11
告げられた言葉の意味が、真意が分からない。
どうして、と。
尋ねた言葉が震える。
勇んで来たにも関わらず、及び腰になる自分に仁科は怖い位の笑顔のまま「言葉の通りだよ」と続ける。
「真中は、単に俺って存在が珍しかっただけだろ。今まで面と向かっていってくるような奴がいなかったから、その特別感が恋愛感情とごっちゃになってるだけなんじゃないの」
「違う」
「違わない。俺の言動に影響されて流されたってのもあるだろうけど、今から距離を置けばちゃんと勘違いだって気付けるから」
表情の形を変えぬまま、冷や水を浴びせられるようなぞっとする言葉が並ぶ。
さすがに受け入れてたら俺も手放せなくなるかもしれないから。引き戻せるうちに、諦めさせてくれ。
懇願にも似た言葉があまりにも真摯で、想いを伏していた間も、今も、仁科が苦しんでいたことを知る。そのむき出しの想いに触れていることが痛いぐらい伝わってくる。心臓が引き裂かれそうだ。
仁科の言動で自分か一喜一憂している間、彼はずっとこんな思いをしてきたのだろうか。
「真中は優しいよ。これは皮肉じゃなくてさ。良い意味で真中は変わってない。俺みたいな奴にも優しくて、隙だらけで。だから俺の気持ちも否定しないでくれたし、そんなんだから俺みたいなやつに簡単に騙されるんだよ」
そこが愛しくて、可愛くて、嫌になる。
語り口は淡々としているのに、その裏で声にならない仁科の苦しみが叩きつけられるようだった。
人の想いは、重い。逃げ出したい。
俺のせいじゃない! そう叫んで今にも逃げ出そうとする自分を叱咤し歯を食いしばり必死で拳を握り込んで引き留める。
逃げられない。
逃げられないだろ。
だって、
「……仁科だから、」
こっちを見ろ。言いたいことがあるならちゃんと言え。
だって、まだ何も伝えてない。
怖くても一歩、踏み出して。
足早に近付いてその頬を捕える。
こっちを見ないなら、向かせるまでだ。
「お前だから、隙を見せたんだろ!」
綺麗に終わらせようとするな。
勝手に決めつけるな。
頭は良いくせに、どうして肝心なことには気付いてくれないのか。
過去の甘えた素振りを本当に素直な反応だと信じているのか。他人からの好意に鈍くても、自分の感情くらいは知っている。
例えそれが勘違いから始まったとしても、その全てを否定される謂われはない。
「そりゃあ、最初は思い込みからかもしれなくても、仁科が好きだって認めたのは俺だよ? 誰かに言われたわけでもないし、悩まなかったわけでもない。俺だって戸惑ったりどうしようもないって思った日だってあるよ! それでも好きだって諦められなかったからこうしてるんだろ」
「元々男が好きだってわけじゃないでしょ」
「知らないよ、ちゃんと人を好きになったのだってこれが初めてなんだから」
「だったら尚更」
「だったら、何? 性別が問題だっていう? じゃあ、仁科と一緒に帰れるだけで喜んだ俺は何? 勉強教えてもらうだけで心臓爆発しそうだったのは、他にどんな理由があるの。押し倒された時だってショックよりも先に期待した俺はなんだって言うんだよ!」
誕生日を祝われた時は心の底から嬉しいと感じた。
バレンタインにかこつけて貰ったお菓子は大切に食べた。
その隣に女子がいるだけで勝手に傷ついた。
一緒に買い物に行けただけで浮かれた日だってある。
仁科をおかずに抜いた翌日、顔をあわせることがどんなに気まずかったことか。
偽物なんかじゃない。
この感情は、今日まで大切に育ててきた恋心は、誰が何と言おうと真中自身のものだ。
「その気持ちが全部嘘だって言うのかよ。俺の感情まで勝手に否定すんな!」
気が付けば噛み付くように叫んでいた。
冷静にならなくては。話し合いに来たのに。
