……)

早くジョルノたちと合流し、ヴィスカの安否を確認したい。
ブチャラティは意を決して一歩踏み出すが、脚を支えるだけの身体の力がもう残っていない事に気づいた。支えを失った身体はその場で崩れるようにして倒れてゆく。
何故だ。何故、身体が自由に動かない。ブチャラティの瞳には、額から垂れた汗が入る。殆ど見えなくなった目に塩辛く沁み入って、じりじりと涙が滲み出た。

"あの女はもう助からないかもしれない"

セッコの言葉が嫌と言うほどに絡みつく。どうか生きていて欲しい。
早くーー何よりも、誰よりも早く、彼女に、ヴィスカに会いたい。それはブチャラティにとって、自分の命より、何よりも代えがたい事だったのだが。

(早く‥…ヴィスカ……いや、コロッセオ…にーー………)

彼の脳は揺らぎ出す。本来の取るべき行動を思い出したのだ。
今ここで第一に優先すべきことは、仲間の、ヴィスカの安否じゃあない。

(ーー俺に…俺たちに今、必要なのは、"鍵"なのだーー)

コロッセオまで行き、謎の男と落ち合う。そして手がかりを得てボスを倒す。それが自分自身の夢であり、生きる使命でもあることを、彼は忘れるはずも無かった。
長年待ち望んでいたものが、いま目の前にある。麻薬の無い平和な世界。父を救う事ができたかもしれない世界。

その使命を前にして、ブチャラティの心はいよいよ大きく揺らぎ始めていた。

死が迫る大事なひとを優先するべきか。
自分たちの未来を優先するべきか。

ヴィスカに会う事を強く望めば、それができたかもしれない。けれどーー組織で過ごした長すぎる歳月が、それを許してはくれないのだ。
朦朧とする意識の中で、ブチャラティは自分自身を叱咤した。

(おい…ブローノ・ブチャラティ…、自分の"使命"を履き違えちがえるなよ。仲間に会いたいだと?"いつからそんなに、ご立派な人間になったんだ?")

この数年間で、一派をまとめ上げられる程の実力が付いたのは、ひとえに己のやるべき任務を忠実に、ひたすらに遂行してきたからではないか。
命令に背いたことはあったか?いや、無かった。己の夢のため、ギャング・スターへの道のため、障壁となるならたとえそれが家族でも、友情でも、愛でさえ犠牲にしてきたではないか。
なぜそれが、今の今になってぐらつき出している?組織からの着信一つあれば、迷わずそれを優先してきた。そして幾度となく相手を失望させてきたではないか。
アバッキオの死を惜しむ時間すら、前に進む時間へ変えたではないか。
そう、これまでと何も変わらない。自分の使命がそこにあるのなら、自分にとって大切なものであれなんであれ、全てを捨て、迷わずそこに向かうべきだ。
たとえ相手をーー、自分を、後悔させる事になっても。


ブチャラティの脚は、心は、もはや組織の命令で動いているわけじゃあない。だから何を選んでも良かった。ブチャラティの心は何にも縛られず、真に自由な"はず"なのだ。
でも、本人はそれに気づかないでいる。心に見えない枷が嵌っているのだ。目の前にある自由は、ひょいと手を伸ばせば簡単に届くのに、自分には手にする権限が無いと思い込んでいる。

それが組織に魂を誓った人間の逃れられない末路だという事に、気づかないでいる。


「クソ……会いてぇなァ……ヴィスカ…に……」

街灯にもたれかかり、ブチャラティはよろめきながら立ち上がった。
その様子を後方から大きな旅行鞄を持っている少年が不安げに見つめている。
ピンク色の髪を後ろで三つ編みにまとめあげ、胸に1つ傷のように大きく穴の開いたセーターを着ているその少年はーーたった今、ブチャラティがセッコの攻撃から助けた人物だった。

