07
それからしばらく経ったある日。
菊田が有古を引き連れろくを店から連れ出したのは日が落ちた頃だった。座敷を抜け出す際には信頼のおける部下に協力してもらいろくには男物の洋服を着せて目立たぬ場所からこっそりと抜け出した。そして用意していた馬に乗りろくが過ごしたコタンまで馬を走らせる。
「あのアイヌの村はこっちか」
「はい、もう着く頃です」
コタンの場所は有古が覚えているから有古の馬を先頭にしてその後ろに菊田の馬が続く。ろくは菊田の背にしがみつき目的地に着くのをジッと待っていた。
「見えました」
そうしていると遠くの方で明かりが見えてきた。目指すコタンに到着したようだ。
「着いたぞろく」
「うん…」
どうどうと馬を止めて菊田が先に馬を降りる。そして手を伸ばしろくを抱えるようにして馬から降ろした。ろくはコタンをジッと見たあと、次に菊田の目を真っ直ぐに見る。
「ちゃんと戻るからね」
「分かってるよ」
菊田を困らせる事はしないから、とろくが言えば菊田はろくの頭をポンと撫でた。
「ほら、行ってこい」
「うん…」
そして背中を押してやればろくはゆっくりとコタンの方に向かっていく。
ろくは、キラウシに会いたいと願ったはいいが果たして彼は自分の事を覚えてくれているだろうかと不安だった。キラウシだけじゃないコタンの人々はどうだろうか。最後に会ったのは何年も前だしもし誰も覚えておらず男の格好をした怪しい女が来た、と思われてしまったら…。
そんな事を思い歩いて来れば目の前に広がるのは懐かしいコタン…あの時過ごしたままの景色が広がっていた。久しぶりに訪れたコタンはみんな集まりワイワイと楽しそうに賑やかでろくがキョロキョロと辺りを見渡していれば。
「ろく?」
名を呼ばれた。
ろくはハッとし顔を上げればそこには数人の見知らぬ青年達が立っている。いや知らないのではない、ろくは彼らの事を知っている。それはろくがこのコタンで過ごしていた時一緒に遊んでいた同じ年の子供達だ。みな見違える程の立派なアイヌの青年になっていてかつての少女たちも美しい娘になっていた。
「みんな!」
「ろく!!」
かつての少年少女達はろくを覚えていた。お互い成長したというのに昔遊んだ友達の顔は忘れておらずどんな格好をしていようとも一目でろくだと気づいてくれてろくの元に集まってくれた。
「戻って来たんだな!久しぶりじゃないか!」
「えっ、言葉を覚えたの?」
「ああ、父さんに和人の言葉を習ってるんだ!」
中には和人の言葉を話せるようになっている者もいて、そうじゃない子達もろくろくとろくの手を取り数年ぶりの再会を喜んだ。すると子供達の様子を見て大人達も集まってきて、ろくを知る者達がろくが帰ってきたぞ!と歓迎してくれた。
コタンの人々はろくの事を覚えていた。数週間過ごしただけなのにあの時良くしてくれた人々はろくを忘れておらずこうして数年ぶりにやってきたろくを見て喜んでくれている。
「ろく?」
みながろくを取り囲んでいるとフと聞こえる懐かしい声。
「キラウシニシパ…!」
その声の主は、ろくが会いたくてたまらなかったキラウシだ。
「キラウシニシパ…!」
「ろく!久しぶりだなぁ元気だったか?!」
ダッと駆け出しキラウシに抱きつくと、キラウシはろくを抱き止めてくれて二人で笑いあった。ああキラウシだ、大好きなキラウシ、会いたくてたまらなかったキラウシだ、とろくはキラウシの背に手を回しギュウと抱き締める。コタンの人々はそれを微笑ましそうに見つめニコリとしていた。
それからろくはコタンで楽しい一時を過ごした。
今日こんなにも賑やかなのは狩りでヒグマを獲ったからカムイホプニレが行われていたらしい。ろくも踊ろうとかつての友人達に誘われろくも一緒になって歌って踊った。子供の頃にやった遊びなんかもみんなで久しぶりにやって、ろくは数年ぶりに心から笑った気がした。辺りが暗くなる頃にはチセでの宴会が始まり鍋や酒を囲んで大人達はワイワイと上機嫌だ。
「ろく」
「キラウシニシパ!」
しばらくし経った頃。子供達が離れた隙を見てキラウシがろくの元へとやって来て隣に腰かけた。
「ろくも食べているか?」
「うん、たくさんもらっちゃった。もうお腹一杯だよ」
「はは、そうかそうか」
友人達に勧められアイヌのご馳走を堪能したろくは満腹だ。ポンポンとお腹を擦って笑えばキラウシはニコリと笑った。そんなキラウシをろくは横目でチラリと見るとおずおずと話し出す。
「あの、キラウシニシパ」
「ん?」
「突然来てごめんね」
「何故謝るんだ」
そう言うキラウシの表情はとても優しい。
「おかえりろく」
ろくは胸の奥でずっとキラウシを想っていたがキラウシだってろくの事を忘れた事などなかった。そしてあの時、帰る場所はここだと言ってくれた事を覚えていた。おかえりと言われろくは嬉しくてただいまと小さく言って笑った。
久しぶりに会ったキラウシはあの頃と変わっておらずろくは隣にいるだけで胸が高鳴った。ああなにから話そう、話したい事は山程あるのにまとまらない、どうしようとろくが視線を手元に落としてそう考えていたが。
「しばらく見ない間にろくは綺麗になったな」
キラウシが先にそう言ってくれてろくはバッと顔をあげる。