頭の隅でそう思っていても、感情ばかりが前に出て、溜めこんでいた想いが堰を切ったように溢れる。
分かってないよ、と捕えた手の中で仁科は告げる。
彼もまた、余裕なない形相で。頬を挟む手をやんわり退けながら、喉を揺らす。
「俺はさ、諦めたいんだよ、真中を」
「……どうして」
「今、こうして一緒にいれることを純粋に喜べたとして、この先どうするの。これから先、大学や社会に出て上司や家族に男と付き合ってるって言える? それが真中の人生の妨げにだってなるんだよ」
そうなるくらいなら、身を引く。
身を引くことが分かっているから、初めから諦める。
そういうことなのだろう。
真中への気持ちに気付いた時からそのことを知っていたのだろう。真中自身より真中のことを考えてくれたことだろう。
だから真中の気持ちに気付いていながら知らぬふりをしていた。
いろんなことを見通して最善の道を選んだ結果が、これだ。
世間一般の「通常」の道に戻れるように自分の気持ちに蓋をする。
真中の幸せのため。
そう言い聞かせて。
「そういう話じゃないだろ」
けどそれは、求めている言葉じゃない。
「誤魔化すなよ。俺のせいにすんなよ。俺が聞いてんのは、俺が知りたいのは、俺が仁科のことを好きなのと同じように、仁科の好きな人は誰かってことだろ!?」
「……真中が俺を好きとか。そんな都合の良い話」
「誰にとっての都合だよ! 俺の一番が誰かなんて他人には関係ないだろ!」
「ちょっと、言ってることめちゃくちゃだよ、分かってる?」
慌てふためく仁科の表情がやけに滑稽だったけど、それを笑う余裕もない。それどころかいつまでも煮え切らないその態度が腹立たしくて、肩を掴んで押し倒す。
いつぞの仕返し。
鼻先が触れ合うほどの距離に、レンズの向こうの目が見開かれ、ゆっくりと数回、瞬きを繰り返す。
「めちゃくちゃだって、なんだって良い。形振りなんて構ってられない。世間一般とか、客観的に見るとか俺にはもう出来ないし、そんな風に見てくれなくて良い。仁科はどう思ってんの。諦る以外の選択肢があるなら、どうすんの。俺が知りたいのはそれだけ」
それで振られたとしても素直に受け入れるつもりでいる。
仁科の本心が知りたい。
そのためだけにここに来たのだ。
「もう、友だちまで巻き込んでギスギスすんの、やだ」
不覚にも声が揺れる。
爆発した感情が涙腺を刺激したが、涙が零れる寸前で堪える。
それでも自分の中で渦巻いていたものを全て吐き出したせいか、不思議なほどすっきりとしていた。
真中の身体の下。しばらく呆然としていた仁科は声を挙げて笑いながら「敵わないなぁ」と腕で顔を覆う。
暫くの沈黙に堪えかね、さすがに大勢を保つことに疲れた。
覆い被さる体勢を変え、ベッドの端に移動する。
沈黙を破ったのは真中の手首を掴んだのと同時。
「昨日、さ」
真中の左手に巻き付く時計をなぞりながら。
耳へと届くその言葉はひどく弱々しく聞こえる。
「みなみに怒られてさ」
「殴られたって?」
「本気で殴られたけど、それよりも言われたことの方がきつかったかな」
ゆっくり身体を起こし、昨日の出来事を訥々と語り始める。
その横顔から質問に対する答えを想像するのは難しかったが、さっきのように否定されることだけはないだろう。
心音はいつにも増してうるさかったが、続く言葉に耳を傾ける。
「ちゃんと、話をしろって言われてもさ。勝手に責めて傷までつけた男がどの面下げて会いに行けって話だよ」
「俺にも非はあるだろ。誰に対しても無神経だったわけだし」
「違うよ。俺はね、あの時、真中を利用して切り捨てるつもりだったんだよ」
真中も。この恋愛感情も。
きっと手に入らない。叶うことのない恋だから。
諦められるきっかけを常に探していた。