彼はブチャラティに歩み寄り、華奢な肩を丸めながら、戸惑いがちに声をかける。

「あの……僕も一緒に探しましょうか?その人を……」

彼の名前はドッピオ。
ディアボロの一番弟子と思い込んでいる少年だった。





「感じるわッ!近くにいるッ!」

ミスタとジョルノがコロッセオについてすぐの事。何かを感じ取ったらしいトリッシュが、亀の中から急に飛び出した。

「トリッシュ!まだ外に出るな!!亀の中に戻るんだ!」

辺りを見回しているトリッシュに対し、ジョルノは振り返り口調を強める。
トリッシュは迫りくる"何か"に対して恐怖で怯えているようでもあって。

「トリッシュ、ジョルノの言う通りよ!早く亀の中にーー!」

すかさずヴィスカも、彼女を引き戻そうと亀の中から身を乗り出して手を差し伸べるのだが。

「ーー‥‥どうしました…?」

手を伸ばす否やすっかり固まってしまった彼女に対し、ジョルノは眉を潜める。

「……この場所…知ってる」
「ーーえ?」
「ここだわ。ここでーー‥私、ここで‥…」

「ヴィスカッ、あなたも気配が分かるんでしょう!?なら分かるはずよッ!!サルディニアの時と同じ感覚!この近くに、あの男がーー…、ボスが、いるわ……!」

消えゆくヴィスカの声をき消すように、トリッシュの叫び声が強く響き渡る。一同に緊張感が走った。この近くにディアボロがいる。しかし、ヴィスカはにはそれどころではなかった。
心臓はバクバクと鳴りだして止まらない。手が震えた。この場所を知っている。この場所はーー…8年前、両親を失った場所だった。
頭の中が無数の雑音でかき乱されている。トリッシュの言う、"ディアボロの気配"に集中しないといけないのに。

「わ、分からないーー…、気配…誰の……」
「なんですって!?こんなにッ、もうこんなに近くにいるのよッ!?」
「そんなこと…言われても‥‥…私には分からなーー…‥」
「これは間違いなく、アバッキオが殺されたーーあの時の嫌な感覚と同じだわッ……」

トリッシュの声は金切声のように頭の中で反響し、ヴィスカはあまりの痛さに頭を抑えた。
こんな時に、まただ。また、あのクスリの影響が出ている。鳴りやまない不協和音と共に、地鳴りのような鈍痛が絶え間なく襲う中、二重にぼやけたトリッシュに手を伸ばす。

「トリッシューー……ま、待って……」
「アタシにはそれがどこから来るのかは分からないの。だから、ヴィスカも探って頂戴!ボスが、いったいどこにいるのかをッ!!」

トリッシュはあらぬ方向へ駆け出した。ミスタとジョルノが彼女を急いで追いかける。もはや言う事を聞かないトリッシュの護衛をする体勢に入ってしまっているようだ。
このまま、彼女にボスを探させる気なのかもしれない。駄目だ。このままじゃあ、トリッシュが1番危ない。

「……お願い……亀の中へ入って…危ない……」

彼女に懇願したその時、痛烈な頭痛と共に、ヴィスカの脳裏の片隅に、何かがよぎった。

「うッ」

少し遅れて全身に砕けるような痛みが走り、呻き声が漏れる。身体のバランスを失って倒れかけるも、ナランチャに肩を抱えられた。
ソファで横になっていたはずなのに、いつのまに手を差し伸べてくれたのだろう。ナランチャは目を見開いて見下ろしているようだ。
けれど、その細部を捉える事が出来ない。

トリッシュとまったく同じ形をした"誰か"が、瞳いっぱいに映し出されているのだ。

こちらを覗き込んで、怪しげな瞳を煌々と輝かせているその"何か"は、にこりともしない。
おぞましく、震えあがる心地がする。それはトリッシュでは無い。だってーー、彼女はここにいて、今、自分と喋ってーー…
そこまで考えて、ヴィスカはハッとした。

