09
どうして、夜留子は鬼になりたくないと言うのだろうか。
ただ一言「はい」と言えば良いだけなのに夜留子は頑なに頭を縦に振らない。鬼にはなりたくないと言い張って日に日に体力は落ちていき弱っていく。
嗚呼なんて顔なんだ…。
これじゃあ出会った時のほうがまだマシだ。頬はげっそりと痩せこけて顔色もとても悪い。手は骨のようにガリガリだし、ほら、近頃は起き上がることもままならないじゃあないか。
もう、以前の夜留子には戻れないのかい?
愛らしいあの笑顔はもう見れないのかい?
夜留子は少し前までぼんやりと縁に座り庭の木々も見ては季節の移り変わりを感じていたようだがここ最近は布団の中で過ごすばかりだ。
これも全て、鬼になれば解決する問題なのに。
なのに、夜留子は…。
俺はこんなにも夜留子の事で憂いているのに、夜留子は人の気も知らずにニコリと笑う。いや笑顔にすらなっていない…力無く微笑む夜留子はもはやただ口角を上げているだけだ。
そんな風になってまで、どうして人間で居る事に拘るんだい?苦しみから解放されたいと思わないのかい、俺といつまでも一緒に居たいと思わないのかい?ねぇ、夜留子。俺は夜留子が憎らしいよ、俺は夜留子の考えが理解出来ないよ…。
「夜留子」
そして童磨は今日もまた夜留子の元に通い続ける。
「…童磨様…」
ニコリと力なく笑う夜留子が痛々しくて、童磨は困ったように笑った。
「今日も…来てくださったのですね」
「当たり前さ。俺は夜留子が好きだからね」
童磨は夜留子のすぐ側に腰を下ろすと夜留子の頭を優しく撫でる。それはいつもの光景だったが、童磨は今日こそは夜留子を鬼にすると決意を決めていた。
「ねぇ、夜留子」
「はい…童磨様…」
今晩が、夜留子にとっての峠かもしれません。
そう言ったのは幹部の男だった。悲しそうにそう言った彼は医者ではないからはっきりとした事は分からない…だが夜留子の様子を見て勘ではあるがなんとなくそう感じ童磨に話してくれたのだろう。彼は童磨が夜留子の事を特別に想っていると言う事を知っているから悔いの無いようにと、そう思ったのかもしれない。
「鬼になるだろう?」
「なりません…」
今晩が峠でも鬼にさえなればそんな事も関係ない。なのに夜留子は、こんな状況になってもはいと言わない…。
「どうして?」
「どうしてもです」
「そんなんじゃあ、俺が納得出来ないんだよ」
嗚呼もう本当に苛々する。どうせ死ぬのなら、鬼になれば良い事じゃないか。なのに何故死に向かおうとしているんだ。
「ねぇ、お願いだからなるって言ってよ」
「童磨様…そんな悲しそうな顔しないで」
誰のせいだと思っている。童磨はいつもニコニコと穏やかに微笑んでいる教祖様なのに、そんな童磨を辛そうな表情に歪ませて。これも全て夜留子のせいなのだ。
「ねぇ、童磨様…。そんなに辛そうな顔をされるのなら…無理矢理にでも私を鬼にすればいいのに」
夜留子の言う通り、そんなにも夜留子に頼み込むなら、そんなにも夜留子を鬼にしたいのなら、夜留子の了承を得ずとも鬼にしてしまえば良い。だけどそれは童磨は出来なかった。夜留子の病が発覚し現状に至るまで鬼に出来る機会はいつだってあった…だがそれは出来なかった。
「…そんな事したら夜留子に嫌われちゃうだろう?」
この期に及んでも童磨の中に夜留子には嫌われたくないという思いがあった。鬼にしたら悲しむだろうなとか、鬼になるのが嫌がるだろうなとか、夜留子を想う気持ちがあった。
「俺は夜留子の事が好きだからね」
だから自分の意思だけでは夜留子を鬼にする事は出来なかったのだ。
「…私が死ぬのは辛いですか」
「当たり前だろう?」
