タイトルのない物語―エルフ族のイディア― 下
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 イディアはライディルの後ろをいやそうに歩いていた。
 ライディルはイディアの体調が良くなって少し経った後「族長に文句をぶつけにいく!!」といって聞かなかったのだ。仕方なく、イディアはもう戻りたくない集落への道をとぼとぼと歩いていた。
 ライディルはその事を知っていたが、わざと気づかないふりをして先を進んでいた。
(どうしてそんな事をするの……?)
 したところでどうにもなりはしないのに。イディアは小さくため息をつく。ふとライディルは立ち止まり、イディアに向かって呆れたような視線を当てた。
「あのなぁ、ため息ついたって始まんないだろ? それに、イディアが悪いわけじゃねーんだぞ」
 イディアはうっと黙り込む。元から黙っていたのだが、息が多少詰まる思いだった。
(見抜かれてた……?)
 考えている事がバレバレらしい。ライディルはどこかむっとしているようにも見えた。
「言っとくけど、俺もいじめにあってたんだからな」
「嘘っ」
 小さいものの、それははっきりと出ていた。ライディルは本格的に露骨にむっとした。
「俺、一応イディアの前では嘘ついてねーぞ」
「……ごめんなさい」
 また呆れ顔。ライディルの顔は表情変化で忙しい。
「謝る事でもねーだろ。ひょっとして……何か注意されたりする度に謝ってたりしてないよな?」
 またもや押し黙るイディア。ライディルはとことん呆れが入ってしまう事を従順に顔に出していた。
  
 2人がエルフの集落に到着したのは真夜中だった。元々洞窟の位置が集落より離れていたこともある。
 が、モンスターには遭遇する、ライディルが戦うはいいがイディアは魔法が苦手な為に足手まとい状態が続く、そんなイディアにモンスターたちが飛びついていってはライディルが必死にまく……。
 微妙に忙しさが雑じっての到着だった(モンスターに襲われすぎな気もした)。
「……さすがに、こんな時間に族長ん家(ち)まで押しかけるのはヤバいよな……?」
 イディアは頷いた。ライディルは欠伸をしつつ泊まれそうな所がないかどうか尋ねようとして思いとどまる。イディアの表情が前回見たときよりも格段に暗いのだ。なんというか、ライディルはとことん気まずくなる。まさかここまで暗くなるとは思っていなかったらしい。
「……とりあえずお前を家に送った方が良いよな? 家族とか心配してるだろ?」
 イディアは首を振った。話を振った本人は激しく意外そうな顔をしている。
「両親……いないから……」
「あ……」
 更に気まずくなる。それでもイディアは自分の家へと向かい、一旦振り返ってライディルについてくるよう合図した。
 ライディルは気まずそうに頭をかき、イディアの姿が見えなくなりそうになると慌てて後を追った。
  