自分一人ではどうにもならなかったから。
真中の手で終わらせて欲しかった。
例え友人に戻れなくても。
後で大きな傷を作るより、今、終わらせてほしかった。
「嫌われたいならもっと酷いことだってできたんじゃないの」
あの状況ならキスなんて温いこと言わず襲うことだって出来た。一発やってサヨウナラ。マンガや小説にありがちな、最悪なパターンは他にもいくらでもある。
「そんな、なんの得にもならないこと、出来るわけないじゃん」
「それ、誰が基準?」
「……真中」
そこでどうして「真中」になるのだろう。
「さっきも思ったけど、どうして自分を優先させないんだよ」
「さぁ? 気が付いたらそうなってたんだから仕方がないよ」
「それじゃあ、仁科の気持ちはどこに行くんだよ」
「どこにでも行けるよ。真中が幸せなら。実際、学校辞めて親のとこ行こうかなってのも考えたし。物理的に距離置けば少しは気持ちの整理もついて何年かしたらまた普通に話せるかなって」
「はぁ!?」
「さすがにそれは極端すぎて保留にして貰ったけど」
それでも、保留にするまで話は出たのだ。
海外へ行く。それを現実に移されたら、学生の自分には為す術なんてなかった。非現実的で途方もない距離。
そこまで彼を追い詰めた事実。それを実感する。
「なんでそれが俺の幸せに繋がるんだよ」
「うん。でもまあ、俺なりにも理屈があるんだよ……」
最後まで話したいから。ちゃんと聞いてくれる。
そう引き留める言葉はやけに弱々しく響いて。素直に頷く意外に選択肢は残されていなかった。
「真中が、俺のこと好きなんだろうなってのはなんとなく、分かってはいたんだ」
「……いつから?」
「核心を持てたのは今年に入ってからだけど。願望混じりでいけば、随分前からだよ」
だって、真中、分かりやすいんだもん。
聞き慣れた、友人たちからの言葉をまさかここでも聞くとは思わなかった。滝田の言うように「なぁんだ、結局両想いじゃん」で終わらないのは、相手が仁科吾平その人だから。
「でもさ、両想いだからって必ずしも幸せってわけではないでしょ」
物語であれば、ここで終幕。
どちらも幸せに暮らしました、で終わらせることは出来るけど。
ここは現実。現代。物語の先は続く。
「男同士とかが問題なら。そんなの俺は気にしない」
「真中は気にしなくても、周りはそうじゃないよ。この先、いつ別れたとしても男と付き合っていた事実は真中の将来に影響を及ぼすよ。世の中の人すべてが、みなみやたっきーみたいに寛容と限らないし。真中は気にしないかもしれない。けど、俺は無理。そんな想い、させたくない」
訥々と語られる仁科の想いは、重い。
真中よりも真中のことを考えて、ずっと先のことを考えていた。
「本当は、随分と前から諦めようって決めていたんだ。例え両想いでもなかったことにして、大学行って会社に勤めてさ。時間をかけて忘れようと思ってたんだよ」
でも、無理だった。
今回のことで、きっとどうにかなれると思った。
それでも、やっぱり、なかったことには出来そうにない。
「諦めきれない」
縋るように抱き締められたことに、目頭が熱くなる。
仁科の言う通り、ここで互いの想いを切り離すことも幸せへと道かもしれない。
けれど、だけど、やっぱり。
諦めたくない。
手放したくない。
その感情は、真中だって同じだ。
「俺を幸せにしようなんて思うからややこしくなるんだよ」
他人に優しくするなと責めるくせに。
当の自分は真中を基準に考えているのだから世話がやける。
「さっきも言ったけど、誰の都合も関係ない。自分を基準に考えなよ。そりゃあ男同士ってことに引け目はあるかもしれなくても、少なくとも俺は、仁科との縁が切れるくらいなら後ろ指刺されたとしてもホモであることを公言して生きていくことを選ぶよ」