夜留子はいつまでも童磨はただ気まぐれに自分を可愛がっているだけだと思っていた。
「大丈夫です…童磨様は鬼なのですから、これからもずっと生き続けます。永い命を持つ鬼にとって、一人の人間との出会いなんて、一瞬の事でしょう?私が死んでも、また、興味の沸く人間に出会えますよ」
「どうしてそんな事を言うんだい?」
だが童磨は夜留子の事を想っていた。何故人間の女に惹かれたかは分からない、だがただただ夜留子は愛おしいと想ったし守りたいと想った。救うだけなら喰ってしまえば良い…だが夜留子をいつまでも喰わなかったのは夜留子を守りたいと想っていたからだ。
「そんな悲しい事…言わないでおくれよ」
ポロポロと涙を流し始めた童磨を見て夜留子は少し驚いたようだった。力を振り絞りヨロヨロと上半身を起すとやせ細った手で童磨の手に触れる。
「夜留子に、俺の想いは通じなかったのかい?」
「童磨様…」
「夜留子は死ぬのが怖くないの?俺は夜留子が愛しくてたまらないし守ってあげたい…だけどこのままでは、夜留子の事を救えずに死なせてしまう…」
「何を仰います…童磨様はとっくに私の事を救ってくださいました」
フワリと、夜留子が童磨を抱き締めた。もうすぐ死ぬと言うのに夜留子はやはり人間だ…夜留子の体温は心地良くて童磨は懐かしさが込み上げてきた。
「私…童磨様が鬼だと知り、お姉さんが食べられてからは、次はいつ自分の番が来るのだろうと恐ろしくてならなかったのです。でも、童磨様は、いつだって私に優しくしてくださいましたね」
ごく普通のか弱い人間である夜留子は童磨の正体を知って動揺しないような強い人間ではない。童磨が鬼だと分かってからは童磨の想いとは裏腹に、彼の言う事を大人しく聞こうと、喰われないようにしようと生きて行くので必死だった。
「思い返せば、疑っていたのが馬鹿らしくなる程童磨様は私に良くしてくれた…今まで生きていて、あんな風に扱ってもらった事は初めてだったから、本当に嬉しかったんです。たとえ童磨様が鬼だとしても、私、童磨様の事…」
「夜留子…」
だからその時は分からなかった。童磨の言葉なんて上辺だけだと思っていたが、しかしそれでも童磨は夜留子にとても優しかった。可愛いと愛で無理はしないでと気遣い、夜留子の事をいつも大好きだと言って、最期になってもこうして毎日会いに来てくれる。
「幸せでしたよ、童磨様に出会えて」
夜留子だって死ぬのは怖い。そしてその命はもうじき尽きようとしている。それならばせめて優しい童磨の腕の中で死にたい。
「…俺も、夜留子に出会えて良かった。夜留子の事片時も忘れないからね」
「忘れていいんです…ただ、時々、思い出してくだされば、私はそれだけで嬉しいのです」
「ううん、忘れないよ。夜留子は俺の、大好きな人だから」
ギュウと、童磨は夜留子を強く抱き締める。夜留子も応えるように童磨の背中に回す腕に力を入れた。
「救ってくれて…ありがとう」
ゴホッと夜留子が咳き込んで童磨は泣くのを止めた。辞めていつものようにニコニコと笑った。涙で潤ったせいか童磨の虹色の瞳はいつもに増してキラキラと輝きその瞳をジッと見つめ夜留子も、ニコリと、以前のように愛らしく微笑んだ。
「童磨様、大好きですよ」
最期にそう言って目を閉じた夜留子を童磨はいつまでもいつまでも抱き締め続けた。幹部の人間がやって来ても、まだ二人で居たいんだと言っていつまでもいつまでも冷たくなっていく夜留子の身体を童磨はずっと抱き締め続けた。
夜留子大好きだよ、大好きだよ夜留子と、呟きながら。
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