 イディアの住む家は他のエルフたちの住む家と違い、とても修理の跡が目立っていた。窓は何度も何かが擦ったり当たったりした跡があり、外壁にも何かをぶつけたりした跡がある。それはどうやら十数年前から今に至るまで、ある意味で伝統に近いのではと思うぐらいたくさんあった。
 ライディルは他の家々を見回してみた。魔術によって多少焦げたような跡が見られることもあるが、イディアの家ほど酷くはないし、あらかた古傷程度で済んでいる。酷かったとしても家の外に出されている水瓶が割れている程度で、それを必死に隠そうとした跡があり、掘り出されて怒られたのか魔術が使われた跡がありなど、そんなヒトでも同じような末路を辿るものばかりだ。ライディルは思わず眉をしかめた。
「いくらなんでも……魔術の練習場に近いわけでもなさそうなのにな」
「これはいつものことだから……初級魔術で済んでいるだけ、まだマシなのよ」
 諦めきった口調のイディアにライディルは呆れる。どうしてそうマイナス方向にしか考えないんだよ。
「正直言って、非常識だけどな」
 イディアは意外そうな顔をしてライディルを見る。彼は髪を乱すように頭をかきながら続けた。
「だってそうだろ? 普通魔術を使うったって、人ん家に向けてやるか? やるなら空とか地面とか、そういうところに向けて、だろ。いたずらにしちゃ悪質だぜ。せめて足引っ掛けるとか水かけるとか、そういう方がまだかわい気あると思うけどな」
 どこがかわいげがあるのだろうか。というよりイディアはライディルの言った事も体験している。それがエスカレートして今の状態に至ったわけなのだが。
 その事を言おうとして、イディアは口を開いて、閉じた。
 言ったところで意味が無いのだ。
 言っても、またライディルは困った顔をするのだろう。
 ライディルを困らせたくない。
「? なんだよ?」
「……何でもないわ」
 そう言いつつ、玄関の鍵を開けて中に入るイディア。ライディルは一瞬暗い表情を見せるも、それはイディアの立ち位置からでは見ることが出来なかった。
 中は整然とした普通の家だった。とても調合薬や魔術が苦手なエルフとは思えないぐらい整理され、そしてキレイな部屋だ。調合薬の材料らしい粉末を入れた壷と、真鍮の秤(はかり)が2つほど並べられ、その横には調合用の手順が書かれた紙があった。その筆跡は間違いなくイディアのもので、でもどこか幼さが滲み出るものだった。
 部屋の棚には調合薬用の材料の粉末が小さな瓶に入れられており、水に至っては井戸水からどこかの聖水と思われるものまで揃っている。人が使うような風邪薬もあるかと思えば果物を乾燥させた後に粉末にしたものもあるし、かと思えば動物の骨の粉末らしき、ライディルから言わせれば何に使うか分からない品まであった。
(エルフ族の家って、こんな感じなんだな……)
 正直、中に入った事はないので微妙に嬉しさを覚えるライディル。イディアは秤と、調合役の材料を入れた壷を棚に戻すとお茶を淹れるために湯を沸かし始める。が、彼女は魔術で火を起こさず、人と同じようにマッチで行っていた。
「練習とかしたりしないのか?」
 ライディルは軽くアドバイスのつもりで聞いてみる。イディアの返答は首を振る「ノー」だった。
「以前やった事はあるけれど、それで料理とかが失敗したの。こんな真夜中でやると尚更危ないから……」
 ライディルは一応納得するも、ふと思い当たる事があった。
「なぁ、もしかして……イディアって、料理とかそういうのは日が高いうちに済ませるタイプか?」
 回答者の答えは「イエス」だった。ライディルは腕組みをして考え始める。
「……今のうちに魔術の練習してみるっつー手もありか……」
「えっ……?」
 イディアは思わず聞き返した。なにせキッチンとリビングは隣接している上に、扉を開け放したままだったのだ。ライディルはへへっ、と笑ってみせる。今まで見た事がないような、多少嬉しそうな笑いだった。
「単なる思いつき。言うのもあれだけど、イディアは前からいじめの対象だったんだろ。て事は、日が高いうちにいろいろやってて、それがいじめっ子たちにも知れ渡ってたんなら、魔術とか調合薬とか、そういうの使ってなんかされる事もあるかもしれないってわけだ。なら、そいつらが寝てる今に調合薬とか作ってみたら、成功するんじゃねーかな」
 イディアは驚いて目を丸くする。今までそんな事を考えたことがなかった。
 ライディルは更に続けた。
「その応用でいったら、多分魔術とかも使えると思うぞ。魔術はイメージが大事だって、俺の知り合いのハーフエルフが言ってたしな。そのハーフエルフ、詠唱の時に何か邪魔が入ると失敗しやすいとかぶつくさ文句言ってたし……あ、邪魔しちまったの俺と友達だけどな」
 それで一発どころか数発ファイアボールをお見舞いされたっけ。懐かしそうに笑いながら話すライディルを見、イディアはなぜか、心の何かが洗われていくようだった。
「だからさ、やってみれば良いんじゃねーかな? どうせ失敗する≠ニか思わずに、絶対出来る≠チて思ったら案外出来るもんだぜ?」
「……ライディルも……そうする事で出来たの?」
 ん? 俺? ライディルは恥ずかしそうに笑いながら「……出来なかったな」と答える。
「剣術とかは師匠や親父に教えてもらうとき、絶対出来る≠ナ通用したけど、魔術はやっぱりエルフの血を引いてない限り無理だったからな。俺、ヒトでも魔術が使えるって思って、必死で勉強した事あったんだ。だから正直、エルフやエルフの血を引く連中が羨ましいな。
 なんで俺ヒトとして生まれてきたんだろうって、使えないって現実見たときとかよく落ちこんでた。でも、親父が死んだ時はそうはいかなかったかな」
 そう言って、ライディルはイディアに対して笑ってみせる。だが、先ほどのような嬉しそうな笑いではなく、どこか淋しげだった。
「親父、剣術に長けててさ。いろいろと基礎とか教えてもらったんだ。だから将来は剣士になるって、親父と約束した。でもその約束した次の日に、親父倒れたんだ。旅に出てた時期にやられた古傷がまた痛みだしたんだと。
 それが悪化して、結局何もしてやれないまま親父は死んじまった。俺が7歳の頃だったはずだから、もう12年経つんだよな……」
 イディアは黙って聞いていた。ライディルはそんなに苦労しているような人に見えなかった。言うと失礼なのだろうが、そう思いたくなるぐらい、とても楽しそうに笑う事が多い。
 辛い事を知っているからなのだろうか。
 私もあんな風に笑えたら……。そう思いたくなるような、明るい笑顔を見せてくれる。確かに辛そうな笑いをする事もある。困ったような笑いをする事もある。でも、それはやはりライディルだからこその笑いだと、イディアは分かった。
「……同じなのかしら……」
 私の両親も。
 生きてくれていたら、今話してもらったライディルのお父さんのように、いろいろと教えてくれていたのだろうか。優しさを……教えてくれていたのだろうか……。
「かもな」
 ライディルはふと、そう呟く。そして笑って見せた。また、あの明るい笑顔。イディアはそれを見るだけで落ち着く自分がいる事を、どこか頭の隅で感じていた。なんだか、救われる思いだ。
「……練習、してみる」
 出来るかどうかは分からないけど。でも、ライディルが考えてくれた可能性を試さずにはいられなかった。ライディルは頷いてくれた。
「俺も付き合う。こういっちゃ何だけど、剣士の端くれだし、誰かの気配が近付いてきたりした時に分かるしな」
 彼のそんな冗談交えた返答は、イディアを心の底から落ち着かせてくれた。が
 ジュワッ……シュワァァァァ……
「へっ?」
 ライディルは目を丸くする。今の音がなんなのか分からなかったらしい。
 が、イディアはすぐに思い当たった。目が丸くなる。
「お湯!」
「は!?」
 ようやく分かったライディルは慌てたようにキッチンに来る。イディアはやかんの取っ手を掴み、そして反射的に放した。手の平がヒリヒリする……キッチンミトン(手袋)をつけるのを忘れていたのだ。
「なにやってんだよ」
 苦笑しつつライディルは外し掛けていたグローブをはめ直し、湯がぐらつくやかんの取っ手を掴んで持ち上げると下に敷くコースターをテーブルに乗せ、やかんをその上に置いた。その後イディアの手をぐいと引っ張って手の平の様子を見る。イディアは驚いて身を固めた。
 あまりにも近いところにライディルがいる。乱れた黒髪が、夜が運んできた湿気によって多少濡れた感じになっている事が分かる。キレイな黒い瞳が自分の手の平を見ているのを、視線で感じる。
「これぐらいなら……冷やせば大丈夫みたいだな」
 そう言って視線を上げると、硬直しているイディアと目があった。ライディルはぽかんとする。
「どうしたんだよ?」
「な、なんでもない……」
 反射的にそう答え、解放された自分の手にこもった余分な力を抜いていくうち、多少やりきれない気持ちがある事に気がついた。思い当たる節はない気もするのだが、一方で思い当たる気もしてしまう。なんとなく、先ほどのままでいたかった自分がいた。
(どうしたのかしら、私……)
 思い当たる節など全くないが、それでも心臓はトクトクと、いつもとは違う心地良い音を響かせていた。
  