「本当?」
「ああ本当さ」
店を抜け出す為に男の格好をしているからその事で何か言われたりしないかとか思ったりもしたが服装よりもキラウシはろくの成長を見てくれてろくはニコニコと顔が緩むのが止まらない。
「雰囲気も随分と大人びた気がするぞ」
「…じゃあ、今ならあの時に言ったなりたいものになれるかな?」
「ん?」
賑やかな声で良く聞こえなかったのかパッとキラウシがろくの方を向いた。
「ううん、なんでもないっ」
ブンブンと慌てて首を振ったろくの顔は真っ赤だった。だがなんと言ったのかハッキリと聞こえずろくに聞き返したキラウシの耳も真っ赤であった。
そして宴会が始まり数時間が経っただろうか、チセの中が少しばかり静かになった頃。
「ろくは元気でやっていたのか?」
思出話に花を咲かせたあとろくの話になった。
「…うん、食べ物も、着る物も、寝る場所も、困らないところで暮らしてるよ」
「それなら良かった」
キラウシはろくの事がずっと心配だった。陸軍の人間に連れられて友達が待っている所に行くと行っていたがろくは元気に過ごしているだろうかと気にかけていた。
「ろくは無事だろうかとずっと不安でな」
「私の事考えてくれてたんだね」
「当たり前じゃないか」
ろくの事を案じていたキラウシは町に出ると自然とろくと同じ年頃の娘に目がいった。似た背格好の娘を見てはろくを思い出してどうか元気でやっていますようにと願うのだった。
「ろくはこの後どうするんだ?」
「この後?」
「ああ夜も遅いし泊まって行くだろう?」
「…ううん、もう戻らなきゃ」
「そうなのか…」
ろくの返事にキラウシは残念そうに目を細めた。ろくは帰って来たのだからしばらくはまたこのコタンで過ごしてくれると少し期待していたのかもしれない。だがろくは戻らねばならない。帰りたくはないが、自分が居るべき場所に戻らねばならない。
「でもまた遊びに来ればいい!みんなろくを歓迎するからな」
帰りたくないというろくの思いが伝わったのだろうか、シュンとなったろくの頭をキラウシが撫でるが。
「またはないの、キラウシニシパ」
「え?」
ボソッと呟いたろくは一瞬だがとても悲しそうな顔をしていた。また遊びに来ればいいと言ってくれたキラウシにもう二度と会えないかもしれないと言おうとしたろくだったがキラウシに心配をかけたくなくてその事を伝えることは出来なかった。
「…そろそろ行くね」
「ろく…」
ろくは立ち上がり歩き出す。キラウシは送ろうと言ってろくに続いた。
「ここまででいいよ」
「しかし」
「大丈夫だから」
チセの入り口まで来たときろくは立ち止まる。せめてコタンの外まで一緒に行こうと思ったキラウシだったがこれ以上一緒にいると別れるのが辛くなるからろくはここまででいいとキラウシを止めた。
「今日は本当にありがとう。みんなに会えて、キラウシニシパに会えてとっても楽しかったわ…」
「ああ、俺もだ」
ろくと会えてとても楽しかった。
キラウシが言えばろくはキラウシに抱きついた。キラウシも優しくろくを抱き締めてくれる。
「私、キラウシニシパのお嫁さんになりたかったなぁ…」
「ろく、」
「…さようなら」
そして最後にろくがそう言えば、キラウシからパッと離れてコタンの外へと駆け出した。
「ろく!」
ろくは振り返らず進み続ける。しかしキラウシはいつまでもろくに声をかけ手を振った。
「また来いよ、いつだって待っているからな!ろくが帰ってくるの待ってるぞ!」
あの時と同じようにろくが帰る場所はここだと伝えたくてろくの姿が見えなくなるまでいつまでも手を降り続けた。ろくは最後まで一度も振り返る事はなくて、思い出のコタンを再び後にした。
「…ろくが戻って来ました」
コタンから少し離れた場所でろくが戻るのを大人しくまっていた菊田と有古。コタンの方から歩いてくるろくを有古が見つけ菊田も顔を上げる。
「…気は済んだのか?」
ろくが二人の前までやって来て菊田がそう言えばろくはうんと言って菊田を見た。
「楽しかったか?」
「うん、みんな私の事覚えてくれていたの」
嬉しかった、と言って菊田の前でろくは笑った。かつての友人達と過ごせたのはたったの数時間だけだったと言うのにろくは満足そうにしている。
「お前の一生に一度のお願いがこんな事で良かったのかよ」
「うん、最後にキラウシニシパと話せたから」
あの時助けてくれて実の両親よりも優しくしてくれたキラウシはろくにとって長年密かに想い慕っている人であった。そう、初恋の相手だったのだ。だからろくは店から抜け出したのを見つかったら大変な事になってしまうと危険を承知で会いたかった、身が清いままどうしても最後に会いたかったのだ。その願いは叶った。菊田が叶えてくれたのだ。
「ありがとう菊田…」
それは菊田への感謝の涙か、それともキラウシの前では泣くまいと我慢していた涙か。
ろくは涙を一筋流すと深々と菊田に頭を下げた。そんなろくを見て菊田は「クソガキめ」と呟いた。有古はそんな二人を黙って見ていた。
それから数週間経った日、遂にろくは初見世を迎えたのだった。
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