「ブチャラティ……あなた…なの?」

虚ろに出たその言葉に、今度は抱えていたナランチャが眉を潜める。

「おい、ヴィスカ…何言ってんだ?俺は…ブチャラティじゃあねーぞ…‥」

しかし、その言葉は耳には届いていないようだった。
どこにも焦点の合わないまま、ヴィスカはまた喋り出した。

「あなた今、トリッシュと一緒に…コロッセオにいるの……?でも…それはいったい……誰…!?」

続けたその言葉に、ナランチャは肩を震わせた。そして亀の上に向かって大声で叫ぶ。

「おい…おい‥、みんな、ヴィスカがッ!!ヴィスカが、おかしなことを言ってる!!まるでーー幻覚を見ちまってるみたいにッ!!」

しかし、ナランチャの声に返事をする者はいなかった。
外にいた3名もまた、"それどころ"では無かった。すっかりパニックになってしまったトリッシュの護衛で手一杯なのだ。

「ねえッ!!みんな!!聞いてくれよ!!なあッ!!ーーあぁッ、ヴィスカ、出ちゃあだめだッ!待って!!!」
「ブチャラティ、それはトリッシュじゃあーーない」

ナランチャが上の3人に気を取られた瞬間、ヴィスカは腕からすり抜け、亀の外へと手を伸ばした。

「その人間は……トリッシュでは無いわ!彼女と同じ魂の形をした"何か"よーー!」






ブチャラティは、手を貸そうと言ってやまない少年の肩を借り、コロッセオへと向かっていた。
最初は無視をしていたものの、あまりにも心配そうに声をかけてくるのと、もうボロボロになったこの身体で、自分1人で向かうのは難しいと判断したため、素直に彼の助けを借りる事にしたのだ。
ギャング同士のいざこざに巻き込まれた上、ギャングを手助けするなんてお人よしの旅人だーー…、少年に対するブチャラティの印象はそれくらいであり、むしろその華奢な肩に自分の体重を乗せるのは申し訳ないな、くらいにしか思っていなかった。
まさか、この気弱そうな少年がーーディアボロのもう1つの人格であるなんて、夢にも思わないまま。


「故郷の郊外に……トリッシュ」
「……」
「小さいが…家を持っているんだ…。全てが終わって、もし行くところがないのなら……そこに住むと良い……」

そして今やブチャラティは、少年に対して"トリッシュ"と呼びかける事に、"何の疑問"も持たずにいた。
彼はすっかりディアボロとドッピオの作戦の手中に嵌っていたのである。細工を施したのはディアボロだった。自分たち2人の身体がーーいや、魂の形が、トリッシュと似た部分を持つと彼は知っていたのだ。
もはや意識も覚束なく、魂の形しか捉える事のできないブチャラティは、少年をトリッシュだとすっかり思い込んだままーーそしてすり替わった事にすら疑問を持たないまま、一歩、また一歩と歩みを進めていた。

「近所には…学校もあるし…良いレストランもある……海辺も近いんだ‥‥‥」
「……」
「君には過酷な事がたくさん起こったが……新しい…人生を……」

ドッピオはそれを口を挟むことなく静かに聞いていたのだが、ふいに足を止めたブチャラティに気を取られる。
それまで、身体のどこかが悲鳴をあげようが、足が痛もうが、ブチャラティは決して歩みまでは止める事はしなかった。
今まで沈黙を貫いていたドッピオは、ブチャラティの顔を覗き込み、耳元で優しく囁く。

「……どうかした?」
「いや、トリッシュ……今、聞こえた気がしたんだーー…ヴィスカの声がーー……」

彼の口からは、先程も聞いた名が出て来る。
ヴィスカーー、それはドッピオの記憶には無かった。ブチャラティチームにはいない名前だ。ボスからも聞いていない。
けれど、1つ心当たりがあった。アバッキオを手にかけたあのエメラルド海岸で、トリッシュでは無い女が1人紛れていたのだ。
それが彼の言うヴィスカ、という人物なのだとすると、やはりブチャラティは、コロッセオで仲間と落ち合うつもりなのだろう。
幻聴まで聞こえ出す始末から考えるにーー彼にとっては何か"特別"な思い入れがある人物に違いない。ドッピオはそこまで結論づけていたのだが。

