10
閑静という言葉が似合う住宅街。
駅から迷うことなく辿り着いた仁科の家。
働きに出ている人も多いせいか、周囲に人の気配もなく。
微かな外れの音が緊張を煽った。
落ち着け。
緊張なんてしてられない。
扉の前で深呼吸。ひとつ。
意を決して押したインターホンは扉の奥で軽快な音を響かせる。しばらくしてスピーカーから聞こえた声はいつもより低く、機嫌が悪いようにも思えた。
「真中、だけど」
「……学校は?」
低い声が更に不機嫌さを増す。
表情が見えない分、圧力を感じさせる。
「休んだ」
「へぇ、そう。帰って」
ガチャリ。と、ぶつ切り。
あからさまに拒絶されたと分かる態度に早くも心が折れそうになる。
もう一度、二度。インターホンを押してみても反応はない。
無言のスピーカーがただ慰めるように存在するだけだった。
先ほどとはまた違う意味で重い溜息が漏れる。
扉の鍵は開けて貰えそうにない。
出来れば仁科の手で開けてもらいたかった。
滝田から貰ったお守りはやはり必要だったらしい。
鍵を借りたことも勝手に入ることも仁科はきっと許しはしないだろう。
後で幾らでも怒られるから。
使えるものは何でも使う。
ここまで来たならなりふりなんて構ってられない。
ためらうことなく鍵穴へ。
右に回した鍵は簡単に施錠を解いて迎え入れる。
重い扉の向こう側。
その内側に身を滑り込ませた。
「おじゃま、します……」
静まり返った家の中に自分の声だけが響く。
薄暗い玄関に返ってくる言葉はない。
人の気配のない仁科家の玄関。こんな状況のせいだろうか、人の気配のない家の中はひどく心細く感じてしまう。
勝手に入った後ろめたさからか、一歩踏み込みことにすら慎重になる。音を立てずに靴を脱ぐ際に視界に入った靴箱の上、伏せられた写真立て。
触れようと手を伸ばした、その矢先、
「なにやってんの」
冷たい硬質な声。
スピーカー越しに聞こえた声が今度は直に届く。
リビングへと続く扉の前に部屋着姿の住人。
ペットボトルを携えた人物は明らかに不機嫌顔。
声同様、冷ややかな視線をこちらに向けていた。
「鍵、どうしたの」
「滝田が貸してくれた」
「……余計なことを」
忌々しげな口調。
怒鳴り散らすでもなく、静かに告げるその様子に胃の辺りがチリチリと、燃えるように痛い。
それでもここから出て行く気はない。
握っていた鍵は後ろ手に隠し、目の前の対象を真っ直ぐと見つめる。
ここでこれを返してしまえばすぐにでも追い出されて閉め出されることは目に見えている。彼はそういう男だ。
自分にとってのお守りは彼にとっては迷惑な物でしかない。それでもあからさまな態度に出されると胸が痛い。
「帰れって言ったよね」
「……話があるから」
「俺にはない」
ばっさり。切り捨てられるのは前と同じ。
話す気などさらさらないとでも言うかの態度。
でも、会えた。やっと会えた。
ようやく目が合った。
ここまで漕ぎつけたんだ。もう、引くわけにはいかない。
「じゃあ、ここでいい。聞いて」
「やだよ。早く学校行けば? まだ授業には間に合うでしょ」
言い捨てて背を向ける。自室に続く階段を昇る彼とは、もう眼も会わない。
待って。引き留めたところで聞く耳を持つはずがないし、振り返ることも初めから期待してない。
こっちだって黙って帰る気なんてない。
閉め出されなかっただけマシだ。
慌てて靴を脱ぎ捨てて階段を駆け上がる。
音を立てて締まる扉に飛び付き、乱暴にドアノブを押し下げる。しかし華奢なノブは水平を保ったまま。ピクリとも動かない。
施錠機能はないはずだから扉を隔てたその向こうに、彼はいる。
「仁科、ここ開けろよ」
「しつこいね、真中も。話ならそこでも出来るでしょ」
「それだと電話と変わらない」
「じゃあ、電話にしようか」
「電話にも出ないくせに。何言ってんの。顔、見せてよ」
この一週間、何度掛けただろう。
着信履歴は受け取ってもらえなかったものばかりで埋まっている。幾度も目にした十一桁。今では空で言える。
「だから言ってるでしょ、帰れって」
「やだ」
「俺から話すことは何もないって。この間のことも、これ以上謝る気はないし。顔見ようが見まいが一緒。それでも話したいっていうんなら、どうぞ、お好きにしてください」
顔は見えないが、分かる。
投げやりなその言葉に、
「うるさい……!」
――堪忍袋の緒が切れた。
「嘘吐いてもいいよ、どんな態度だっていいよ。けどこっちは顔見て話したいって言ってんだから、いいからここ開けろ!」
声を荒げ、言葉を吐く。
勢いに任せて扉を殴り、蹴り上げた。
普段の自分は想像もつかない態度に相手も驚いたのだろう。
押さえつけられていたドアノブの力が緩む。今がチャンスとばかりにこじ開けた隙間に足を入れる。
「――いっ、」
咄嗟に閉められたドアに脚を挟まれる。
太腿に食い込む板は容赦なく食い込む。
それでも推し負けるつもりはなかったが、挟まれた障害物に気付いたらしい。隙間から見えた仁科の「しくじった」という顔。
バツが悪そうに歪む顔。