万が一、後悔することはあってもその先に不幸ばかりがあるとも思えない。幸せになる手段はいくらだってある。
「別に仁科に幸せにして欲しいなんて思わないし」
「……どういう意味」
「俺が幸せにすればいいだけの話じゃん」
まるでプロポーズだ。
真中の発言に唖然とする男は、肩口に埋めたばかりの顔を上げ、間抜け面。それすら愛しく思えるのだから恋心は恐ろしい。
「仁科はどうすんの」
世間の目ではなくて。
仁科と真中。
答えは互いの中にしかない。
我儘を言えばいい。
一年前、そう教えてくれた。
今度は、自分が返す番。
それでも尚、答えに迷う仁科は素直じゃない。
ならば、とっとと腹を括れ。
痺れを切らし、その頬を再び捕まえて。文字通りその唇に噛み付いた。
「え、ちょ……っと、まなか?」
「もう黙って俺のこと好きっていいなよ。何があっても俺が守るから。だから、……好きって言ってよ」
もはや告白というより吐き捨てる形に近いけど。
優しい言葉は十分出し尽くした。
開き直るようにな言い方に、眼下の表情はいつもの澄まし顔なんてものはなく。それどころか余裕のない泣きそうな表情。
「言ってることもやってることも、むちゃくちゃだよ」
ホント、勘弁して。
弱弱しい言葉が漏れる。
口よりも雄弁に目が今にも泣きそうなほどに揺れていた。
理屈でガチガチな彼の本質は、どんなものより柔らかくて繊細。
「俺だって自覚してる。でも、必死なんだよ」
仁科に。
隠れた言葉を探し当てる彼は。溺れたように息を止め。
信じられない。長い溜息と共に切なく想いを打ち明けた。
「……好き」
「知ってる」
その一言を聞くために、言うために。
一体どれだけの遠回りをしたのだろう。
とっても単純なことなのに。
「俺も、好き。大好き。なにより大事」
この感情を正確に表す言葉が分からない。
『大好き』だと子どもっぽい。
『愛してる』じゃ背伸びをしすぎてキザに聞こえる。
近い言葉を並べても、それでも足りない。
ただただ、まっすぐ。気持ちを告げる。
言葉だけでは足りなくて精一杯抱き締め、体現。
まなか。
名前を呼ばれ、縋るように回された腕の感触が夢のよう。
「ホント、信じらんない」
夢心地は彼も同様。
肩口に熱く濡れた感触を覚え、揺れる言葉にまた愛しさをの募らせる。
静かに感情の昂ぶりを押さえながら、その背を叩いてあやす。
自分よりも大きいと感じていた背中が今日は小さい。
こんな風に抱きつくことも、抱きつかれることも、夢の中でしか見たことがなかったから。
嬉しくて、切なく、愛しくて。
堪らない。
残暑の厳しさも冷房が効いた涼しい室内では関係ない。
抱きつかれた体温が気持ち良い。
とくとくと、あやしていた背中から伝わる心音が心を和ませる。
「真中……?」
涙も止まり、幾分平静さを取り戻した仁科の声が鼓膜を揺する。
答えたい気持ちは山々だが力が抜けて動くことが出来ない。
そういえば昨日は殆ど眠れなかった。
「寝てる?」
違う、起きてるけど。
瞼と唇が重くて動かないんだ。
支えていたはずの立場なのに、気付けば膝の間で抱きかかえられていた。
とろとろと襲い来る安心感。その心地好さに抗えない。
ごめん、仁科。ちょっとだけ、我儘聞いて。
起きたら、うんと甘やかすから。
まともに形にならない言葉の一つひとつに答える声。
背中に回っていた手が、頭を撫で、額を通って頬へと流れる。その感触すら気持ち良い。幸せ。
夢現、ぼんやりとした視界の中。
「まいったなぁ」
寝入る直前。抉じ開けた瞼の隙間から見た仁科の笑みは、記憶の中のどれよりも極上で幸せそうだった。
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