「――んじゃ、まずは調合薬だな」
 どうやらライディルは調合薬に多少の知識があるらしい。最初は大して難しくないだろうと思われる風邪薬から始まった。
 そしていざ作り始めると、イディアはライディルの調合薬の知識に舌を巻くことになる。自分が知らないようなアドバイスやポイント等を教えるばかりか、参考書をほとんど見らずに必要な材料等を探して正解を持ってくるのだ。しばらくして彼は
「――案外結構覚えてるな……2年前に知り合いのハーフエルフから教わった内容なんだけどな」
 と言いつつ苦笑する始末。イディアはその記憶力が羨ましく思えた。
 そして薬は完成した。いわゆる風邪薬なのだが、それは参考書と同じ色、同じ濃さをしており、参考書通りとまでは行かないかもしれないが完成していた。イディアは嬉しさのあまり一息つく。
「な? やれば出来るだろ」
「ライディルが手伝ってくれたから……」
 多分、独りだとできなかったことのはずだ。彼女が間違って覚えていた内容等を訂正してくれたのは彼なのだから。
「そうか? 俺はただ材料とって口出しして終わりだったけど?」
 多少おどけつつ笑う彼に、イディアは微笑んだ。それを見たライディルは目を丸くする。
「どうしたの?」
 イディアはぽかんとした。少ししてライディルはまた、笑いだした。
「なんだよ。自分で笑った事、本人はあんまり気づかないって本当だったんだな」
「えっ!?」
 今度はイディアが目を丸くする番だった。ライディルの笑い声が大きくなる。といっても、近所迷惑や安眠妨害には程遠いが。
(笑った……? 私が?)
 ここ数年、笑った事がない自分が、初めて笑顔になれた瞬間だった。
  