「焦っているのね。でももうすぐ着くわ、"ヴィスカ"の元に。ーー…さあ、次はどっちへ向かえば良いの?」
「……いや…‥俺が今…向かっているのは……彼女の元じゃあないんだ……トリッシュ、忘れちまったかのか…‥?俺達の"目的"を……」
「ーー!!」

ブチャラティの目的は、仲間の元では無い。ドッピオはそれまでの推論から大きくアテが外れた事に目を丸くした。
コロッセオに向かっている目的が別の人物かーーあるいは"何か"となると事態は大きく変わってくる。
今際(いまわ)の際、ボロボロになってまで会いたい人物が"仲間"でも"女"でも無いのだとしたら、その"目的"とやらはブチャラティにとって、友情だとか愛だとか、そういう物よりももっと重要で特別な意味を持つことになる。
そう、それは例えばーーー、ボスを倒す事ができる程の力を持つ"何か"といった可能性が。

ドッピオの額には一筋の汗が流れる。どうしてこんな肝心な時に、ボスからの電話が鳴らない?

「聞えないか……トリッシュ…君にも……ヴィスカの声が」
「そ、それよりも早くーー早く、その人物の元へ案内するんだ!!」
「トリッシューー…?」

ドッピオの口からは、思わず強い口調が漏れる。
ブチャラティはトリッシュらしからぬその物言いに眉を潜めるものの。

"ブチャラティ、それ…トリッシュじゃあ…‥ない"

その言葉に、ブチャラティは殆ど見えなくなってしまった目をいっぱいに見開いた。感覚的に捉えるのではなく、目の前の真実を理解するようにして。
すると、今までトリッシュだと思っていた女の形が、幻のように揺らぎ始めたのだ。

「なッーー何が起きて……」

"その人間はトリッシュでは無いわ!彼女と同じ魂の形をした"何か"よーー!"

今度こそ、ブチャラティの頭には、一字一句紛うこと無く、鮮明にヴィスカの声が届いていた。
魂の形。ブチャラティはそれを見た。確かによく見ると、それはトリッシュでは無い。ブチャラティはすぐさま彼女をーーいや、少年を突き飛ばした。
思い出したのだ。自分は今、トリッシュではなく、"コロッセオの通りで助けた少年と一緒に歩いていたはず"である、と言う事を。

「お前ーー…ッ!!一体俺に何をしたのだ!?」

その叫び声を聞きつけたのか、今度は階段の上から鋭い声が響いた。

「止まれッ!!そこで止まるんだッ!!お前たち、何をしているッ!?」

知らない男の声に、ブチャラティは反射的に上を仰ぎ見る。階段上の柱の陰に、双眼鏡のようなものがキラリと光った。ハッとした。落ち合うはずの男かもしれない。
しかし、それに気づくのが少しばかり遅かったようだ。
突き飛ばされた少年は既に消え、いつの間にかーー別の何者かが、階段の上を一段ずつ上がり始めているのだ。

「なッ…‥この一瞬で……まさかーー…!!」

ブチャラティの位置からは、少年ーーいや、その姿はもはや成人男性のそれだったーーの顔が、かろうじて見えるか、見えないかの瀬戸際で。
動かない身体に鞭打って、彼は震える足を少しでも遠くへ伸ばそうと躍起になった。
トリッシュや先程の少年と同じくーー目を見張るほどに鮮やかな、長いピンク色の髪に隠れたその横顔を見ようと。


「過去は…バラバラにしてやっても…石の下からミミズのように這い出てくる……」


物陰からキラリと光った双眼鏡が、いつの間にかバラバラに壊れて地面の上に散乱している。
それは、男の正体を物語るには十分すぎた。

やっとここまで辿り着いたのに。
謎の男がボスによって殺されたのを見届けた直後、張り詰めていた糸が切れたように、ブチャラティは意識を失った。
耳の奥には、ヴィスカが自分を呼ぶ声がかすかに届いていた。



65 フィナーレへと続く階段 end


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