それと同時に止めた抵抗にしめたとばかりに部屋の中へと入り込む。
やっと、やっと話せることに安堵する。
「……ごめん」
目を合わせることもなく、先手とばかりに告げられる言葉。
不明瞭な言葉の先。自然と眉根が寄る。
「何に対してのごめん? 今、脚を挟んだこと? 押し倒したこと? 噛んだこと? ずっと無視してたこと?」
「脚、痛くないの」
「それより質問に答えて」
「……全部」
「なにそれ、ずるい」
無性に腹が立って仕方がない。
ようやく取り次いだこの場を、たった一言で終わらせてなるものか。不貞腐れたような。責めるような言い方になってしまうのは仕方がない。考えるよりも先に言葉の方が形になる。
「自分だけ謝って終わらせる気? そんなんで俺が許すわけないじゃん」
「その言い方、みなみみたい」
「そうやって誤魔化すのもなし」
手強いな。
そう呟かれた言葉は誰に向けてのものなのか。
皮肉気に笑った彼は観念したと肩を竦め、ベッドの上へと移る。もう逃げないよ、と言いながら部屋の扉から対角線上に移動する辺り距離を感じる。
座るように促されたがそれを拒否し、扉の前を陣取る。
「あの子に、連絡したの?」
「したよ。もうメールもラインもしないって」
「そう」
あの子、が誰で。なんで今、そんなことが関係あるのか。
そう思ったが、そういえば切欠は、自分の曖昧な態度のせいだった。
誠実に告げたつもりではいるが、今頃彼女からその周辺へ自分の悪評が伝わっていることだろう。
「ごめんね、人の恋路を邪魔して」
「仁科に言われたからじゃないよ」
「別に俺は、」
「仁科が言うとおり、俺も優しくないからね」
「それ、単なる皮肉だって気付かなかった?」
「知ってる。でも、最後まで、ちゃんと聞いて」
彼の言葉を遮り、先手を打つ。
まだ、彼に喋らせてはいけない。
また丸め込まれてしまう。
自分の気持ちだけでいい。聞いてくれればそれでいい。
縺れる舌を何とか回し、必死の思いで言葉を繋ぐ。
「好きな人には好かれたいって思うのが人の心理じゃん」
「え?」
「俺は、仁科の前だから、優しく在りたいんだよ」
流されやすい。頼まれたら断れない。
元々そういう性格ではあるけれど、そこに打算がなかったわけでもない。
「仁科の前だから、かっこつけたんじゃん」
「なにそれ、告白みたい」
仁科の声が上擦ってかすれてるような気がする。
今さら心臓の音が邪魔をして気にしていられなかった。
「告白だよ」
好きだって知っている癖に。
本当に意地が悪い。
「仁科がいたから俺は変わろうと思ったし、変わった後も好い奴と思われたかったんだよ」
出会ってから一年半。
彼に向けた感情はたったの一言で表せるものではなかったが、それでも言える。
真中にとって仁科吾平という人物はどうでもいい存在ではない。
去年の春に出会い夏に自覚した想いは、冬を越え大事にあたためられもう一度夏を迎える頃には抱えきれないくらい大きくなってしまった。それが勘違いだというならこんなに泣きそうになっていない。
一歩近づくごとにその距離が自分だけに許されていることに、もう気付かないふりなんかできなかった。
嬉しかったからだ。
許されることが身震いするほどに嬉しかったからだ。
だから、自分もなにかを返したいと思った。
できるだけやさしくしたい。仁科と、仁科の生きる世界にとってやさしい人間でありたい。
そう思うことは別に間違いじゃなかったはずだ。
「それが伝わりにくいって言うんだったら仁科にしか優しくしない。そうすれば分かりやすい?」
それがどうしてこうなるんだ。
怒りにも似た感情の行き場を失って、頭の中が白んでいく。
冷静にならなければ。
仁科が好き。
その想いをちゃんと伝えたい。
真中の気持ちを初めから知っていた仁科に今更伝えたところで、返される言葉は簡単に想像がつく。
それは先週の、この部屋を閉め出された時にも十分感じだ。
精一杯自分の気持ちを伝え、仁科の本音を引き出さなければならない。
いつも余裕の笑みで本心を隠し、真中を受け入れて甘やかす癖にいざとなると遠ざける、その真意を。
例えそれがどんなものでも、向き合うと決めたからには、関わると決めたからには、まずは化けの皮をはがして本当の顔を見せてもらわなければならない。
「そんなヤケクソみたいなやり方」
「仁科のことが好きだからだよ」
こんな必死になって。
縋るようにいきり立って。
こんなのは自分じゃない。
でも、それで仁科がまたこっちを振り向いてくれるというのなら。
変わることだって厭わない。
「なあ、ちゃんと聞いて。俺、好きだよ。仁科が誰よりも大事」
一つひとつ。
微かに声は震えたけれど、丁寧に発した言葉。
目を反らすことなくそれを受け止める仁科の目はいつになく優しい。穏やかに笑う彼は俯いて、
「勘違いするなよ」
聞いたこともない底冷えするような音の冷や水を浴び、背を伝う汗に凍えた。
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