「――ファイアボール!」
 朝露の濡れる草地を踏みしめ、空に向かって火炎弾が飛ばされる。ライディルはそれを見て10歳の子供のようにおおはしゃぎする。
「すげぇ! やっぱ魔術扱えるじゃねーか!!」
 イディアは嬉しそうに頬を染め、小さく笑う。なんだか、こうやってはしゃぐライディルは、あの夜とは別人に思えてならない。
「凄いっていっても、ライディルは魔術を見た方に凄いって言ったんじゃないの?」
「まさか。魔術なんて村にいた頃に、知り合いのハーフエルフからしこたま喰らってるって」
 途端に2人分の笑い声。ようやく羽を伸ばそうと木の枝から飛び立つ準備をしていた小鳥は驚いて、まともな準備が出来る前に飛び立ってしまう。翼が痛んだりしないだろうかという不安はもう後回しだ。
「じゃあ、次はどうするんだ?」
「そうね……ウインドカッター、風の刃っていう術を試してみる」
 イディアは少し考えて頷く。その顔には少しずつだが、自信がついてきている事を示していた。
「絶対出来る≠チて、分かったもの。今から頑張れば、みんな私の事認めてくれると思うから」
 そのいきでがんばれよ。ライディルはそう言って少しさがった。
 今度は、あたたかな何かに包まれた風が、空で大きく弧を描いた。
  
「聞いたか?」
「ああ……あの落ちこぼれが魔術と魔法で満点とったってさ……」
「驚いた先生が次のテストをすぐにやらせてみたけど、それも満点だったって」
「ありえないだろ? いなくなってた数日間いったい何してたっていうんだ?」
 集落の広場ではそんな話ばかりだ。酒場の方ではイディアと同年代か、それより上のエルフたちが飲み交わしつつ、子供と同じ話で持ちきりだった。
  
「やったな!」
「うん!」
 イディアはライディルに向かって笑顔で答える。随分と力強く、明るく返事が出来るようになった自分が信じられないぐらいだ。
 数日間……たったその短い時間の中で、自分の心の氷を溶かしてくれたライディルには感謝してもしきれない思いもある。
「ありがと、ライディル」
「別に例を言われるような事はしてないけどな」
 多少恥ずかしそうに話を反らそうとそっぽを向くライディルに、イディアは微笑んだ。ライディルもイディアを横目で見、つられたように笑いだす。
「っしゃ、一息つこうぜ。奥の森に行ってみようと思うんだけど、あそこ入っていいよな?」
 イディアは頷いた。
「あまり奥に行くと聖域に迷い出るかもしれないから、普段は付き人としてエルフが同伴する事になってるわ」
「じゃあイディアがついて来てくれれば問題ないか」
 いきなり指名された本人は驚いたのか頬が一気に染まる。
「わっ、私!?」
「都合悪いか?」
 首を振ってノーを示すものの、頬が一気に熱くなった事で、頭の中まで火照ってしまっている。それを見た通りすがりの少女エルフが
「あ〜、イディア。もしかして彼氏〜?」
 とからかってくる始末。それを聞いたライディルは
「はっ!?」
 と思わず赤面して聞き返した。イディアはさらに紅くなる。
「そっ、そうじゃな……エリィウィス!」
 どうやら名を呼ばれたらしい少女はクスクスと笑いつつ「冗談冗談」と言って去っていった。
 だが、イディアは自分で否定した事がなぜか、言葉には表せないがなんとなく胸が締めつけられたような、そんな感じがした。
  
「もう名前で呼んでもらえるようになってたなんてな。なんだか意外性っていうか……」
「今まで『落ちこぼれ』だったんだもの。しょうがないかもしれないわ」
 そう言って苦笑するイディア。
 感情がまた、戻ってきた。
 ライディルのように笑いたい時に笑え、辛い時にそれを表に出す事が、出来るようになった自分が嬉しい。
 森に入って少しすると、イディアは持ってきていたオカリナを吹き始めた。それは、最初は悲しい調べだったのに、後の方になると勇気づけられるばかりか楽しい、嬉しい気分にさせてくれる調べだ。ライディルは聞くうちに周りに動物たちが集まってきていることに気付くも、それをイディアに教えようとはしなかった。驚かせた方が面白いというものだ。
 イディアが吹き終わると、ライディルは彼女を小突いて回りの茂みを指差す。
「あっ、リス」
 どうやら最初に目に止まったのがそれらしい。が、彼女が声を出すと、茂みの奥地へと慌てて逃げ出すような音が聞えた。イディアは多少残念そうに、わずかに頬を膨らませる。
「しゃあないだろ。いきなり声出したらビビるって」
 ライディルはそう言って笑いだす。が、次の瞬間身を固めた。イディアは驚いて「どうしたの」、と尋ねようとしたが、ライディルに止められた。
「…………くそっ、早く気づいとくんだった……」
 イディアはまさか、と思って辺りを見回す。程なく近くの茂みにモンスターらしき異形の陰をとらえる事が出来た。イディアはついライディルの上着を掴む。いつの間にか、動物達は姿を消していた。
「……オカリナを吹いたから……?」
「……かもしれねーけど……なんかおかしいぞ、あれ」
 あれとはおそらくモンスターの事だろう。イディアはライディルに魔術を使った方がいいか目で問うと、ライディルは首を振った。モンスターらしき陰はぐらりと揺れ、ふいにかき消すように姿を消した。
「……なんだった」
 いきなりイディアの口をライディルが押さえる。黙っておいた方がいいらしい事に気づいたイディアは頷き、解放されると、こんなときでも一瞬心臓の鼓動が早まった原因が分かった途端に頬が一気に上気しそうになる。今はそれどころじゃないのに……。
 一方のライディルは辺りに視線を走らせつつ、剣の柄に手を置いていた。いつでも抜ける体勢のまま、出来るだけイディアを逃がしつつ戦えるルートを考える。しかし、ここは集落から多少離れた森の、しかも獣道ばかりが走る奥地付近らしいのだ。そこまで来ている事は分かっていたものの、もう少し危険に配慮しておいた方がよかったなと内心後悔する。
 しばらくそうしているうちに、イディアはモンスターがいなくなったのだろうかとライディルの服から手を放した。そのとき、彼女の視界が一瞬のうちに全く違うものに変わっていた。
「きゃっ」
「っ!? イディア!?」
 驚いたライディルが剣を抜き、何かを貫く音が聞える。それは皮膚を切り裂くのではなく、液状の何かを勢いよく斬ったような音だった。ドロドロとした何かが噴出す中、ライディルはイディアの身体を傷つけないよう攻撃を繰り出す。イディアは頭まで液状の何か――スライムに覆われてしまっていた。
 苦しい……。
 もがきたいが、そうすれば余計苦しくなる。口を手で押さえたいが、そうするだけでも更に苦しくなる。かといってこのままではライディルもイディアを傷つけられないという事から攻撃がしにくいはずだ。しかし、イディアは脱出する術を持ち合わせてはいないと、自分自身がそう納得していた。
「イディアッ! おいっ!」
 剣で敵を切りつけつつ必死で名を呼んでくれる、くぐもったライディルの声。ふと顔が解放され、一瞬のうちに体が自由になる。スライムは奥地へと逃げ込んだらしい。
「大丈夫か……?」
 咳き込むイディアに心配そうに尋ねるライディル。イディアは頷き、空気がここまでおいしいものだとは知らなかったとでもいうかのごとく息を吸う。
「わりぃ。もっと辺りに気を配ってれば良かったな……」
 暗くなるライディルに首を振るイディア。
「私にも責任があるわ。戦いはやった事なくても……蜂の巣に蜂蜜を取りに行くぐらいの危険はした事あるもの」
「いや、危険の度合い天と地の差があるぞ?」
 ライディルの突っ込みに笑うイディア。こっちはマジで言ったんだけどな……と思いつつ、ライディルも苦笑する。
「もうさっさと帰ろうぜ。スライムに仲間呼ばれたんじゃこっちがたまんねーよ。集落に戻ったら人手もあるし、スライムの事知らせる事も出来るしな」
 うん、とイディアは頷いた。そうして歩き出した瞬間、皮膚を切り裂き、そこから噴出す何かの音がイディアの耳に届く。一瞬のうちに悪寒が走り、ライディルの方を見た。
「あっ!?」
 倒れかけるライディルを必死で支えようとするも、彼の方が体格が上回っているために倒れてしまう。上半身を起こして傷口を見れば、それは刃物で切りつけられたばかりか深く裂かれていた。
「ライディル……!」
 さすがに心臓までは届いていなかったらしい。荒く辛そうな呼吸が聞えてくる。サク、と草を踏みしめる音を聞き、頭の中が真っ白になりかける。目の前にいる見た事もないモンスターは、己も持つ血が染みつき、今もなお滴り落ちるそれがついた長く鋭い爪を構えていた。
「ぁ……」
 夢だと思いたかった。魔術が使えるようになった事も含めて構わないから……だからこんなものは見たくない……
 ライディルが……!
「逃げ……」
 ライディルが必死で何かを伝えるも、途中で血を吐いてしまい、それも途切れる。立ち上がることもままならないはずなのに、イディアを庇うようになんとか上半身を起こした。イディアの下半身が自由になる。
「動いたらだ」
「いいから逃げろっ!!」
 その一言にびくりと身体を強張らせるイディア。逃げろって……でも……!
「じゃあライディルはどうするの!?」
 ライディルだって逃げないと殺される……でも……
「そんな怪我じゃ走れないでしょ!!」
 お願いだから一緒にいさせて! イディアは目を閉じた。目を閉じて、立ち上がって――出来る限り早口で詠唱を始める。
「――ファイアボール!!」
 確かに直撃はした。手ごたえもあった。が、相手はそれを意に介さずライディルにトドメをさすべく爪を振り上げた。
 イディアは叫んだ。何を叫んだのか自分でも分からなかった。
 ただ、ライディルとモンスターの間に割って入ろうとしたのに。
 したはずなのに。
 振り上げられた爪はライディルを引き裂いていた。その音が聞えて、でも自分は無傷で。その事が恐ろしくて、後ろを振り向きたくなかった。
 頭の中が真っ白になる。
 目が熱くなり、でもその熱さは感じられているようで感じられていなくて。目から伝うそれの感覚も、その軌跡が冷たく冷やされていく感覚も全くなくて。
 ただ、頭の中が真っ白だった。
 ライディルの笑顔が、
 困ったような顔が、
 笑い声が、
 自分の名を呼んでくれたときの声が、
 辛そうな顔が、
 やかんで火傷しそうになった手を見てくれてた時のあの顔が
  
 声が
  
 一気に記憶の宝箱から飛び出してきた。開けてはならないプレゼントを、開けたらもう二度と見れなくなるかもしれない、大切な想い出を。
 開けたくないのに、それは走馬灯のように彼女の頭の中を、脳裏を、心を掠めて放たれてしまった。
「いやああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
  
 森の中
 彼女は叫んでいた
 叫んだ衝撃でいったい何が起こったのか
 彼女は今でも皆目つかなかった
 ただ
 静かに泣く自分がいて
 その自分に誰かが近づいてきて
 何か言ってくれて
 言った後一緒にこないかという風な事を言われて
 ライディルのための何かを作った後
 彼女はエルフの姿ではなく、被るだけで妖精の姿へと変わる帽子をその誰かからもらい
 彼女は今もなお、妖精の姿で
 孤独に、悲しみに、もう二度と彼に逢えない事の辛さを耐えつつ
  
 今を生きるのだった――

2006年11月完結




*あとがき。*
 短編なので作中に(汗)。この小説は恐らく短編の中で一番最初に書いたオリジナル小説だった気がします。小学校、中学校と苛められていた当時、自分にも非がある部分に気づかないまま、いじめの事を一方的な見方をして書いていた時期でした。今となっては懐かしい作品で、同時に消したいと凄く思う部分もあったりするのですが(^^;
 やっぱり、こういう時期があった事を忘れて生きるのも性に合わない性格でして。「消してえーっ!」とか叫んでても、サイトに掲載しようと考え、今に至ります。
 いじめはしかたのないものなのか。する人間が悪いのか。される人間が悪いのか。
 昔は出せた答えも、今は正しいのかどうか、あまり解決できたとはいえませんが。

 何か少しでも、心に止まる何かがありましたら嬉しいです。

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